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東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

「表現の自由の保障とヘイト・スピーチの処罰は両立する」「民主主義とレイシズムは両立しない」

2018年11月26日 | 人権
 ◆ 四半世紀、国連人権機関に通い続けて思うこと (教科書ネット)
前田 朗(まえだあきら・東京造形大学教授)

 ◆ 人種差別撤廃委員会、4度目の勧告
 8月30日、人種差別撤廃条約に基づく人種差別撤廃委員会は、日本政府に対して条約の履行・実施のための改善勧告を出しました。
 委員会による日本政府報告書の審査は8月16・17日に、ジュネーヴの国連人権高等弁務官事務所が入るパレ・ウィルソンという建物の会議室で行われました。レマン湖のほとりにある素敵な場所で、会議室を出て遊覧船に乗りたい気分で、審議を傍聴しました。
 日本政府報告書審査にあたって、多くのNGOは「人種差別撤廃NGOネットワーク」という連絡組織を作り、共同でNGOレポートを作成して委員会に提出し、審査当日には30人近いメンバーがジュネーヴに集まりました。
 委員会の審査の様子は私のプログに現地レポートを詳しく紹介しています(「人種差別撤廃委員会・日本報告書審査」on前田朗Blog)。
 委員会の勧告は多数ありますが、その一部は次のようなものです。
①直接的および間接的な人種差別を禁止する具体的で包括的な法律の採択
②パリ原則に従った広範な権限をもつ国内人権機関の設置
②条約第4条(ヘイト・スピーチ禁止)に対する留保撤回の可能性の検討
③ヘイト・スピーチ解消法の実効性を高める改正
④集会におけるヘイト・スピーチ、暴力煽動の禁止
⑤インターネットとメディアにおけるヘイト・スピーチと闘うための効果的措置
⑥公人によるヘイトクライム、人種的ヘイト・スピーチ調査、制裁
⑦アイヌ民族への差別撤廃取組み強化
⑧女性に対する暴力を含む、琉球・沖縄の人ぴとの適切な安全と保護の確保
⑨部落差別解消推進法実施措置、その影響についての情報提供
⑩高校就学支援金制度の支援金支給における朝鮮学校差別の是正
⑪ムスリムに対するプロファイリングの終結、徹底的で公正な調査
⑫被害者中心アプローチで、あらゆる国籍の「慰安婦」問題の永続的な解決
⑬技能実習制度の改善遵守確保・監視
⑭人身取引と闘う努力の強化
 人種差別撤廃NGOネットワークに結集した仲間の尽力もあって、大変良い勧告を出してもらうことができました。
 人種差別撤廃委員会の勧告は、2001年、2010年、2014年に続く4度目です。振り返ってみると、私は4度の審査に参加しロビー活動をしてきました。4度とも参加したのは私だけです。
 ニュース編集部から「四半世紀、国連人権機関に通い続けて思うこと」というテーマをいただいて改めて想起すると、1994年に初めて参加したので、私のジュネーヴ通いはやがて文字通り四半世紀になります。
 ◆ 国連人権理事会ロビー活動

