☆ 東京「君が代」3次訴訟控訴審・判決12月4日(金)14:00~東京高裁101
=「日の丸・君が代」強制に反対するねりまの集会=
◆ 「日の丸・君が代」の押しつけから見える憲法の危機
今年の「日の丸・君が代」強制に反対するねりまの集会は、2月28日(土)に練馬区立区民産業プラザ(ココネリ)で開かれ、気鋭の憲法学者である巻美矢紀(まきみさき)千葉大教授に、「公教育と立憲主義」と題して講演をしていたたきました。巻美矢紀さんは、東京「君が代」裁判第三次訴訟の東京地裁において意見書を執筆され、さらに証人として法廷に立たれました。当日の講演概要を、東京「君が代」裁判第三次訴訟の原告でもある練馬・教育問題交流会の田中造雅さんが報告します。
■ 立憲主義の今日的危機
今日、立憲主義は、ひとつの内閣・内閣法制局が集団的自衛権行使を決定するという、目に見える危機に見舞われている。
危機は顕在的なものには限らない。多元性の抑圧(マスコミの自粛)、多元性社会の集団分極化現象(異質な他者の排除、ヘイトスピーチ)、そして社会全体を覆うアパシー(無関心、無力感)など、危機は広範に存在する。
立憲主義、憲法は国家権力の恣意から個々人の基本的人権を守り、その尊厳を支えるものに他ならない。それが今、覆されようとしている(自民党の改憲案は、国家権力が国民を縛るものとなっている)。
■ 公教育における公権力の介入の内在的限界
もう一つの危機が.2003年にこ都教委が発出した「1O・23通達」※1)及びそれに基づく職務命令に始まる卒業式・入学式等における「君が代」起立斉唱・伴奏の強制である。
この危機を前にして憲法学者として何もしないわけにはいかないという思いから、東京「君が代」裁判第三次訴訟の意見書及び証人を引き受けたのである。
これまでに、この問題にっいて出た最高裁の判決は、「10・23通達」及びそれに基づく職務命令は合憲であるとの判断を下しながらも、これが原告の思想良心、信教の自由に対する「間接的制約」であることを認めている。「一般的・客観的見地」に立つとしても「国旗及び国歌に対する敬意の表明の要素を含む」ことを認めている。
もともと思想・良心・表現の自由という領域は、歴史的に見ても政府の介入の可能性が高いのである。憲法学でいうところの「厳格な審査基準」を当てはめるならは、違憲判決が出て然るべきであろう。これまでの裁判では、思想・良心の自由(憲法19条)、信教の自由(憲法20条)に対する侵害が最大の焦点であった。
もちろん、このことは重要な問題である。しかし別なる大きな問題が存在する。公教育における公権力の介入の内在的限界の問題である。都教委が不起立等の強制においてこの内在的限界を踏み越えたことを、意見書では明らかにした。
■ 政府言論に対する教師の道具的自由
「政府言論」(ガバメント・スピーチ)という言葉がある。政府は言論の提供者として立ち現れる。公教育は一種の政府言論であり、教師は、政府言論の媒介(メッセンジャー)であると国家に期待され、位置づけられている。
しかし、そうであるからこそ、公権力が内在的限界の一線を踏み越えた時には、教師はその媒介となることを拒否して、それを告発する権利を持つ。「10・23通達」及びそれに基づく職務命令に対して、少なからぬ教員が不起立・不伴奏で公権力=都教委に異議を申し立てている。
しかし司法の場においては、権利の侵害という形で争わなければならない。そこで「教師の教育の自由」という道具立てを行った。教師自身が持つ権力性というもう一つの側面もあるが、公教育における民主主義の問題として、「教師の教育の自由」(道具的自由※2))をもって、裁判で争うのである。
■ 象徴システム(シンボリズム)、刷り込み
国旗・国歌は国家の象徴であり、多様な解釈に向けて開かれている。しかし何の説明もないまま、こどもに儀式において心の中に取り込ませるのは、理性を遮断して行う、愛国心の刷り込みである。
身体へ社会的・儀礼的所作として自然な形で浸透させることは、洗脳に他ならない。
公権力による公教育に対する一線を越えた介入である。
式典という同調圧力の強い場において、教師というこどもに対する強い影響力を持つ存在を一律に起立・斉唱さぜることによって、こどもたちに愛国心に対する偽の同意を調達しようとするものである。
