ブログを書く時にいつも思うことがある。
真っ白な投稿ページに、何を書こうかなって。
今日感じたこと、思ったこと、起きたこと、真面目なこと、などが主だけど。
まあ、自己満足で書いてるだけだから、社会通念上一般的に公序良俗なことであれば、問題ないんだろう。
別に作家でも何でもない。
締め切りがあるわけでもない。
でも、一応、毎日更新しようと努力はしてみる。
日記でもあるし、更新が止まれば、やがてネットに漂う遺書にもなるだろうし。
書籍化もできるらしいからな。
どこかで区切りをつけて、書籍にしておくのもありだな。
サーバーのデータが全部飛びましたってことがないわけじゃない。
そう考えると便利な世の中になったもんだ。
さて、話は変わって、これまた日々思うことがある。
どうしたら、人を助けられるか。守れるか。
何のため?
誰のため?
念のため。
方法、手段は人様々。
それが医療なのか、法律なのか、ふいにかける何気ない言葉なのか、指先に触れる体温なのか。
はたまた、それ以外の予測不能な感情なのか。
あまりガチガチに考えると、人は動けなくなるからな。
例えば、電車の中で、お年寄りがいたら、席を譲る。
利害関係を意識して動く心と身体ではない。
残念ながら、世の中には利害関係だけで動く人間もいるけど。
その行動には少し勇気が必要かもしれない。
本当は自分も疲れて、やっと座れた座席なのかもしれない。
それでも席を譲る。
しかしながら、席を譲るという行動は一体何処からくるものなのか。
それは、席を必要としている人が目の前にいて、それに対して解決しようと動く心と身体だ。
その行動に対して、同じ電車に乗ってる人は、
「よくある光景」
として処理するのか、
「あぁ、あの人は良い事をしたという欺瞞に満ちた偽善者か」
と判断するのか。
大概の場合、前者と考えるが、後者もプラスされる場合もある。
さらにいうなら、そこまで考えるまでもなく、都会のど真ん中で人が倒れたとしても、
「自分には関係ないという顔」
をして、その横を足早に容易に横切る人間が大多数だろう。
さらに似たような事に、電車の人身事故がある。
私も通勤時に電車と使うので、駅に着くと、まず電車の交通状況を確認する。
たまに人身事故で遅れていることがある。
必ずしも、
人身事故=自殺
ではないが、鉄道会社は人と電車の接触でも、飛び込んでいる場合でも、
「人身事故」
として、表示をする。
ここで人によって考え方が変わってくる。
1例目、
「また電車が遅れてるのかよ 先方に電話しなきゃ」
2例目、
「また誰かが飛び込んだのか」
3例目、
「まあ仕方ないか 待とう」
いずれも思ったことがあるかもしれない。
この場合、正解があるわけじゃない。
東京の中央線では、よくあることだ。
仮に飛び込みであれば、ほぼ確実に、命が失われてる。
つまり、「ひとつの命が失われた」という結果だけが残る。
それに対して、上記3例は、人々が多数行き交う東京ではやがて忘れるだろう。
参考データとして、警視庁によると、日本の自殺者が10年以上連続で3万人を上回り、30数万人もの人々がみずから命を絶っている状況だ。
①年間自殺者3万人超 10年連続
②交通事故死者数の5倍以上
③イラク戦争で亡くなった米兵の10倍
④自殺による深刻な影響 国内で毎年200万人
⑤自殺死亡率 米国の2倍、英国の3倍
戦後66年。
平和を手に入れたはずの日本。
我々は今だ見えざる何かと戦っているのか。
先日、就活生が自殺したなんてニュースも目にした。
ひとり人がいなくなるだけで、相当なダメージなのに、
「なんだよこの数字は」
と思ってしまう。
ここでちょっとまとめ。
①どうしたら、人を助けられるか、守れるか。
②席を譲るという行為は、利害関係なんぞなしに起こる行動。
③日本の自殺者が多い。
なんかうまいことならんものか。
こう書いてきたら、医学、法学云々の問題ではなくなってきてるな。
Wikipediaによれば、
バブル崩壊 -
第136回国会(住専国会) -
金融ビッグバン -
アジア通貨危機(アジア金融危機) -
デフレーション - 第143回国会(金融国会) -
インターネット・バブル -
聖域なき構造改革 -
いざなみ景気 -
金融再生プログラム -
サブプライムローン -
世界金融危機 -
リーマン・ショック -
エコポイントの活用によるグリーン家電普及促進事業 -
欧州ソブリン危機 -
東日本大震災 -
福島第一原子力発電所事故 -
米国債ショック -
EU圏金融危機 - → NEW!
