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パワー・トゥ・ザ・ピープル!!アーカイブ

東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

東京「君が代」裁判・第五次訴訟/第三回口頭弁論原告側意見陳述要旨②

2022年02月08日 | 日の丸・君が代関連ニュース
  【第五次訴訟/第三回口頭弁論原告側意見陳述から】
 ◆ 原告 山ロ美紀 意見陳述要旨
   (2022年2月7日 東京地裁631号法廷)


 私は十代後半から二十代にかけて、「死」という絶対的な無に帰す人生に意味も、目的も見いだせずただ恐怖ばかりが募り苦しみました。その恐怖の中で、命は有限という点で平等なのだと気づきました。
 それまで人間はみな平等と言われても、能力も、資産も、容貌も生まれつき大きな差があり、全く不平等だと思っていましたが、「無限・永遠」を対比させれば、寿命の長短は意味を失い、死ぬべき命を今生きているという共通点があるばかりです。
 有限な自己の人生にどれほど執着し、欲望のままに生きてみたところで、慰めにも救いにもならず、すべては虚しさの中に飲み込まれていく。しかし私は一人ではなく同じ運命の他者が与えられている。他者と共に生きる時、人生の意味や価値を見いだすことができる、と考えるようになりました。
 このような思いに至るまでにはキリスト教との出会いがあり、信仰を与えられたことが大きな転機となりました。
 大学2年の時に洗礼を受け、教師という職業も信仰によって選びました。「神と人とに仕える」生き方ができる仕事だと思ったからです。
 教員になって二年目、初めて担任したクラスの生徒が夏休み中に自死してしまいました。遺書はありませんでした。
 わかったのはただひとつ、私の目には彼の悩みや苦しみが何一つ見えていなかったという事実だけです。担任の仕事とは「今」「気づかなければならない一人」に気づけるかどうかなのだ、と激しい後悔の中で肝に銘じました。
 「ひとりの命、ひとりの存在をできる限り大切にする。あとで後悔しても遅いのだから」これが私の教師としての良心です。
 「君が代」の「君」は象徴天皇制における天皇を指す、と政府は説明しました。「君が代」はこの「君」という特別な存在を認める歌です。
 神の前に特別な一人、はあり得ない。すべての人は神から与えられた限りある一つの命を今生きている。この絶対的な平等ゆえに互いの命を尊重しあうことが可能になると私は考えます。
 クリスチャンは神から与えられている他者に区別を設けず隣り人として尊び、愛せよと教えられています。私は天皇賛歌であった「君が代」を国歌として歌うことはできません。
 特別な一人のために、国民がたった一つの自分の命を捧げて、たった一つの相手の命を奪うべく戦ったのは、ごく近い過去の出来事です。命に軽重はあり得ないのに、そこに特別な存在を設けるとき、ひとりひとりの命の絶対的なかけがえのなさが、見失われていきます。
 同時に、本来は自己中心的な生き方しかできない人間が「他者と共に生きる」ための接点をも失ってしまうのです。
 クリスチャンとして、教師として、「目の前の一人の生徒がすべて」と念じてかかわろうとしてきました。「君が代」はそのような私の思いと相容れません。
 私は教師として自分の無力さを痛感しています。ひとりの生徒を理解し、関係を築くために必要な、優しさも、想像力も、共感する力も、忍耐力も、私にはありません。なにもかも足りない私に、あるのは信仰だけなのです。
 職務命令は、上司という人の命令に従うのか、信仰を持ち続け神に従うのか、と私に迫ります。
 私はクラス担任として臨んだ2004年の入学式と2007年の卒業式で職務命令に反し、それぞれ戒告と減給の処分を受けました。
 長い裁判の果てに減給処分の取り消しを勝ち取りましたが、それ以来クラス担任からははずされ続けました
 2016年の2学期に、3年生の担任が病気休職となり、副担任の私が担任代行になりました。しかし生徒と共に卒業式の会場に入ることはできませんでした。
 前年の4月に9年前の不起立に対して再度戒告処分を出されており、管理職から「担任代行は卒業式の朝の出欠点呼までとする、その後は式場外で受付業務をするように」と命じられたからです。
 式前日の予行の後に、一人の生徒が「みんな、廊下に出て。写真撮るよ」と声をかけ翌目大きく引き延ばしたクラス写真を「卒業アルバムには山口先生との写真が1枚もないから」と渡してくれました。とても嬉しかったです。
 私はこの3月で定年を迎えます。もう1回でも2回でも担任をやって精一杯生徒と関わりたかった。せめて担任代行でも卒業式の会場に入り、生徒の名前を呼びたかったと思います。
 私はこれまで一次、三次訴訟を通じて、都教委は個々人の思想、良心、信仰などの心の自由を「命令」で支配、強制してはならないと訴えました。
 しかしこれまでの判決では「10.23通達に基づく職務命令が信仰を持つ者にとって間接的な制約になるとしても、職務上の理由があるのだから、内心の自由の侵害には当たらない」とされてきました。
 つまり、クリスチャンにとってこの命令がある種の踏み絵だとしても、信仰を捨てて踏み絵を踏めとは言っていない。「心の中で何を信じてもけっこうだが、職務命令に従って踏み絵を踏んでください。『教育公務員として上司の命令に従わねばならない』という立派な言い訳が立つのだから、外形的な行為として踏み絵を踏んでもあなたの内面の信仰には何の問題もないはずだ」というのです。
 遠藤周作の小説『沈黙』でキリシタンに「形だけ踏めばよいのじゃ」と勧める役人と同じです。
 しかし信仰を持つ者は心と行動を切り離して言い訳をするとき、自ら信仰を捨てたと自覚するのです。だから踏み絵は切支丹弾圧に有効だったのです。
 東京「君が代」裁判においては、一次訴訟から五次訴訟まですべての原告にクリスチャンがいます。三次訴訟では原告50人中4人がクリスチャンでした。人口比0.8%以下と言われる信者数に対して異常な高率です。この問題に関してお互いに祈り合うクリスチャン教員の会もあります。
 採用試験に合格し、赴任校も決まっていたのに、任用前の打ち合わせで国歌斉唱を命じられ、採用辞退したクリスチャン青年にも会いました。
 そして、この職務命令はまた、自分の考えで立たない、歌わないという生徒をも追い詰めるのです。
 少数者に踏み絵を強いる職務命令は教育現揚をゆがめ、社会を変質させていきます。「今日の滴る細流がたちまち荒れ狂う激流となる」という警告を思わずにはいられません。
 五次訴訟では、内心の自由とは、信仰者が信仰に従って生きぬく自由であることを認めていただき、戒告再処分の取り消しをお願いいたします。
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