4月26日(土)、今年度の1~3年生と大学院生が参加する研修旅行がこの日に実施されました。目的地は大阪です。8時に大学を2台のバスで出発しました。とてもさわやかな快晴の天候でした。GWの初日でしたが、道路はさしたる混雑もなくスムーズに進んで、10時20分ごろに大阪に到着しました。最初の目的地は四天王寺です。ここは聖徳太子が6世紀末に建造した仏教寺院です。
四天王寺のある場所は聖徳太子が創建した当時は海岸線の近くでしたので、埋め立ての進んで都市化した現在も、坂道を上った段丘にあります。おそらくはここが港湾施設で、海外との窓口でした。中国や朝鮮半島からの渡来人は瀬戸内海から大阪湾に入って、ここで大和政権と交渉しました。倭国としても国威を示す必要があって、ここに大陸から職人を招聘して巨大寺院を建設しました。今でいう迎賓館です。これを作った宮大工集団が「金剛組」で、現在も高松建設の子会社として存続し、世界最古の企業と言われています。
長野の善光寺縁起では、本尊が百済から倭国に贈られた後に、日本神道を信奉する物部氏の反発によって「難波の堀江(運河)」に投げ入れられ、それを百済系渡来人の本多善光が助け出し、信州まで運んでいき、最初は飯田市座光寺の元善光寺に安置しその後に現在の善光寺に安置したとされます。この縁起にも四天王寺が登場します。
この善光はおそらくは倭国に渡来して日本人になった百済王子の善光で、大阪府枚方市にある百済王神社に祀られている人物です。難波は天王寺からそれほど遠くなく、やはり海岸近くの波の音を示す地名ですから、善光寺本尊が初めて倭国に入ってきたのもこのあたりだと考えられます。

最初に宝物殿を見学しました。

その後に寺院を背景に記念撮影です。







この境内に立派な石碑が建てられていました。驚いたのは、この寺院が長野県の漬物で有名な「野沢菜」の発祥地だったということです。江戸時代の1750年代に、京都で修業した野沢温泉村の園瑞和尚がこの地の由来である「天王寺蕪」の種を長野県北部の野沢温泉村に持っていって植えたら、気候の違いから葉が極端に大きく、カブが小さくなってしまい、カブは諦めて葉を漬物に使ったのが現在の野沢菜漬けの始まりでした。故郷でよく食べていた野沢菜のルーツがここだとは知りませんでした。現在は、徳島県で栽培した大量の野沢菜を長野県に送って、野沢菜漬けにして販売しています。四天王寺は大陸との窓口でしたから、このカブの種の大本は大陸から伝えられたものでしょう。いろいろなことがこの寺院と私とが関係するので、なかなか感慨深いものがあります。

その後は近くのレストランで、11時15分ごろから少し早めの昼食を済ませました。


店内にあった書作品は、さすがに大阪らしい演出でした。このような言葉遊びを書いた作品が10点程飾られていました。

その後に、12時半には大阪市立美術館に着きました。ここからは通天閣の全景が見えました。


日本国宝展はこの日が初日でしたので、会場内は混雑していましたが、展示物は素晴らしく、学生も堪能していました。金印、喪乱帖、高野切第二種、袈裟襷文銅鐸、隅田八幡宮人物画像鏡、船首王後墓誌、金光明最勝王経、絵因果経、平家納経、葦手下絵和漢朗詠集、西行の一品経和歌懐紙、古今和歌集序、瓢鯰図、小野道風の白氏詩巻、本阿弥光悦の舟橋蒔絵硯箱、池大雅の十便十宜図など、多くの名筆を一気に見ることができて驚きました。刀剣や仏像類も有名なものがたくさん展示されていました。
会場内は撮影禁止ですので、入場前のショットを掲載します。


撮影許可のあった「薬師寺東塔水煙」の写真のみ掲載します。塔の上に付いていた青銅製の飾りです。人間の背丈より大きかったです。

14時に会場前に集合して全体写真を撮影。

この後、右後ろに見える「あべのハルカスビル」に移動して、近鉄百貨店で1時間ほど各自で買い物を楽しみました。途中、通過した天王子公園では大勢の市民が憩い、猿回しのショーがあってにぎわっていました。

15時半にはバスに乗り、大学に戻りました。道路は全く渋滞もなく、まだ明るい18時には大学に戻ることができました。学生同士の親睦も一気に深まった感じです。楽しく有意義な研修旅行でした。