それ以外に、職務命令と処分をもって教師たちに起立斉唱・伴奏を強制する合理的理由は認められない(田中注 意見書には、これこそが10・23通達および職務命令の真の目的である、同時に反対する教員を灸り出すことも真の目的である、と述べられている)。
■ 教育と民主主義の再生、愛国心…
憲法学の中では、公教育をめぐる問題は議論されてこなかった。これまで偏見の少ない青少年を対象とする公教育の目的は、「人格の完成」に限定すべきとの見解が多数を占めていた。国家・教師による洗脳の危険性から忌避されてきたのであるが、現在社会を覆い尽くしているアパシー状態を見ると、「公教育の目的」を限定しすきたきらいがある。
民主主義が機能していくためには、個人がお互いを異質な他者として相互尊重していかねばならない。公教育の場においては、経済的、宗教的に様々な背景を持つこどもたちが、思想的偏見を持たず相互尊重しながら育っていく可能性を持っている。それが民主主義の再生産である。
公教育が担うもの以外の情報や価値観の多元性を保証するのは、本来マスコミの役割である。マスコミにも教師の教育の(道具的)自由と局じく、報道の(道具的)自由が存在する。
一方、国家は支配の道具として愛国心を用いる誘惑にかられるものである。愛国心はそれを持つことそのものから議論の対象であるが、自発的であることが最低条件である。
国家が憲法を守って個人の基本的人権を尊重することによって、はじめて愛国心の対象となるのである。(文責 田中造雅)
『練馬・教育問題交流会ニュース』(2015・7)
=「日の丸・君が代」強制に反対するねりまの集会=
◆ 「日の丸・君が代」の押しつけから見える憲法の危機
今年の「日の丸・君が代」強制に反対するねりまの集会は、2月28日(土)に練馬区立区民産業プラザ(ココネリ)で開かれ、気鋭の憲法学者である巻美矢紀(まきみさき)千葉大教授に、「公教育と立憲主義」と題して講演をしていたたきました。巻美矢紀さんは、東京「君が代」裁判第三次訴訟の東京地裁において意見書を執筆され、さらに証人として法廷に立たれました。当日の講演概要を、東京「君が代」裁判第三次訴訟の原告でもある練馬・教育問題交流会の田中造雅さんが報告します。
■ 立憲主義の今日的危機
今日、立憲主義は、ひとつの内閣・内閣法制局が集団的自衛権行使を決定するという、目に見える危機に見舞われている。
危機は顕在的なものには限らない。多元性の抑圧(マスコミの自粛)、多元性社会の集団分極化現象(異質な他者の排除、ヘイトスピーチ)、そして社会全体を覆うアパシー(無関心、無力感)など、危機は広範に存在する。
立憲主義、憲法は国家権力の恣意から個々人の基本的人権を守り、その尊厳を支えるものに他ならない。それが今、覆されようとしている(自民党の改憲案は、国家権力が国民を縛るものとなっている)。
■ 公教育における公権力の介入の内在的限界
もう一つの危機が.2003年にこ都教委が発出した「1O・23通達」※1)及びそれに基づく職務命令に始まる卒業式・入学式等における「君が代」起立斉唱・伴奏の強制である。
この危機を前にして憲法学者として何もしないわけにはいかないという思いから、東京「君が代」裁判第三次訴訟の意見書及び証人を引き受けたのである。
これまでに、この問題にっいて出た最高裁の判決は、「10・23通達」及びそれに基づく職務命令は合憲であるとの判断を下しながらも、これが原告の思想良心、信教の自由に対する「間接的制約」であることを認めている。「一般的・客観的見地」に立つとしても「国旗及び国歌に対する敬意の表明の要素を含む」ことを認めている。
もともと思想・良心・表現の自由という領域は、歴史的に見ても政府の介入の可能性が高いのである。憲法学でいうところの「厳格な審査基準」を当てはめるならは、違憲判決が出て然るべきであろう。これまでの裁判では、思想・良心の自由(憲法19条)、信教の自由(憲法20条)に対する侵害が最大の焦点であった。
もちろん、このことは重要な問題である。しかし別なる大きな問題が存在する。公教育における公権力の介入の内在的限界の問題である。都教委が不起立等の強制においてこの内在的限界を踏み越えたことを、意見書では明らかにした。
■ 政府言論に対する教師の道具的自由
