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パワー・トゥ・ザ・ピープル!!アーカイブ

東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

放射線被ばくで労災認定された"あらかぶさん"が損害賠償提訴

2017年03月24日 | フクシマ原発震災
 ▼ 生命を賭けて東電・九電を告発 (労働情報)
松本千枝(team rodojoho)

 トリプルメルトダウンから6年。福島第一原発の廃炉作業には、1日7000人近くが従事するという。高い線量に汚染された危険な現場において、ひとりでも多くの労働者の安全と権利、尊厳が守られるよう、白血病再発の不安を抱えながらも、勇気と誇りを持って立ち上がった仲間がいる。
 日本で初めて原発が稼働してから40年以上がたつ。ところが厚労省が放射線被ばくを労災認定したのは、これまでにほんの14件しかない。元福島原発作業員のあらかぶさん(仮名、42歳)もそのひとり。
 昨年10月に厚労省から労災認定を受け(本誌924号参照)、東京電力と九州電力に対して損害賠償と慰謝料を求めて提訴した。2月2日の初回口頭弁論では東京地裁の法廷に立ち、怒りに満ちた声で意見陳述した。
 「(東電に)求めるのは、謝罪の言葉だけ」。
 そう語るあらかぶさんは、地元・九州の造船業などで溶接工溶として働いていたが、東日本大震災後の10月に「困っている人がいるなら、自分もなにか支援がしたい」との思いで福島に向かった。
 ▼ まさか自分が……
 2011年11月から翌1月までは福島第二原発、10月から2013年3月までは第一原発で収束作業に従事した。
 現場には想像を絶する光景が広がっていた。
 大型クレーンが折れ曲がり、頑丈なはずの建造物が吹っ飛んでいた。
 テレビの画面上で見るよりも、水素爆発の威力をよりいっそう強く感じて大きな衝撃を受けた。
 線量が高すぎて、アンカーボルトを外す作業などは一日10分に限られたこともある。
 当初は、ヘルメットも線量計も足りない中での作業。「かなりずさんだった」と記憶をたどる。
 第一原発から引き上げた2013年12月19日以降、あらかぶさんはずっと空咳と高熱に悩まされていた。階段を上がっただけでも息苦しい状態が続いたが、ただの風邪だと片付けていた。そのあとも、年末は30日まで地元の建設現場で勤務する。
 福島での仕事を終えた頃、会社から放射線電離検査を受けるようにと指示が出ていたので、やっとその気になった翌月10日に病院で受診。
 直後に、急性骨髄性白血病の告知と、即入院の指示を電話で受けた。

 「まさか自分がなる病気だと考えられず、他の人の血液と取り間違えたんだろうと思っていた」
 医者には、あと2週間も経過していたら手遅れだったと言われるほど重症だったが、がんに侵されていない残りの血液で自家造血移植を実施。
 各種抗がん剤を投与して効果を試す無菌室での治療が始まった。

 その間、ボールペンほどの太さがある注射器での骨髄穿刺を20回ほど繰り返し、そのたびに激痛に耐えた。
 腰が使えなくなれば、今度は胸に針を刺し、首のカテーテルから点滴を受けた。
 抗がん剤の副作用で体毛が落ちるだけでなく胃腸などにも激痛が走るためモルヒネを投与し続けた。
 肉体労働で鍛えた85キロの体格はみるみる体重が落ち、65キロに激減。

 「それでも弱音は吐かなかった」と、妻の里江さん(仮名、40歳)は言う。
 介護福祉士としての仕事をしながら病院に通い続けた里江さんにとって、幼い息子3人だけが心の拠り所だった。
 福島原発から帰還して白血病を患ったことは、身内や限られた親友にしか報告していない。
 「友だちは電話で励ましてくれたり、外で会ったりして楽しかったけど、家に帰るとやっぱりひとり。それが辛かった」
 里江さんの目から涙がこぼれた。

 病院で告知を受けた直後は、頭が真っ白になり、二人で行くあてもなく泣きながら外を歩き続けた。
 「この人、助かるんやろうか--」。
 不吉な考えが頭をよぎるも、決して口にはしなかった。
 入退院を繰り返す中「いつ死んでもいいように」と、子どもたちを連れて“思い出づくり”の旅行に出た。
 抗がん剤が完全に抜けきらない弱った体で、ユニバーサルスタジオや北海道の温泉、石垣島など、各地を回った。
 あらかぶさんが裁判に踏み切ったのは、唯一、労働者を“捨て駒”とする東電が許せなかったから。
 労災認定の記者会見で東電は、「下請け業者の一作業員のことにコメントする立場にない」と言い放ち、白血病と作業の因果関係を認めていない。
 法廷には、被告代理人弁護士だけが出席。
 不誠実な発言が続く相手に、里江さんは「人を小馬鹿にしている。つかみかかってやろうかと思った」とまで怒りを感じた一方、あらかぶさんは「闘争心が燃えた」と言う。
 雇用契約当初は、放射能の危険性が完全に伝えられておらず、危険手当の部分が黒く塗られていた雇用契約書にサインさせられた
 放射能がどんな病気や健康異常をもたらすかについてほとんど説明もなかった。
 労災認定を受けて以来、報道機関からの取材などを通してはじめて、鉛のベストを着用していなかったことや医療用マスク程度しか支給されなかった当時の状況が会社の無責任な対応だと知った。
 ▼ 一つだけでも変えられたら
 原発の仕事に対して、家族は猛反対した。
 実家の父からは「向こうに行ったら白血病になるぞ」などと言われたが、「原爆と原発とは違うやろ」と押し切った。
 そんな自分に対して「自業自得だ」という非難の声も聞こえてくるが、それを乗り越えられたのは、「むずがゆくなるほど」支援してくれる労働組合との出会いがあったからだという。
 当初は、赤旗が林立する情景にひるみもしたが、自分の悩みだけでなく労働者の権利全般や脱原発の運動などに共闘する組合に「なんでこんなに人のためにできるのか」と驚いた。
 これまでも、身内以外の他人のことを考えたこともないあらかぶさんにとって、はじめて目にする光景だった。
 今もまだ脱原発と容認の間で揺れるが、それでも、原発は発電するために人の命を奪う技術であり、そのために地元の人をだまして洗脳し、危険なものを建てた東電は許せない。
 「作業員にも人権があるんやけ、(東電のために)働いてんだからもう少し歩み寄れ」と言いたい。
 第一原発の仕事を志願したことやその結果に、後悔の念はない。
 この裁判が前例となり、今後も原発で働く何千、何万ともいわれる作業員のためになれば、という切実な思いで提訴した。
 ずっと「Aさん」で通していた仮名を、「あらかぶ(九州地方で「かさご」のこと)」に変えた。
 定期的に船を出しては息子たちとも楽しんでいた大好きな釣りは、もうしばらくできない。
 ただ、関門の荒波を泳ぎきる地元名物のあらかぶを、はじめて一本釣りで挙げたことは忘れもしない。
 東電相手のこの闘争も、この初心を胸に臨むつもりだ。

 「大げさかもしれないけど」、と少し照れたようにあらかぶさんは言う。
 「せっかくこの世に生まれてきたんだから、ひとつだけでも制度を変えられたらいいよね」
 死の宣告をされたと思った瞬間セピア色に靄がかかった周りの空気が、また少しずつ透き通っていく。
 ※ 第2回口頭弁論 4月27日(木)11時から
 ※ 「あらかぶさんを支える会」結成集会 4月26日(水)18時半から 文京区民センター2A会議室

 『労働情報954号』(2017.3.1)

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