▲ 姜徳相が語る「在日・同時代史」
11月21日(土)午後、四ッ谷の岐部ホールで姜徳相(カン・ドクサン)さんの「日本の近現代史をどう考えるべきか 日本の敗戦とサンフランシスコ条約」という講座が開講された。この講座は「韓国併合の真実――日韓の100年を問い直す」(主催 韓国併合100年市民ネットワーク)の3回目で10月末の第2回は1945年の敗戦までだった。
姜徳相さんは、1932年生まれで2歳のとき家族とともに日本に渡り在日として育った。滋賀県立大学名誉教授の歴史学者で、現在、在日韓人歴史資料館館長を務める。この日の講義には姜さん自身の体験もたくさん盛り込まれ、参加者の興味をかきたてた。そういう点を中心に紹介したい。
まず前回の復習として、日本の植民地政策を「朝鮮民族のジェノサイド」としてみるべきことを、1936年に朝鮮総督に就任した南次郎の「皇国臣民の誓詞」や神社参拝の強要、創氏改名、国語常用、朝鮮人向けの「初等国史」など皇民化政策の実例をあげて説明した。
次に、1945―52年という時期の世界史的な大きな枠組みが提示された。第二次大戦は帝国主義の枢軸国対連合国の勢力範囲の争奪戦争だったが、同時に、中国、朝鮮、ベトナム、インドネシア、インドなどアジアの国の独立闘争という伏流もあった。戦後、アメリカは天皇の神格化否定、憲法施行など日本の民主化を行ったが、途中から「日本を共産主義への防壁にする」政策に転換し民主化は後退していった、その理由は、49年の中国での人民政府樹立と国民党の台湾撤退、48年の大韓民国、朝鮮民主主義人民共和国の成立、50年の朝鮮戦争勃発とアメリカの介入という東アジア情勢の変化にあると解説した。
「にわか民主主義」の日本で在日はどうなったのだろうか。
1 日本の敗戦と在日
1945年8月日本は戦争に負けた。しかし植民地時代の差別、暴力は依然として継続した。「二級の国民」から余計者に扱いが変わったに過ぎない。ただ祖国ができ、植民地から解放されたという意義は大きい。
8月時点で日本にいた朝鮮人の人口統計はないが、44年には193万人で、44年から徴兵制や徴用による日本への動員が始まったので230-235万人と推定される。まず起きたのが帰国ラッシュだった。故郷に帰りたいということはもちろんあったが、もうひとつの理由は「いつやられるかわからない」という関東大震災の際の朝鮮人虐殺のトラウマだった。実際に銚子では8月27日米軍を迎えにいった朝鮮人3人を、警官が「日本が負けてうれしかろう」という態度がシャクにさわったという理由で虐殺した。
わたしの叔父・叔母一家、祖母も帰り、日本にはわたくしの家族だけになった。たった半年で230万人のうち170-180万人が帰国した。このとき日本政府に帰国政策は何もなかった。外地からの引揚げ船の往路に朝鮮人が乗船した。自分で、仙崎、下関、博多に行き2ヵ月も3ヵ月も船待ちをした。しかも持ち出せる現金は1人1000円、荷物は150ポンドという制限があった。残った人のなかにも帰国希望者は多かった。あのときもっと帰っていれば在日のコミュニティはずいぶん変わったはずである。
また自然発生的に各地で民族団体ができた。相互扶助や帰国援助、子女教育を行うためだった。45年10月には全国組織の在日本朝鮮人連盟が結成された。そのほか刑務所から出所した共産党員を出迎えたのも朝鮮人の組織だった。戦前の日本の社会労働運動で朝鮮人のいない運動はない。日本人の運動は40年ごろ絶滅したが、朝鮮人は民族問題があったので組織を守っていた。獄中18年の徳田球一や志賀義雄を府中刑務所で出迎えたのはほとんど朝鮮人だった。
戦前、朝鮮在住の朝鮮人には選挙権がなかったが、日本在住の朝鮮人には選挙権があり代議士も地方議員もいた。ハングルでの投票も認められていた。しかし1945年12月の衆議院議員選挙法改正で選挙権がなくなった。このときの改正は、婦人参政権を認め、選挙権は20歳以上、被選挙権は25歳以上に引き下げる民主化を象徴する改正だったが、「戸籍法の適用を受けざる者の選挙権および被選挙権は当分の間これを停止す」という付則が付いていた。朝鮮には戸籍はなく民籍があり、本籍のように移動することはできない。代わりに寄留届を出していた。なぜ日本国籍はあるのに「選挙権を当分停止」したのだろうか。