「政府言論」(ガバメント・スピーチ)という言葉がある。政府は言論の提供者として立ち現れる。公教育は一種の政府言論であり、教師は、政府言論の媒介(メッセンジャー)であると国家に期待され、位置づけられている。
しかし、そうであるからこそ、公権力が内在的限界の一線を踏み越えた時には、教師はその媒介となることを拒否して、それを告発する権利を持つ。「10・23通達」及びそれに基づく職務命令に対して、少なからぬ教員が不起立・不伴奏で公権力=都教委に異議を申し立てている。
しかし司法の場においては、権利の侵害という形で争わなければならない。そこで「教師の教育の自由」という道具立てを行った。教師自身が持つ権力性というもう一つの側面もあるが、公教育における民主主義の問題として、「教師の教育の自由」(道具的自由※2))をもって、裁判で争うのである。
■ 象徴システム(シンボリズム)、刷り込み
国旗・国歌は国家の象徴であり、多様な解釈に向けて開かれている。しかし何の説明もないまま、こどもに儀式において心の中に取り込ませるのは、理性を遮断して行う、愛国心の刷り込みである。
身体へ社会的・儀礼的所作として自然な形で浸透させることは、洗脳に他ならない。
公権力による公教育に対する一線を越えた介入である。
式典という同調圧力の強い場において、教師というこどもに対する強い影響力を持つ存在を一律に起立・斉唱さぜることによって、こどもたちに愛国心に対する偽の同意を調達しようとするものである。
それ以外に、職務命令と処分をもって教師たちに起立斉唱・伴奏を強制する合理的理由は認められない(田中注 意見書には、これこそが10・23通達および職務命令の真の目的である、同時に反対する教員を灸り出すことも真の目的である、と述べられている)。
■ 教育と民主主義の再生、愛国心…
憲法学の中では、公教育をめぐる問題は議論されてこなかった。これまで偏見の少ない青少年を対象とする公教育の目的は、「人格の完成」に限定すべきとの見解が多数を占めていた。国家・教師による洗脳の危険性から忌避されてきたのであるが、現在社会を覆い尽くしているアパシー状態を見ると、「公教育の目的」を限定しすきたきらいがある。
民主主義が機能していくためには、個人がお互いを異質な他者として相互尊重していかねばならない。公教育の場においては、経済的、宗教的に様々な背景を持つこどもたちが、思想的偏見を持たず相互尊重しながら育っていく可能性を持っている。それが民主主義の再生産である。
公教育が担うもの以外の情報や価値観の多元性を保証するのは、本来マスコミの役割である。マスコミにも教師の教育の(道具的)自由と局じく、報道の(道具的)自由が存在する。
一方、国家は支配の道具として愛国心を用いる誘惑にかられるものである。愛国心はそれを持つことそのものから議論の対象であるが、自発的であることが最低条件である。
国家が憲法を守って個人の基本的人権を尊重することによって、はじめて愛国心の対象となるのである。(文責 田中造雅)
※1)10・23通達 都教委が都立学校の各校長を対象に発出した通達。式場の各教員の座席、「日の丸」の掲示位置、式次第からすべて決められている。この通達に基づいて包括的職務命令とともに、教員一人一人に個別職務命令が発出される。これまで延べ474名の教職負が不起立・不伴奏により、職務命令違反・信用失墜で戒告以上の処分を受けている。被処分者は経済的不利益、再任用の打ち切り・合格取り消しはもちろんのこと、服務事故再発防止研修などさまざまな不利益を被っでいる。この通達の発出を契機に、都立学校は上意下達の場へと大きく変貌した。職員会議における採決禁止はそのひとつである。
※2)道具的自由 社会全体にかかわる公益を確保するために相応しい集団に認められる自由。特権ではなく、一定の集団に認めることで全ての人々に役立つという意味で、「道具的自由」と呼ばれる。時々の政治的多数派からすべての人々の基本的人権を守るために、教員に付与されるものが「教師の教育の自由」、マスコミに付与されるものが「報道の自由」である。
『練馬・教育問題交流会ニュース』(2015・7)
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