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東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

普遍的な教育目的も科学的認識も欠いた今度の学習指導要領改訂

2017年02月06日 | こども危機
 ◆ 教育のあり方・目的を大転換させる
   一新学習指導要領全体の構図
(教科書ネット)
石山久男(子どもと教科書全国ネット21常任委員)

 ◆ 学習指導要領の性格が大きく変わる

 12月に出された中教審答申によれば、今年度中に告示されようとしている新学習指導要領の基本的構造の特徴として、次の点があげられる。
 1)教育の目的を個人の「人格の完成」から、「社会に開かれた教育課程」と称して社会の要請に応える「資質・能力」を備えた「人材育成」に転換したこと。
 2)その「資質・能力」の要素として「知識・技能「思考力・判断力・表現力等」もあげているが,それらを踏まえた資質・能力の最終目標を「学びに向かう力・人間性等」という道徳的内容におき、「特別の教科・道徳」を事実上の筆頭教科にしたこと。
 3)新学習指導要領が示す教育の目的の達成を確実にするために、教える内容中心の学習指導要領から、授業方法(「アクティブ・ラーニング」等)、学習評価、学校の体制づくりまで含めた教育の全過程を統制する学習指導要領に変えたこと。
 4)とくに学習指導要領の実行を徹底する学校の体制づくりも学習指導要領の役割として位置づけ、そのために「カリキュラム・マネジメント」と称して、いわゆるPDCAサイクルを学校に持ち込み、教職員と学校に対する評価と管理を徹底させること。
 従来の学習指導要領とは本質的に異なるこの新学習指導要領に対し、どのような対案を提示できるだろうか。
 ◆ 人格の完成は世界共通の教育目的

 1)で述べた教育の目的を個人の「人格の完成」におくという考え方は、1947年教育基本法の第1条冒頭で「教育は、人格の完成をめぎし」と示され、2006年の改定教育基本法でもそれが削除されることはなかった。
 ほぼ同じ趣旨が1948年に国連総会で採択された世界人権宣言第26条でこう述べられている。
 「教育は、人格の完全な発展並びに人権及び基本的自由の尊重の強化を目的としなければならない」。
 同じ趣旨は1966年の国際人権規約(社会権規約)、1989年の子どもの権利条約で繰り返し述べられており、それが今日の世界の教育目的についての共通認識、不動の到達点となっている。
 20世紀の二度にわたる世界大戦をへて、平和・人権・民主主義・平等を共通の価値観とする共通認識をつくりあげてきたことがその背景にある。
 ◆ 人材育成を教育目的にしたのはなぜ

 ところが中教審は教育の目的を、社会の要請に応える人材育成に変えた。中教審がいう社会の要請とは何なのか。
 情報化やグローバル化が予測を超えて進展する、人工知能の進化が人間の職業を奪うのではないかとの不安がある。子どもたちの65%は将来今は存在していない職業に就く、等々の「予測できない未来」を強調し、だから一人ひとりが社会の変化に「主体的に」向き合い、自らの可能性を最大限に発揮して「新たな価値」を生み出さなければならない。つまり企業にとって予測困難な未来においても、利益を生み出す人間になることが社会の要請であり、それに役立つ「資質・能力」を備えた「人材」を育てることを教育の目的として位置づけたのである。
 ◆ 未来は予測困難なのか

