◆ オリンピックと天皇制国家と軍拡に反対しよう (立川テント村通信)
水泳の池江璃花子選手が自らツイッターで白血病であることを公開して、マスコミでは大きなニュースになった。心配するたくさんの声や骨髄バンクへの問い合わせ急増という現象の一方では、桜田五輪大臣の「がっかり」「盛り上がりが下火にならないか心配」とまるで本人の病気よりオリンピックの方が大切だといわんばかりの発言に批判が殺到したりした。
しかし実はオリンピックが今やそういうものであり、天皇制同様、現在日本政府の進める「戦争のできる国作り」、国家主義を鼓舞する上で大いに役立つものなのだ。だがそういう観点での批判はほとんど見なかったようだ。
◆ 五輪の政治利用
保守層でも混乱状況が生まれていて、作家の百田尚樹は桜田発言を批判しつつも、オリンピックについて質問した記者を「五輪なんて関係ない!と一喝すべきだった」という有様だ。
五輪担当大臣なので記者にオリンピック関係の質問するなと言う方が無茶だと思うのだが、他に堀江貴文の「マスコミがクソ」という表現で桜田発言を一部擁護したと思われるものもある。
しかしオリンピックで選手が重圧で押しつぶされたり、オリンピックが政争の道具になったりということはしばしば起きている。有名なものでは円谷幸吉の悲劇だ。
六四年の東京五輪でマラソン選手として出場、この時日本の陸上競技で唯一のものとなる銅メダルを獲得した。だが様々な不運や重圧が円谷をその後襲う。
彼は自衛官だったが、自衛隊体育学校の校長が替わり、その校長は円谷の婚約を「次のオリンピックの方が大事」と認めず、破談に追い込んでしまう。
幹部候補生学校に入校後は練習時間確保にも苦労し、オーバーワークの結果腰痛とヘルニアで苦しむ。手術で病状は回復していったものの、かつてのような走りはできず円谷は悩み、次のメキシコ五輪の開催年、一九六八年一月にカミソリで頸動脈を切断して自殺した。
その後のオリンピックではソ連軍のアフガニスタン侵攻への抗議として一九八〇年のモスクワ五輪ボイコットを米国が呼びかけ、ソビエト連邦と対立していた中国や日本など約五〇力国が参加しなかった。
四年後のロスアンゼルス五輪は米国のグレナダ侵攻を理由に多くの社会主義陣営諸国が不参加だったが、政治的報復だったのだろう。
戦前でもナチス政権下でのベルリン五輪では人種差別政策が一時凍結され、徹底的な国家のプロパガンダが行われたのは有名な話だ。
当初は古代オリンピアの平和の式典をベースに、アマチュアリズムを原則にして、国際交流を目標に始まったものだった。
現在は商業主義と国家主義が剥き出しになり、どの国がどれ位メダルを取ったかが大きな焦点になるのがオリンピックだ。
そこではスポーツは娯楽や健康というものとは遠く離れ、国家による政治利用と資本による大規模な収奪の道具と化しているのが実情だ。
競技施設建設で環境破壊や野宿労働者や貧困層の強引な追い出しも行われたりしている。五輪終了後の大規模施設の赤字と廃櫨化も社会問題になっている。
もはや開催を打ち切るべき時だろう。
◆ 国家統制のシステム
天皇制もこのスポーツの政治利用というべきオリンピツクに似た側面がある。
穏やかな笑顔を浮かべ被災地でも観光地でも手を振ったり、民衆と交流する天皇の姿には反感も薄いだろう。太平洋戦争の責任者だったヒロヒトはともかくアキヒトに対しては、リベラル派と言われる人々もあっさり屈服し、革新政党も国会でも地方議会でも直接天皇制への批判を避ける。票が減りかねないからである。
しかしこの反対しにくい空気を利用して、国家内の様々な対立、階級や政治的な立場での違いを丸め込み、「日本国」という枠組みにはめ込んで意見を言いにくくするのに今の天皇制は便利な道具だ。
現に革新政党はほぼ屈服してしまっている。
アキヒトが仮に「平和主義」でも支配のシステムとしての天皇制の弊害はこういう形で続く。
オリンピックがもはや資本の収奪の場でしかなくても、それに反対しにくい空気作り、国家のもとへの統制に役立つのに似ているのだ。
そんな中で進む沖縄辺野古の新基地建設・自衛隊の拡大強化に改めてどう対決していくかを考える必要がある。
『立川テント村通信 493号』(2019年3月1日)