不況も大きく関係している。
失われた20年。
生きるのが辛い毎日って、言葉じゃ表せんだろうな。
生きるより死ぬことを選ぶ人が多い現実。
悲しすぎる。
どうしたら、救えるんだ。
絶望や悲しみに飲まれた人たちを、どうしたら、救えるんだ。
物理的にというより、人の心に関係してくる。
真っ白な投稿ページに、何を書こうかなって。
今日感じたこと、思ったこと、起きたこと、真面目なこと、などが主だけど。
まあ、自己満足で書いてるだけだから、社会通念上一般的に公序良俗なことであれば、問題ないんだろう。
別に作家でも何でもない。
締め切りがあるわけでもない。
でも、一応、毎日更新しようと努力はしてみる。
日記でもあるし、更新が止まれば、やがてネットに漂う遺書にもなるだろうし。
書籍化もできるらしいからな。
どこかで区切りをつけて、書籍にしておくのもありだな。
サーバーのデータが全部飛びましたってことがないわけじゃない。
そう考えると便利な世の中になったもんだ。
さて、話は変わって、これまた日々思うことがある。
どうしたら、人を助けられるか。守れるか。
何のため?
誰のため?
念のため。
方法、手段は人様々。
それが医療なのか、法律なのか、ふいにかける何気ない言葉なのか、指先に触れる体温なのか。
はたまた、それ以外の予測不能な感情なのか。
あまりガチガチに考えると、人は動けなくなるからな。
例えば、電車の中で、お年寄りがいたら、席を譲る。
利害関係を意識して動く心と身体ではない。
残念ながら、世の中には利害関係だけで動く人間もいるけど。
その行動には少し勇気が必要かもしれない。
本当は自分も疲れて、やっと座れた座席なのかもしれない。
それでも席を譲る。
しかしながら、席を譲るという行動は一体何処からくるものなのか。
それは、席を必要としている人が目の前にいて、それに対して解決しようと動く心と身体だ。
その行動に対して、同じ電車に乗ってる人は、
「よくある光景」
として処理するのか、
「あぁ、あの人は良い事をしたという欺瞞に満ちた偽善者か」
と判断するのか。
大概の場合、前者と考えるが、後者もプラスされる場合もある。
さらにいうなら、そこまで考えるまでもなく、都会のど真ん中で人が倒れたとしても、
「自分には関係ないという顔」
をして、その横を足早に容易に横切る人間が大多数だろう。
さらに似たような事に、電車の人身事故がある。
私も通勤時に電車と使うので、駅に着くと、まず電車の交通状況を確認する。
たまに人身事故で遅れていることがある。
必ずしも、
人身事故=自殺
ではないが、鉄道会社は人と電車の接触でも、飛び込んでいる場合でも、
「人身事故」
として、表示をする。
ここで人によって考え方が変わってくる。
1例目、
「また電車が遅れてるのかよ 先方に電話しなきゃ」
2例目、
「また誰かが飛び込んだのか」
3例目、
「まあ仕方ないか 待とう」
いずれも思ったことがあるかもしれない。
この場合、正解があるわけじゃない。
東京の中央線では、よくあることだ。
仮に飛び込みであれば、ほぼ確実に、命が失われてる。
つまり、「ひとつの命が失われた」という結果だけが残る。
それに対して、上記3例は、人々が多数行き交う東京ではやがて忘れるだろう。
参考データとして、警視庁によると、日本の自殺者が10年以上連続で3万人を上回り、30数万人もの人々がみずから命を絶っている状況だ。
①年間自殺者3万人超 10年連続
②交通事故死者数の5倍以上
③イラク戦争で亡くなった米兵の10倍
④自殺による深刻な影響 国内で毎年200万人
⑤自殺死亡率 米国の2倍、英国の3倍
戦後66年。
平和を手に入れたはずの日本。
我々は今だ見えざる何かと戦っているのか。
先日、就活生が自殺したなんてニュースも目にした。
ひとり人がいなくなるだけで、相当なダメージなのに、
「なんだよこの数字は」
と思ってしまう。
ここでちょっとまとめ。
①どうしたら、人を助けられるか、守れるか。
②席を譲るという行為は、利害関係なんぞなしに起こる行動。
③日本の自殺者が多い。
なんかうまいことならんものか。
こう書いてきたら、医学、法学云々の問題ではなくなってきてるな。
Wikipediaによれば、
バブル崩壊 -
第136回国会(住専国会) -
金融ビッグバン -
アジア通貨危機(アジア金融危機) -
デフレーション - 第143回国会(金融国会) -
インターネット・バブル -
聖域なき構造改革 -
いざなみ景気 -
金融再生プログラム -
サブプライムローン -
世界金融危機 -
リーマン・ショック -
エコポイントの活用によるグリーン家電普及促進事業 -
欧州ソブリン危機 -
東日本大震災 -
福島第一原子力発電所事故 -
米国債ショック -
EU圏金融危機 - → NEW!
不況も大きく関係している。
失われた20年。
生きるのが辛い毎日って、言葉じゃ表せんだろうな。
生きるより死ぬことを選ぶ人が多い現実。
悲しすぎる。
どうしたら、救えるんだ。
絶望や悲しみに飲まれた人たちを、どうしたら、救えるんだ。
物理的にというより、人の心に関係してくる。
それで一応気持ちの上で決着をつけたつもりなのですが・・・・・。
気持ちの区切りは難しいですけど、前見るために2つの目があると考えると、区切らず、背負って、生きていけばいいのかなと考えます。
なんでしょうね。
まあ、俗に言う、私もおひとりさまです。