 1980年代・大学院生だった私は、久保田洋さん戸塚悦郎さんの国連人権委員会報告を読んで勉強していました。
 ただ、「国連なんて帝国主義の手先だ」と決めつけていましたから、自分が国連人権機関に参加するとは予想だにしていませんでした。
 1989年に「テポドン騒動」のため朝鮮人襲撃事件が多発し、友人たちと「在日朝鮮人・人権セミナー」という運動団体をつくって、主に朝鮮学校差別問題の解決のために活動する中で、国際自由権規約委員会や子どもの権利委員会にレポートを出すようになりました。
 1994年春、「北朝鮮核疑惑問題」のため再び朝鮮人襲撃事件が続発しました。被害聞取り調査を行い、全国160件の暴行や脅迫の被害内容を報告書にまとめましたが、日本政府は被害を放置し、まともに捜査を行いませんでした。
 やむを得ず、国連に訴えることになり、1994年8月、初めてジュネーヴに飛びました。
 当時の国連人権委員会差別防止少数者保護小委員会に参加し、NGOとして発言。右も左もわからないまま、手探りでの国連人権活動でした。
 多くの国際NGOメンバーに出会うことができ、その意義を理解できるようになり、1995年春の国連人権理事会、夏の人権小委員会にも参加しました。
 後に2006年の国連機構改革によって、人権委員会は人権理事会となり、廃止された人権小委員会に代わって諮問委員会が設置されました。ここにも長年通い続けています。
 国連協議資格を認められたNGOのメンバーは国連人権理事会や諮問委員会に参加し、手続きをとれば発言することができます。
 かつては7分、あるいは5分の発言時間でした。現在は通常3分しかありません。それでも193か国の外交官が参加する国連で発言できることには大きな意味があります。
 何しろ、私たちは日本の国会で発言するチャンスをめったに手にすることができません(私は2005年、イラク特措法審議の時に参議院の公聴会で一回発言しただけです)。
 国連人権委員会・人権理事会では、この四半世紀に80回以上発言しました。
 発言した内容は、朝鮮人襲撃事件、朝鮮学校差別問題、日本軍性奴隷制問題、歴史教科書問題、ヘイト・クライム/スピーチ問題、福島原発被災者の人権問題などです。
 ◆ 人種差別撤廃委員会ロビー活動

 他方、人権条約に基づく委員会にも参加しました。人種差別撤廃委員会、拷問禁止委員会、国際自由権規約委員会、社会権規約委員会に参加しました。子どもの権利委員会も傍聴しましたが、日本審査の時には参加できていません。
 日本政府は1995年に人種差別撤廃条約を批准し、2001年に初めて審査を受けました。私は1998年8月に初めて人種差別撤廃委員会を傍聴し、その報告を行いました。
 当時、私は、日本憲法学の「表現の自由の優越的地位論」を信じ込んでいました。人種差別撤廃条約第4条ヘイト・クライム/スピーチの処罰を求めていることは知っていましたが、世界各国が実際にどのように処罰しているか知りませんでした。
 多数の憲法学者の「表現の自由だから差別表現規制はありえない」という意見に騙されていたのです。
 人種差別撤廃委員会を傍聴してみると、多くの国でヘイト・スピーチを処罰していることがわかりました。委員会では「表現の自由の保障とヘイト・スピーチの処罰は両立する」と言います。国連人権機関では「民主主義とレイシズムは両立しない」と言います。
 民主主義や表現の自由を守るためにヘイト・スピーチを処罰するのが国際常識です。
 憎悪と差別と暴力の煽動であるヘイト・スピーチを表現の自由だと言って擁護するのは人権意識の欠如の表明でしかありません(詳しくは、前田朗『ヘイト・スピーチ法研究序説』三一書房)。
 ◆ 国際人権法のいっそうの活用を

 国際人権の舞台で活動してみると、日本の人権状況の実態がよく見えてきます。憲法学多数派の非常識ぶりもよくわかります。
 さまざまの国連機関やNGOの「人権状況チェック」において、日本は世界で100位以下とされることが増えてきました。政府の水準も低いのですが、憲法学多数派の水準は目を覆わんばかりの低さです。
 国際人権法の水準で日本の人権状況を点検し、その改善のために努力することで、私たちは世界各地の人権NGOとつながることができます。四半世紀かけてようやくそのことがわかってきたのは、遅すぎたかもしれません。
 しかし、最近は若手の研究者や弁護士などNGOメンバーが積極的に活躍しています。勤務先の定年退職まであと2年ですので、私もあと2年は国連人権活動を続けて、若手に引き継いでいきたいと思っています。
『子どもと教科書全国ネット21ニュース 122号』(2018.10)

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