さて、まず、以前の記事について皆さんの率直なコメント、ありがとうございます。。いろいろ考えさせられました。
その記事でカトリック神父と同性愛についてちょっと触れましたが、
(あと、あらら果実さんへのコメントでもちょっと触れましたが)
私も同性とお付き合いしたことがあるんですよ~。
高校の時だったけれど、バリバリJW全盛期だったので、かなり決まりが厳しく、男女交際なって口に出すことさえ難しかった時代ですが、、、
やはり私もある意味でのセクシュアリティーがあったと思われます。
隣のクラスのちょっと男性っぽい女の子に熱を上げて、ちょっとの間ですがエクスクルーシブでデートとかしてました。
もちろん私もおぼこJWでしたから、高校生といえどもまだまだ子供で、ずばり「性」については何もしらず、このお付き合いや恋はほんと淡いものだったんですが、
お付き合いなんてそういうもんじゃないのかな。って今思います。ものみの塔がけしかける、デート→淫行、性の宴会(
だからやめて。そういうヘンな想像は。)みたいな事が目的でお付き合いしたり、異性に興味を持ったりする人は少ないと思う。
私がその時彼女に求めていたのは、親密さとか、エクスクルーシブな安心した関係とか、大切にしてもらえるとかいった甘えみたいなものでした。
別に同性愛傾向があったわけではなく、女の子なら誰でもいい、と思ってたわけでもありません。シンプルにその子が好きだっただけだし、休み時間会いにいったり休みの日には映画にいったり、その程度。
映画にいくときは相手が女性なんだけど、男性の彼氏に見立てて目一杯おしゃれしたり、、といった単純なことがものすごく楽しかった。
それだけです。
何が言いたいのかというと、JW2世も異性交遊を始めるとき、こういった純な感情からだと思うのですが、組織に言わせると堕落した性への一歩とうわけなんですよね。
人間、悪い悪いと言われ続けてると、ほんとに自分が性悪な人間だと思い込んでしまうように、健全なセクシュアリティーもいつしか恥ずべき、隠すべき、治すべき欠点と思えてくる。
もちろん、組織は信者がそう思うと、淫行防止になり都合が言い訳ですが、囲いから出ないように羊を不具にする、そんな極端な措置だと思います。
さて、セックス以外のセクシュアリティーですが、
たとえば男らしさ。
ちょっと前はごついバイクを所有した兄弟が会衆でバッシングを受けることは珍しくなかったです。ごついバイクを所有することはシンプルに男らしさの象徴だと思いますが
会衆のお局的姉妹とかから、「○○兄弟はあんな世的なバイクを買って、反抗心や粗暴の表れだ」とか「慎みに欠ける」とか言われて、「移動に必要ならスクーターで十分」などと挙句長老から助言。
なんて事は良くありました。
こういう人はごついバイクとはセクシュアリティーだと敏感に感じてたんでしょうね。なんか分からないけど、いけない感じがするわ。って。
はは。
女性の場合は前にも書いたようにもっとシンプルですが、肌を見せる、メイクをする、こういうことが自己表現としてのセクシュアリティーの一部です。きれいに見せることで、自分の気分がいい。
こういうものもJW内では戒められます。男を誘ってるとか。ストレートにあばずれ(ほほほ。なんというお言葉でしょう。)であるとか、そこで自己否定されるわけです。
JWをやめてから、少し胸が開いた服なんかも堂々と着られるようになりましたが、胸があいてるときれいに見えますよね。そうすると(第三者の意見は無視。
)気分がいい。気分がいいと人にも会いたくなる。どんどん開放的になるんです。
こんな簡単な事、そしてすごく大きなことがJWでは抑圧されていたことを考えると、セクシュアリティーの否定というのは単に不道徳云々の問題ではなく、簡単に「性、淫行」の問題でくくられるべきではないトピックではないかな、
と思いました。
また2世JWにとって、セクシュアリティーの否定が、大人になれないひとつの原因であることも否めないと思います。
その記事でカトリック神父と同性愛についてちょっと触れましたが、
(あと、あらら果実さんへのコメントでもちょっと触れましたが)
私も同性とお付き合いしたことがあるんですよ~。
高校の時だったけれど、バリバリJW全盛期だったので、かなり決まりが厳しく、男女交際なって口に出すことさえ難しかった時代ですが、、、
やはり私もある意味でのセクシュアリティーがあったと思われます。
隣のクラスのちょっと男性っぽい女の子に熱を上げて、ちょっとの間ですがエクスクルーシブでデートとかしてました。
もちろん私もおぼこJWでしたから、高校生といえどもまだまだ子供で、ずばり「性」については何もしらず、このお付き合いや恋はほんと淡いものだったんですが、
お付き合いなんてそういうもんじゃないのかな。って今思います。ものみの塔がけしかける、デート→淫行、性の宴会(

私がその時彼女に求めていたのは、親密さとか、エクスクルーシブな安心した関係とか、大切にしてもらえるとかいった甘えみたいなものでした。
別に同性愛傾向があったわけではなく、女の子なら誰でもいい、と思ってたわけでもありません。シンプルにその子が好きだっただけだし、休み時間会いにいったり休みの日には映画にいったり、その程度。
映画にいくときは相手が女性なんだけど、男性の彼氏に見立てて目一杯おしゃれしたり、、といった単純なことがものすごく楽しかった。
それだけです。
何が言いたいのかというと、JW2世も異性交遊を始めるとき、こういった純な感情からだと思うのですが、組織に言わせると堕落した性への一歩とうわけなんですよね。
人間、悪い悪いと言われ続けてると、ほんとに自分が性悪な人間だと思い込んでしまうように、健全なセクシュアリティーもいつしか恥ずべき、隠すべき、治すべき欠点と思えてくる。
もちろん、組織は信者がそう思うと、淫行防止になり都合が言い訳ですが、囲いから出ないように羊を不具にする、そんな極端な措置だと思います。
さて、セックス以外のセクシュアリティーですが、
たとえば男らしさ。
ちょっと前はごついバイクを所有した兄弟が会衆でバッシングを受けることは珍しくなかったです。ごついバイクを所有することはシンプルに男らしさの象徴だと思いますが
会衆のお局的姉妹とかから、「○○兄弟はあんな世的なバイクを買って、反抗心や粗暴の表れだ」とか「慎みに欠ける」とか言われて、「移動に必要ならスクーターで十分」などと挙句長老から助言。
なんて事は良くありました。
こういう人はごついバイクとはセクシュアリティーだと敏感に感じてたんでしょうね。なんか分からないけど、いけない感じがするわ。って。

はは。
女性の場合は前にも書いたようにもっとシンプルですが、肌を見せる、メイクをする、こういうことが自己表現としてのセクシュアリティーの一部です。きれいに見せることで、自分の気分がいい。
こういうものもJW内では戒められます。男を誘ってるとか。ストレートにあばずれ(ほほほ。なんというお言葉でしょう。)であるとか、そこで自己否定されるわけです。
JWをやめてから、少し胸が開いた服なんかも堂々と着られるようになりましたが、胸があいてるときれいに見えますよね。そうすると(第三者の意見は無視。

こんな簡単な事、そしてすごく大きなことがJWでは抑圧されていたことを考えると、セクシュアリティーの否定というのは単に不道徳云々の問題ではなく、簡単に「性、淫行」の問題でくくられるべきではないトピックではないかな、
と思いました。
また2世JWにとって、セクシュアリティーの否定が、大人になれないひとつの原因であることも否めないと思います。