この問題は京都大学の水野直樹教授が清瀬一郎文書を研究し解明した。45年当時は天皇制がどうなるかわからない時期だった。そこで日本の議会で天皇制反対の代議士が出ないようにした、つまり天皇制擁護が目的だったのだ。実際、選挙権があれば在日が5-6人の代議士を選出する力を持っていた。また朝鮮人は早く帰国したいと願っていたので選挙や国籍にあまり関心がなく反対運動も大きくならなかった。10年後に国に帰れないことがわかったときヒドいと思い裁判を起こした人もいたが、後の祭りだった。
日本が朝鮮人、台湾人をどう扱うかという問題は、占領軍の判断にも深く関連する。1943年のカイロ宣言には「朝鮮ノ人民ノ奴隷状態ニ留意シ軈テ(やがて)朝鮮ヲ自由且独立ノモノタラシムルノ決意ヲ有ス」という文言もあった。しかし占領軍の政策は、在日を解放国民扱いをする一方で占領目的に反しないようときとして日本人として扱うあいまいさを含んでいた。この点を日本政府は最大限利用した。
それは憲法にも現われた。46年2月のマッカーサー憲法草案の基本的人権の章には「一切ノ自然人ハ法律上平等ナリ、政治的、経済的又ハ社会的関係ニ於テ人種、信条、性別、社会的身分、階級又ハ国籍起源ノ如何ニ依リ如何ナル差別的待遇モ許容又ハ黙認セラルルコト無カルヘシ」という文言があった。ところが2か月後の3月6日に日本政府が出した憲法改正草案要綱では「一切ノ自然人」は「すべて国民」、「国籍起源」は「門地」に変えられ外国人は憲法の適用外となった。
2 国籍は日本なのに外国人と「みなし」た外国人登録令
翌年5月2日、天皇の最後の勅令で「外国人登録令」が発布され、朝鮮人は「当分の間外国人と『みなす』」ことになった。5月2日という日は、憲法施行の1日前である。翌5月3日から朝鮮人などの外国人は憲法の保護の外に置かれることになった。
「ただし日本国籍をもつものに限る」あるいは「ただし外国人は除く」という付則が付く条文はたくさんある。まさに憲法が差別国家をつくる元凶となった。
自分の実感で、いちばん朝鮮人差別が厳しかったのは52年のサンフランシスコ条約から60年代前半の時期だった。大学を受験したのは50年で、資格を取得しようと東京商船大学を受験校の候補にした。しかし入学資格がないといわれた。理由は、航海士になり外国にいくとき出入国管理令に引っかかるということだった。結局文系の学部に進学し、卒業したのは55年だが、日本の会社への就職は考えられなかった。また大学の同級生には、結婚し新居として住宅公団の10坪の住宅を申し込む人がいたが、わたしは「ただし外国人は除く」ため願書も出せなかった。
3 民族教育の弾圧
在日を外国人と認め、外国人としての権利を与えるならよい。しかし日本政府は、都合がよいときには在日を日本人として扱った。それが民族学校への扱いだ。
最初の民族学校は45年9月、高田馬場の明治通り付近にできた。わたしの妹が通っていたので覚えている。1年後には小学校525校、中学高校12校に増え、6万人の生徒を抱える一大教育機関になった。奪われた言葉、民族や誇りを取り戻す場だった。
ところが日本社会は「反日教育の場だ」「アカ教育の場だ」と罵詈雑言を浴びせた。この背景には「日本は唯一の単一民族国家なので、異民族が定住すると大変だ。出て行くか、日本の学校に入るか二者択一しろ」という考え方があった。
48年1月文部省は「朝鮮人も日本の学校に通う就学義務がある」、つまり朝鮮人も日本国籍があるので就学義務がある、したがって民族学校は認めないという通達を発令した。これに対し朝鮮人は激しく抗議した。象徴的なのは3月から5月の阪神教育闘争だ。兵庫県では知事室に座り込んで団体交渉を行い、一度は知事が撤回すると表明した。しかしGHQは非常事態宣言を発令し軍隊や警察を動員した。大阪では16歳の金太一少年が警官の発砲で死亡した。このとき東京の十条でも警官隊と大乱闘になった。わたしの親も検挙された。こうしてすべての民族学校が廃校になった(のちに各種学校の資格で経営する学校はいくつか出てきた)。二重政策を押し付けた日本政府は言語道断のことを行った。