 たしかにグローバル企業にとつては先行き不透明、予測困難な未来かもしれない。だが、人類全体にとつてはどうなのか。
 前述のように、教育の日的について述べた国際的合意をみれば、平和、人権、民主主義、人間の尊厳の保障ということが、人類共通の未来像としてゆるぎないものとしてうちたてられている。
 それは文書の上での単なる理想像として描かれているだけでなく、今日の現実世界のなかで実現しつつある。
 平和の問題では、第二次大戦後、化学兵器、対人地雷など非人道的兵器の禁止が実効をあげ、最近の国連総会では、核保有大国の反対を押しのけ、核兵器禁止の協議開始の決議が圧倒的多数の賛成で採択された。
 東アジアでは緊張が激しくなっている面もあるが、そのなかで戦後に植民地従属国から自立した小国の連合体であるASEANが、域内・域外諸国を含めたねばり強い対話を積み重ね、戦争のない東南アジアを実現している。
 同様の動きが中南米でも進展している。
 そのなかで、いま世界では軍事同盟が機能しているのはNATOと日米韓豪のみとなり、国家間の戦争は20世紀にくらべ大幅に減少している。
 「慰安婦」問題も含め、人権侵害に対する国際的な取り組みが発展し、日本の人権状況に対する国際機関からの勧告も厳しく行われている。
 このような状況こそ日本国憲法が描く未来ではないか。

 しかし中教審はこのような世界の現状には関心がなく、どうやら新学習指導要領でも、日本国憲法、平和、人権については非常に軽視されることが危惧される。
 子どもたちに学んでほしいのは、企業にとっての予測できない未来ではなく、人類全体が歩み進めている平和と人権に向かう大河のような流れとそれにつらなる日本国憲法の価値、そこにある未来への希望ではないだろうか。
 ◆ 「道徳」とは何かを考えなおそう

 2)で述べた道徳については、道徳とは本来、個人が他者や社会・世界とどのような関係をつくって生きるのかという生き方・考え方の問題であり、道徳の新学習指導要領が示す特定の生き方・価値観にもとづき評価を行い、それを強制すべきものではないことを、あらためて確認したい。
 道徳とは単に身の回りの人間関係や、職業集団や国家のなかでの個人の生き方の問題ではなく、広く社会全体、さらには世界のあり方の現実をどうとらえ、そのなかで社会的正義の実現をめざす生き方をどうつくるかという問題を含むのであり、その点では、社会と世界の現実と歴史に対する科学的認識をもつことが不可欠である。
 ここでも道徳も含めた新学習指導要領には、今日の日本と世界についての科学的認識が皆無であり、そこまで視野を広げるのではなく、すでにできあがった「決まり」には従わなくてはならないということを中心にすえた内容になっていることを指摘しておきたい。
 ◆ カリキュラム・マネジメントの意味

 すでに学力テスト体制が学校に浸透し、全国、都道府県、市区町村と何段階ものテストが毎年行われ、学校と自治体単位でその点数、順位を競わされている。そのための過去問練習などが授業をないがしろにして行われる場合も多い。
 それは、国家または地方の政治権力が子どもの学習目標・内容・方法を定め、その達成度を評価することによって、国家が教育の主体となることを意味している。
 そうした国家主体の教育(道徳も含む)とその達成度評価を通じて、子どもに対しては進路の仕分け=労働力としての仕分けが行われ、格差と貧困を再生産し、生存権の平等性が破壊される。
 教員に対しては、待遇の格差をつくり人事管理を行う。学校に対しては、学習指導要領も含む国家の教育政策の徹底がはかられてきた。
 3)と4)で指摘したように、新学習指導要領ではとくに、カリキュラム・マネジメントと称して、PDCAサイクルを活用した学校と教職員に対する評価と管理が徹底され、新学習指導要領の徹底がめざされる。
 新学習指導要領のもとでは、国家が学習内容を決めるだけでなく、政権とその背後にあるグローバル大企業の要求にそって、教育全体のあり方・機能を全面的に決定し、その方向で教育の過程全体を支配しようとしている。
 本来、教育における評価とは、子どもの成長発達のための課題を発見し、教職員の教育的働きかけの課題を発見するためのものであり、国家の教育政策を徹底させるためのものではなかったはずである。
 その対決点を明確にする必要がある。総じて言えば、従来の教科内容を中心とした学習指導要領批判だけではなく、教育のあり方の全面にわたる分析と批判を展開しなければならないのではないかと思う。(いしやまひさお)
『子どもと教科書全国ネット21ニュース 111号』(2016.12)

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