昨日、高松に行きました。このところ毎週のように香川県に行く機会があります。今回は知人である田山泰三先生の講演会を聞きに行ったのです。田山先生は高校の国語の先生ですが、地方史研究家としても有名な方です。私は香川県の歴史調査をしている段階で知り合いました。たまたま同年齢なのですが、本当に優秀な尊敬すべき人です。写真は田山先生の講演風景です。
午前中は、先週からの続きの仕事で塩江美術館で橋本学芸員ともお会いして解読の続きをし、所蔵の書籍なども見せて頂きました。午後、高松市歴史資料館に向かいました。
高松市歴史資料館では、10月いっぱい、「知の体系 -江戸時代にやってきた自然科学-」という企画展示を行なっています。これは、香川大学図書館の「神原文庫」に所蔵されている中で江戸時代の自然科学に関係した古書を中心にし、そこに平賀源内・久米通賢・藤川三渓などの歴史資料も紹介するというものです。香川県は、江戸時代に優秀な学者が多く輩出し、その流れは現在にまで続いています。多度津出身の神原甚造氏は大阪地裁判事から香川大学初代学長となり、その驚くべき豊富な蔵書が「神原文庫」となっています。大阪から香川に赴任する際に貨車一台を別に借り切って運んだとのことです。江戸から明治に至る和とじの珍本をたくさん見ることができます。下記が資料館のサイトです。
http://www.city.takamatsu.kagawa.jp/kyouiku/bunkabu/rekisi/
今回の田山先生の講演の演題は「神原彩翅と与謝野晶子 -讃岐明星派歌人の系譜」というもので、神原甚造の歌人としての顔を紹介するものでした。明治33年に与謝野鉄幹が『明星』を創刊し、全国に近代短歌・俳句への関心が高まります。ここに、初期から香川県の歌人たちも多く投稿し、特に丸亀から集中的に多くの若い歌人・文学者が輩出していきます。これについて田山先生は、この当時、丸亀中学校には三土梅堂・山田幸太郎などの優秀な文人が教員をしていたことと関係するだろうとおっしゃっていました。この若い歌人たちの一人が多度津出身の神原彩翅(あやは)です。彩翅は甚造の歌人としての初期の名です。彼は明治36年に明星に入社します。同じ時期に入社した歌人では、石川啄木・萩原朔太郎・北原白秋・吉井勇などの錚々たるメンバーがいます。このころの彼の歌は次のようなものです。この歌にかんする与謝野晶子の評も残っています。
となりやの珠数屋の妻の口まめをよしとすむ身と問はば云はまし
神原彩翅は法曹界進出後は本名の神原甚造で歌を作り続け、昭和25年に香川大学の学長に就任する際も、その思いを15首の短歌にして四国新聞に発表しています。これはそのひとつです。
身も魂も大き使命に新しき力おぼえて起ち上がりつれ
晩年の短歌には故郷を詠んだものが多く見られます。
多度津の浜ぬれつつ浪と遊びける其の日は遠き昔となりぬ
「知の巨人」と言われる神原甚造の魅力的な一面を垣間見た講演会でした。それにしても、田山先生の資料収集能力と実地に多くの人にインタビューしながら研究を進めていく手法はすばらしいと思います。時折ユーモアも交えつつ聴衆を惹きつける話しぶりにも感心しました。今後もご活躍が期待されます。
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