4「第三国人」の排斥
このころ第三国人という言葉が氾濫した。余計者ということだ。マスコミが煽ったこともあり、大衆的なレベルで朝鮮人排斥が横行した。当時、外地から引揚げた日本人が多数いたので、60万の在日は仕事がなかった。そこでヤミ市で商売をした。これに対し朝鮮人のヤミ市だけが非難の対象になった。「密造酒のドブロク」「露店のヤミ物資が統制経済を乱す」というキャンペーンが全国紙・地方紙を含めて張られ、「ヤミ市に根をはる朝鮮人」「朝鮮人がすべて悪い」という言い方をされた。しかし調べてみるとヤミ市に露店を出す朝鮮人は、上野で130人、新橋で60人、渋谷で18人に過ぎない。日本人のほうがずっと多い。
このキャンペーンを受け国会でも、大野伴睦が質問のなかで(非日本人の破壊行為は)「あたかも平和なる牧場に虎狼の侵入せる感を禁じ難きものがある」と述べ、大村内相が「あたかも戦勝国民なるがごとき優越感を抱き」(不法越軌の行為を行った)と答弁している。戦前、目下(めした)だった国が急にいばりだしたというキャンペーンである。
5 BC級戦犯
教育と選挙権の問題を話した。もっと重要な問題としてBC級戦犯の問題がある。
BC級戦犯は日本人として捕虜虐待を問われ処罰された。サンフランシスコ講和条約後、日本人戦犯は徐々に釈放されたが、朝鮮人は釈放されなかった。理由は外国人だからだ。日本人として戦犯になったが外国人なので釈放されない、こんな馬鹿な話はない。
また樺太に置き去りにされた朝鮮人の問題もある。彼らは日本人として徴用され樺太に渡った。戦後、日本人は帰還できたが、朝鮮人は帰還できない。当時韓国とソ連には国交がなかった。朝鮮に戻るには日本を通過する必要があったが、外国人なので通過できないというものだった。
もうひとつ、上野や新宿の街頭にいた白衣の傷痍軍人の問題がある。あの人たちは日本人ではなく朝鮮人だった。外国人という理由で、傷病手当を打ち切られた人たちだった。大島渚のテレビドキュメンタリー「忘れられた皇軍」で描かれている。これが戦後の日本の姿だ。これが民主国家だろうか。日本政府に「人権」などという資格はないと思う。
最後に、吉田茂のマッカーサー宛書簡の話をする。49年に送った書簡で、吉田は「食糧事情が悪いのに輸入した食糧の一部で朝鮮人を食べさせている。朝鮮人の大部分は経済復興に貢献していない。しかも犯罪者が大きな割合を占める」と述べている。いかに日本の戦後民主主義が虚妄だったかがわかる。
さらに45年8月から48年5月までの朝鮮人の累計犯罪者数91,235人というデータを挙げている。この当時、外国人登録令違反にならなかった人は少ない。目を付けるだけでいい。わたしも前科3犯だ。夏の暑いときに銭湯にいった。帰りに友達と銭湯の前でおでんをつついていると、顔見知りの原宿署の警官がやってきた。「登録証をみせろ」というが風呂の帰りなのでそんなものを持っているはずがない。すると「登録令違反だ。ちょっと来い」と署にしょっ引かれた。署で聞かれたのは、その直前に帰国した弟から手紙が来るかということだった。しかし登録令違反である。光栄なる「前科3犯」である。
☆1952年に在日が日本国籍を離脱するまでの間、日本政府がどのように二重政策を行使したかよくわかった。日本が敗戦を迎えても「在日は二級の国民から余計者という扱いに変わったに過ぎない」「日本は唯一の単一民族国家なので、異民族が定住すると大変だ。出て行くか、日本の学校に入るか二者択一しろ」という言葉は、いま在特会などの団体が路上で叫んでいるのと同じフレーズで、耳に痛かった。また姜さん自身の数々の被差別体験は生々しかった。
『多面体F』より(2009年11月27日 集会報告)
http://blog.goo.ne.jp/polyhedron-f/e/de87519085ff7597cb7d2c1f02faf0f1
