ぱたぱた仙鳩ブログ

徳島から書道文化を発信します。

阿波踊り横断幕制作中

2012年07月28日 | インポート

Oudannmaku2 7月28日(土)、暑い日が続いています。でも仕事に追われていてかなり夏バテ気味です。授業は31日で終わりですので、ようやく少し時間ができそうです。

先週、徳島市の中心市街地活性化対策室に行って、4月から担当になった高田真希さんと初めてお会いし、横断幕の新しい企画について話し合いました。

昨年までは山田さんという支援員の方だったのですが、今年度から、組織が変わり、徳島商工会議所が上記の組織をこの施設に作りました。

籠屋町の横断幕は一昨年度から私がアイデアを出して始めましたが、2年間で4回ほどの企画で様々な言葉を書かせて頂いています。

今年は、阿波踊りのため言葉を展示することを数週間前に商店街と高田さんに投げかけて、了解を得ました。高田さんと阿波踊りに関する言葉、観光客をもてなす言葉を出し合い、10種類の言葉を決めました。

「歓迎徳島」 「ようこそ阿波おどり」 「情熱躍動」 「乱舞」 「豪快あでやか」 「おどる阿呆」 「おどらにゃソンソン」 「ヤットサーヤットサー」 「おもっしょいんじょ」 「えっとぶり徳島」

Oudannmaku1 横断幕は1m×4.5mです。この比率は、ほぼ半切画仙紙の比率(1:4)に近いので、担当の学生を決めた後は、その学生に言葉を選ばせ、半切で構想を練ります。作品構成は多少アドバイスを加え、草稿が完成したら、本番清書です。

横断幕は地上7mほどのところに架かります。上がると思ったよりも小さく見えますので、作品自体は力強く書いた方が映えます。

学生たちは一気に書いて、1~2枚で仕上げます。落款も入れさせて、最後に私が「四国大学」の印を押して完成です。

墨を乾かすのに1~2日はかかります。昨日でようやく10種類完成し、更にゼミ生には活性化対策室の看板も揮毫させました。

これらの作品は8月1日に籠屋町商店街アーケードに掲げる予定です。阿波踊りが終わる8月15日までは展示されます。

なかなか楽しい作品になりましたので、徳島を訪れる観光客の皆さんも含め、大勢の方に鑑賞して頂きたいと思っています。どうぞお楽しみに。

 


龍馬

2012年07月09日 | インポート

Ryouma 7月6日(金)夜、高知に泊まった時に、高知駅前の居酒屋で食事をしました。「楽家」というその店に架かっていた書の額です。

名物のカツオのたたきや、ウツボのから揚げなども頂きました。

高知駅前には、土佐藩の生んだ幕末の偉人、坂本龍馬・中岡慎太郎・武市半平太の3人の巨大な銅像が並んで立って、ライトアップされていました。

高知はいま、これら幕末志士たちを観光の目玉にして町おこしをしています。

居酒屋の書作品にもその影響は見えました。

創作意欲を刺激される作品です。

書の形と文の意味がうまく調和した時に、その作品はとても光を放ちます。この作品が1つあるだけで、その空間の波動が変わります。

町づくりの中に書が大きな力を発揮しています。書には大きな可能性が存在します。


少林寺拳法インカレ

2012年07月09日 | インポート

Shorinnji_2 7月7日(土)、高知大学で四国地区の大学の総合体育大会(インカレ)が行われ、部員4名を引率してきました。

少林寺拳法は、宗道臣が太平洋戦争で中国に兵隊として入った時に、たまたまカンフーの達人と知り合って拳法を習い、戦後に帰国した時、焼け跡の日本の状況にショックを受け、新しい時代に活躍できる若者を育てるために、香川県多度津市に道場を開いて始めたものです。

私は大学生になってから始め、卒業後、中学校教員をしている時までは続けて、2段まで取得しましたが、20年以上お休みしていて、大学教員になって顧問を仰せつかって、また関わるようになりました。

大会は「演武大会」です。昔は「乱どり」といって、格闘の試合もあったのですが、怪我人が多く出た時期があって、現在は単独演武・組演武・団体演武の三部門のみで、5人の審査員が技の切れ・美しさ・構成力を点数化して競っています。