水泳の池江璃花子選手が自らツイッターで白血病であることを公開して、マスコミでは大きなニュースになった。心配するたくさんの声や骨髄バンクへの問い合わせ急増という現象の一方では、桜田五輪大臣の「がっかり」「盛り上がりが下火にならないか心配」とまるで本人の病気よりオリンピックの方が大切だといわんばかりの発言に批判が殺到したりした。
しかし実はオリンピックが今やそういうものであり、天皇制同様、現在日本政府の進める「戦争のできる国作り」、国家主義を鼓舞する上で大いに役立つものなのだ。だがそういう観点での批判はほとんど見なかったようだ。
◆ 五輪の政治利用
保守層でも混乱状況が生まれていて、作家の百田尚樹は桜田発言を批判しつつも、オリンピックについて質問した記者を「五輪なんて関係ない!と一喝すべきだった」という有様だ。
五輪担当大臣なので記者にオリンピック関係の質問するなと言う方が無茶だと思うのだが、他に堀江貴文の「マスコミがクソ」という表現で桜田発言を一部擁護したと思われるものもある。
しかしオリンピックで選手が重圧で押しつぶされたり、オリンピックが政争の道具になったりということはしばしば起きている。有名なものでは円谷幸吉の悲劇だ。
六四年の東京五輪でマラソン選手として出場、この時日本の陸上競技で唯一のものとなる銅メダルを獲得した。だが様々な不運や重圧が円谷をその後襲う。
彼は自衛官だったが、自衛隊体育学校の校長が替わり、その校長は円谷の婚約を「次のオリンピックの方が大事」と認めず、破談に追い込んでしまう。
幹部候補生学校に入校後は練習時間確保にも苦労し、オーバーワークの結果腰痛とヘルニアで苦しむ。手術で病状は回復していったものの、かつてのような走りはできず円谷は悩み、次のメキシコ五輪の開催年、一九六八年一月にカミソリで頸動脈を切断して自殺した。
その後のオリンピックではソ連軍のアフガニスタン侵攻への抗議として一九八〇年のモスクワ五輪ボイコットを米国が呼びかけ、ソビエト連邦と対立していた中国や日本など約五〇力国が参加しなかった。
四年後のロスアンゼルス五輪は米国のグレナダ侵攻を理由に多くの社会主義陣営諸国が不参加だったが、政治的報復だったのだろう。
戦前でもナチス政権下でのベルリン五輪では人種差別政策が一時凍結され、徹底的な国家のプロパガンダが行われたのは有名な話だ。
当初は古代オリンピアの平和の式典をベースに、アマチュアリズムを原則にして、国際交流を目標に始まったものだった。
現在は商業主義と国家主義が剥き出しになり、どの国がどれ位メダルを取ったかが大きな焦点になるのがオリンピックだ。
そこではスポーツは娯楽や健康というものとは遠く離れ、国家による政治利用と資本による大規模な収奪の道具と化しているのが実情だ。
競技施設建設で環境破壊や野宿労働者や貧困層の強引な追い出しも行われたりしている。五輪終了後の大規模施設の赤字と廃櫨化も社会問題になっている。
もはや開催を打ち切るべき時だろう。
◆ 国家統制のシステム
天皇制もこのスポーツの政治利用というべきオリンピツクに似た側面がある。
穏やかな笑顔を浮かべ被災地でも観光地でも手を振ったり、民衆と交流する天皇の姿には反感も薄いだろう。太平洋戦争の責任者だったヒロヒトはともかくアキヒトに対しては、リベラル派と言われる人々もあっさり屈服し、革新政党も国会でも地方議会でも直接天皇制への批判を避ける。票が減りかねないからである。
しかしこの反対しにくい空気を利用して、国家内の様々な対立、階級や政治的な立場での違いを丸め込み、「日本国」という枠組みにはめ込んで意見を言いにくくするのに今の天皇制は便利な道具だ。
現に革新政党はほぼ屈服してしまっている。
アキヒトが仮に「平和主義」でも支配のシステムとしての天皇制の弊害はこういう形で続く。
オリンピックがもはや資本の収奪の場でしかなくても、それに反対しにくい空気作り、国家のもとへの統制に役立つのに似ているのだ。
そんな中で進む沖縄辺野古の新基地建設・自衛隊の拡大強化に改めてどう対決していくかを考える必要がある。
『立川テント村通信 493号』(2019年3月1日)
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