11月21日(土)午後、四ッ谷の岐部ホールで姜徳相(カン・ドクサン)さんの「日本の近現代史をどう考えるべきか 日本の敗戦とサンフランシスコ条約」という講座が開講された。この講座は「韓国併合の真実――日韓の100年を問い直す」(主催 韓国併合100年市民ネットワーク)の3回目で10月末の第2回は1945年の敗戦までだった。
姜徳相さんは、1932年生まれで2歳のとき家族とともに日本に渡り在日として育った。滋賀県立大学名誉教授の歴史学者で、現在、在日韓人歴史資料館館長を務める。この日の講義には姜さん自身の体験もたくさん盛り込まれ、参加者の興味をかきたてた。そういう点を中心に紹介したい。
まず前回の復習として、日本の植民地政策を「朝鮮民族のジェノサイド」としてみるべきことを、1936年に朝鮮総督に就任した南次郎の「皇国臣民の誓詞」や神社参拝の強要、創氏改名、国語常用、朝鮮人向けの「初等国史」など皇民化政策の実例をあげて説明した。
次に、1945―52年という時期の世界史的な大きな枠組みが提示された。第二次大戦は帝国主義の枢軸国対連合国の勢力範囲の争奪戦争だったが、同時に、中国、朝鮮、ベトナム、インドネシア、インドなどアジアの国の独立闘争という伏流もあった。戦後、アメリカは天皇の神格化否定、憲法施行など日本の民主化を行ったが、途中から「日本を共産主義への防壁にする」政策に転換し民主化は後退していった、その理由は、49年の中国での人民政府樹立と国民党の台湾撤退、48年の大韓民国、朝鮮民主主義人民共和国の成立、50年の朝鮮戦争勃発とアメリカの介入という東アジア情勢の変化にあると解説した。
「にわか民主主義」の日本で在日はどうなったのだろうか。
1 日本の敗戦と在日
1945年8月日本は戦争に負けた。しかし植民地時代の差別、暴力は依然として継続した。「二級の国民」から余計者に扱いが変わったに過ぎない。ただ祖国ができ、植民地から解放されたという意義は大きい。
8月時点で日本にいた朝鮮人の人口統計はないが、44年には193万人で、44年から徴兵制や徴用による日本への動員が始まったので230-235万人と推定される。まず起きたのが帰国ラッシュだった。故郷に帰りたいということはもちろんあったが、もうひとつの理由は「いつやられるかわからない」という関東大震災の際の朝鮮人虐殺のトラウマだった。実際に銚子では8月27日米軍を迎えにいった朝鮮人3人を、警官が「日本が負けてうれしかろう」という態度がシャクにさわったという理由で虐殺した。
わたしの叔父・叔母一家、祖母も帰り、日本にはわたくしの家族だけになった。たった半年で230万人のうち170-180万人が帰国した。このとき日本政府に帰国政策は何もなかった。外地からの引揚げ船の往路に朝鮮人が乗船した。自分で、仙崎、下関、博多に行き2ヵ月も3ヵ月も船待ちをした。しかも持ち出せる現金は1人1000円、荷物は150ポンドという制限があった。残った人のなかにも帰国希望者は多かった。あのときもっと帰っていれば在日のコミュニティはずいぶん変わったはずである。
また自然発生的に各地で民族団体ができた。相互扶助や帰国援助、子女教育を行うためだった。45年10月には全国組織の在日本朝鮮人連盟が結成された。そのほか刑務所から出所した共産党員を出迎えたのも朝鮮人の組織だった。戦前の日本の社会労働運動で朝鮮人のいない運動はない。日本人の運動は40年ごろ絶滅したが、朝鮮人は民族問題があったので組織を守っていた。獄中18年の徳田球一や志賀義雄を府中刑務所で出迎えたのはほとんど朝鮮人だった。
戦前、朝鮮在住の朝鮮人には選挙権がなかったが、日本在住の朝鮮人には選挙権があり代議士も地方議員もいた。ハングルでの投票も認められていた。しかし1945年12月の衆議院議員選挙法改正で選挙権がなくなった。このときの改正は、婦人参政権を認め、選挙権は20歳以上、被選挙権は25歳以上に引き下げる民主化を象徴する改正だったが、「戸籍法の適用を受けざる者の選挙権および被選挙権は当分の間これを停止す」という付則が付いていた。朝鮮には戸籍はなく民籍があり、本籍のように移動することはできない。代わりに寄留届を出していた。なぜ日本国籍はあるのに「選挙権を当分停止」したのだろうか。