四国大学の学生たちも熱心に練習を続け、この日も良い演武をしましたが、残念ながら今年は入賞までは行きませんでした。でも他大学の良い演武も見れて勉強になりました。美しい演武を見ると、とてもさわやかな気持ちになります。このような大会は練習のきっかけにすればいいことで、本当の目的は、技の向上や人間的な成長にあります。少林寺拳法を学んでいる学生たちと話していると、とてもさわやかな気持ちになることが多いです。人間的な成長の幅が大きいからです。これは、書道でも同じです。

学生時代に書道と少林寺拳法を並行して勉強していましたが、今考えてみるとこれは自分にとってはとてもよかったと思っています。一つの道で得たことはほかの分野にも大きな関連があり、互いに応用できる部分があることをいつも意識できたからです。

今は様々な学問の境界が無くなってきて、学問間が協力して、新しい時代の多くの課題を解決していかなければならない「学際」の時代だと思っています。

専門を深めることも大切なのですが、それが個人的な利益につながることを考えるだけでなく、今学んでいる学問が最終的にどの様な面で現在の社会や世界文明の進化に寄与できるのか、それを考えることがとても大切です。そのためには他の学問や、社会の動きにも興味を持ちながら進む必要があります。


鍬塚碑(くわつかひ)

2012年07月01日 | インポート

Kuwazuka 7月1日(日)、早起きして高松に拓本を採りに出かけました。古高松にある「鍬塚」の石碑です。碑の題額にある「鍬」(くわ)の字は偏を旁の下に入れた異体字です。

この撰文は久保桑閑によるもので、書も桑閑だと思われます。

この碑の横にはかつてこの地域の名医で庄屋だった久保家がありましたが、現在は空き地になっています。

碑文はこの地域の民が昔、井戸を掘る時に使った鍬を井戸の傍らに埋め、「鍬塚」と代々言い伝えてきました。延享5年(1748)にこの田主だった久保桑閑が撰文をして碑を建てたのです。碑文の中には、智永の筆塚、韓愈の硯塚に倣って、鍬塚を作ると述べています。

久保桑閑は宝永7~天明2年(1710~82)の人。宝暦2年(1752)、高松藩士として初めて長崎に遊学し、この遊学で書生として預かっていた平賀源内を同行させて最先端の蘭医学を学ばせました。藩儒の後藤芝山や柴野栗山の父軌逵とも昵懇で、栗山を物心両面で支援しました。当時の高松藩が生んだ2人の天才、栗山と源内を世に出した重要人物です。

この家は代々医師として活躍し、現在この家の血を引く久保正彰先生は東京大学名誉教授で日本学士院院長で、つまりは日本の学者の最高峰の方でもあります。人は歴史によって作られることを地でいっているお宅です。一昨年には久保正彰先生の講演をお聞きし、昨年の秋には先生とお話する機会がありました。穏やかで素敵な雰囲気を持たれた方です。

碑の高さは1.27m、幅は50cm、厚さは20cmです。

9月中旬に、高松市歴史資料館で、久保桑閑に関する企画展が開かれるにあたって、久保家の石碑・墓碑の拓本を依頼されて、先月から何度かこの地に通っています。

今日は、曇り時々雨の不安定な天候でしたが、この碑の碑陽・碑陰、そして久保家の墓碑を2基の拓本を13時までには済ませて帰宅しました。途中、10時からは栗山記念館で、館長さんや小川先生、資料館の山本さんとも打ち合わせしました。

蒸し暑く、汗が滝のように流れ、墓地では恐ろしい数の藪蚊の襲撃を受けましたので、ホームセンターに行って、藪蚊に効く虫よけスプレーを買って、さらに蚊取り線香もたいて作業をしたらたいへん効果があり、以後は快適に作業ができました。

学生時代に卒論で拓本を採って以来、もう30年以上この作業を続けています。もう総採拓数は200基を超えているのでなないかと思います。

今日は、湿気が高く、直射日光も風もなかったので、比較的のんびり作業ができて、まあまあの出来でした。でも大量の汗をかいて、シャツはびしょびしょになり、ズボンも泥だらけです。帰宅後はシャワーを浴びて、一杯のビールでほっと一息つきました。

書道は、机の上だけのものではなく、このようなアウトドアーの部分も重要です。