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参照聖句は参照になるか

2007-11-16 06:38:39 | ●エホバの証人考
エホバの証人はよく、JWとして子供を育てる利点の一つに「読み書きがよく出来るようになる」「理論だって考えられる」ことがあるといいます。

が、私は小学校低学年まで世の子供として育ちましたが他のJW2世と同じくらい普通に読み書きができます。世の人もJW2世と変わらず読み書きができます。

と、いうことは別に利点ではないですよね。では「理論的に論じられる」は?


重要なことは子供が読み書きが堪能になることよりも、子供の頃、何を読ませるかだと思うんですが、私はものみの塔の読み物は「読み書き」のためにも「理論だって考える」ためにもあんまり良質ではないと思うのです。


もちろん文章サブリミナルだとか、悪霊にレイプされた姉妹の話だとか(私のブログはこればっか。)フェラチオだとかフェラマチオだとか小さな子供に聞かせたくないような内容がいっぱいのっている、というのはもってのほかです。


が、

それとは別にものみの塔の出版物は


文章がなんか変


質問の意味が分からない。何を聞いているのかが分からない、というのは100歩ゆずって、質問したい質問がないんだけど、章の質問しないといけないからでっち上げたからだ、というのはなんとなく分かります。


でも出版物の本文で「それなので」「だから」「つまり」などの接続詞の使い方が間違っていることがいっぱいあります。(啓示の本参照)接続詞が全くその本来の意味を無視して使われているどころか、それと同じ用法を割り当てでやっても演壇からほめられる、という、子供には言語教育上よろしくない場面がいっぱいです。


もちろん、最近は接続詞の誤用は「間違い」では決してなく、統治体が書きなぐったどうでもいい文章だから(啓示の本参照)、ということが自分でも分かってきて納得することができました。


でも学生時代は出版物を読んでいてものすごく混乱しました。


出版物の文章(特に研究記事)が理解できないのは、私が限りなくバカだからか!と不安になったし、理解しようとして読めば読むほど理解できず、挙句「サタンにベールをされてる」被害妄想とか、読むと頭が混乱するので精神の不安定ささえ感じたものです。


中には「理由」づけ、証拠がないまま結論付けられているもの(例えば、「背教者のいう事には信憑性がないので真実ではないとわかります。」という表現。啓示の本参照。なぜ背教者がこの章で出てきたのか、背教者のいう事とは、一体何か。なぜ信憑性がないのか。なぜ信憑性がないと真実でないとすぐ結論できるのか。などなど。)もあって、生真面目だった私は理解できないことを注解できず、「一度も注解しなかった」といって親からなじられる日々が続きました(笑)


意味不明の翻訳聖書をひたすら読んで、解読不可でもものみの塔の質問から答え部分を察することが「理論的な考え方、話し方をする」教育になるとは思いませんし、逆に混乱を生む害になると思います。


偉い2世の中には「研究記事の引用、参照聖句は全部引くのが当然。あなたは引いてないの?」などといってくださる方がいたんですが、


一部の主題、主要聖句を除いて、多くの参照されている聖句は全然ものみの塔本文を支持したり裏づけたりしてません。

だいたいのところ

本文の中に見られる単語の一部が聖句にみられる

というだけです。


なぜかあまり多くのJWはそれに気づいていません。ためしに参照されている聖句をどれかとって、それが全然本文に関係がない聖句でも、聖句を引用したあと、ものみの塔本文をつなげて注解してみてください。

全然意味不明でも



「聖句からの注解ありがとうございました。」



といわれるはずです。


本文にいっぱい聖句が書かれていると「これは聖書から論じられた考えだ」「聖書の裏づけがある」と勘違いしてしまいますが、


勘違いしてくれたらうれしいな。

というのが執筆者の心でしょう。



ものみの塔の主張には信憑性がないのでそれは真実でないと分かります。