この問題は京都大学の水野直樹教授が清瀬一郎文書を研究し解明した。45年当時は天皇制がどうなるかわからない時期だった。そこで日本の議会で天皇制反対の代議士が出ないようにした、つまり天皇制擁護が目的だったのだ。実際、選挙権があれば在日が5-6人の代議士を選出する力を持っていた。また朝鮮人は早く帰国したいと願っていたので選挙や国籍にあまり関心がなく反対運動も大きくならなかった。10年後に国に帰れないことがわかったときヒドいと思い裁判を起こした人もいたが、後の祭りだった。
日本が朝鮮人、台湾人をどう扱うかという問題は、占領軍の判断にも深く関連する。1943年のカイロ宣言には「朝鮮ノ人民ノ奴隷状態ニ留意シ軈テ(やがて)朝鮮ヲ自由且独立ノモノタラシムルノ決意ヲ有ス」という文言もあった。しかし占領軍の政策は、在日を解放国民扱いをする一方で占領目的に反しないようときとして日本人として扱うあいまいさを含んでいた。この点を日本政府は最大限利用した。
それは憲法にも現われた。46年2月のマッカーサー憲法草案の基本的人権の章には「一切ノ自然人ハ法律上平等ナリ、政治的、経済的又ハ社会的関係ニ於テ人種、信条、性別、社会的身分、階級又ハ国籍起源ノ如何ニ依リ如何ナル差別的待遇モ許容又ハ黙認セラルルコト無カルヘシ」という文言があった。ところが2か月後の3月6日に日本政府が出した憲法改正草案要綱では「一切ノ自然人」は「すべて国民」、「国籍起源」は「門地」に変えられ外国人は憲法の適用外となった。
2 国籍は日本なのに外国人と「みなし」た外国人登録令
翌年5月2日、天皇の最後の勅令で「外国人登録令」が発布され、朝鮮人は「当分の間外国人と『みなす』」ことになった。5月2日という日は、憲法施行の1日前である。翌5月3日から朝鮮人などの外国人は憲法の保護の外に置かれることになった。
「ただし日本国籍をもつものに限る」あるいは「ただし外国人は除く」という付則が付く条文はたくさんある。まさに憲法が差別国家をつくる元凶となった。
自分の実感で、いちばん朝鮮人差別が厳しかったのは52年のサンフランシスコ条約から60年代前半の時期だった。大学を受験したのは50年で、資格を取得しようと東京商船大学を受験校の候補にした。しかし入学資格がないといわれた。理由は、航海士になり外国にいくとき出入国管理令に引っかかるということだった。結局文系の学部に進学し、卒業したのは55年だが、日本の会社への就職は考えられなかった。また大学の同級生には、結婚し新居として住宅公団の10坪の住宅を申し込む人がいたが、わたしは「ただし外国人は除く」ため願書も出せなかった。
3 民族教育の弾圧
在日を外国人と認め、外国人としての権利を与えるならよい。しかし日本政府は、都合がよいときには在日を日本人として扱った。それが民族学校への扱いだ。
最初の民族学校は45年9月、高田馬場の明治通り付近にできた。わたしの妹が通っていたので覚えている。1年後には小学校525校、中学高校12校に増え、6万人の生徒を抱える一大教育機関になった。奪われた言葉、民族や誇りを取り戻す場だった。
ところが日本社会は「反日教育の場だ」「アカ教育の場だ」と罵詈雑言を浴びせた。この背景には「日本は唯一の単一民族国家なので、異民族が定住すると大変だ。出て行くか、日本の学校に入るか二者択一しろ」という考え方があった。
48年1月文部省は「朝鮮人も日本の学校に通う就学義務がある」、つまり朝鮮人も日本国籍があるので就学義務がある、したがって民族学校は認めないという通達を発令した。これに対し朝鮮人は激しく抗議した。象徴的なのは3月から5月の阪神教育闘争だ。兵庫県では知事室に座り込んで団体交渉を行い、一度は知事が撤回すると表明した。しかしGHQは非常事態宣言を発令し軍隊や警察を動員した。大阪では16歳の金太一少年が警官の発砲で死亡した。このとき東京の十条でも警官隊と大乱闘になった。わたしの親も検挙された。こうしてすべての民族学校が廃校になった(のちに各種学校の資格で経営する学校はいくつか出てきた)。二重政策を押し付けた日本政府は言語道断のことを行った。
4「第三国人」の排斥
このころ第三国人という言葉が氾濫した。余計者ということだ。マスコミが煽ったこともあり、大衆的なレベルで朝鮮人排斥が横行した。当時、外地から引揚げた日本人が多数いたので、60万の在日は仕事がなかった。そこでヤミ市で商売をした。これに対し朝鮮人のヤミ市だけが非難の対象になった。「密造酒のドブロク」「露店のヤミ物資が統制経済を乱す」というキャンペーンが全国紙・地方紙を含めて張られ、「ヤミ市に根をはる朝鮮人」「朝鮮人がすべて悪い」という言い方をされた。しかし調べてみるとヤミ市に露店を出す朝鮮人は、上野で130人、新橋で60人、渋谷で18人に過ぎない。日本人のほうがずっと多い。
このキャンペーンを受け国会でも、大野伴睦が質問のなかで(非日本人の破壊行為は)「あたかも平和なる牧場に虎狼の侵入せる感を禁じ難きものがある」と述べ、大村内相が「あたかも戦勝国民なるがごとき優越感を抱き」(不法越軌の行為を行った)と答弁している。戦前、目下(めした)だった国が急にいばりだしたというキャンペーンである。
5 BC級戦犯
教育と選挙権の問題を話した。もっと重要な問題としてBC級戦犯の問題がある。
BC級戦犯は日本人として捕虜虐待を問われ処罰された。サンフランシスコ講和条約後、日本人戦犯は徐々に釈放されたが、朝鮮人は釈放されなかった。理由は外国人だからだ。日本人として戦犯になったが外国人なので釈放されない、こんな馬鹿な話はない。
また樺太に置き去りにされた朝鮮人の問題もある。彼らは日本人として徴用され樺太に渡った。戦後、日本人は帰還できたが、朝鮮人は帰還できない。当時韓国とソ連には国交がなかった。朝鮮に戻るには日本を通過する必要があったが、外国人なので通過できないというものだった。
もうひとつ、上野や新宿の街頭にいた白衣の傷痍軍人の問題がある。あの人たちは日本人ではなく朝鮮人だった。外国人という理由で、傷病手当を打ち切られた人たちだった。大島渚のテレビドキュメンタリー「忘れられた皇軍」で描かれている。これが戦後の日本の姿だ。これが民主国家だろうか。日本政府に「人権」などという資格はないと思う。
最後に、吉田茂のマッカーサー宛書簡の話をする。49年に送った書簡で、吉田は「食糧事情が悪いのに輸入した食糧の一部で朝鮮人を食べさせている。朝鮮人の大部分は経済復興に貢献していない。しかも犯罪者が大きな割合を占める」と述べている。いかに日本の戦後民主主義が虚妄だったかがわかる。
さらに45年8月から48年5月までの朝鮮人の累計犯罪者数91,235人というデータを挙げている。この当時、外国人登録令違反にならなかった人は少ない。目を付けるだけでいい。わたしも前科3犯だ。夏の暑いときに銭湯にいった。帰りに友達と銭湯の前でおでんをつついていると、顔見知りの原宿署の警官がやってきた。「登録証をみせろ」というが風呂の帰りなのでそんなものを持っているはずがない。すると「登録令違反だ。ちょっと来い」と署にしょっ引かれた。署で聞かれたのは、その直前に帰国した弟から手紙が来るかということだった。しかし登録令違反である。光栄なる「前科3犯」である。
☆1952年に在日が日本国籍を離脱するまでの間、日本政府がどのように二重政策を行使したかよくわかった。日本が敗戦を迎えても「在日は二級の国民から余計者という扱いに変わったに過ぎない」「日本は唯一の単一民族国家なので、異民族が定住すると大変だ。出て行くか、日本の学校に入るか二者択一しろ」という言葉は、いま在特会などの団体が路上で叫んでいるのと同じフレーズで、耳に痛かった。また姜さん自身の数々の被差別体験は生々しかった。
『多面体F』より(2009年11月27日 集会報告)
http://blog.goo.ne.jp/polyhedron-f/e/de87519085ff7597cb7d2c1f02faf0f1
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