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【僕、国歌歌わないもん】(石原慎太郎)
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東京五輪に 【国旗も国歌も必要ない】(ビートたけし)
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対米従属で「世界征服」を夢想するデマゴギー政治家安倍首相を倒そう!
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最近、評論家の佐高信さんが、▲ 民主党は「立憲民主党」と改めてはどうかと提案しているようです。
私は一概に「立憲主義」を否定するものではありません。
また大衆的な運動を発展させる上で現在一つのスローガンのようになっていることも否定するものではありません。
しかし、やはり警戒もしなければならないと思っています。
最近流行っている(?)この「立憲主義」については、私は、昨年11月30日のメール(アベを倒そう!(38))で、戸坂潤の「自由主義・ファシズム・社会主義」(『日本イデオロギー論』1936、岩波文庫、408~422ページ)という論文から、「立憲主義」に関わる部分を紹介しました。
そこでは、次のように述べられていました。
「今日の日本の社会思想と云えば、自由主義とファシズムと社会主義との三つである。之を単なる思想としてみれば、自由主義・日本主義・唯物論の三つだと云ってもいい。」
そして、①<自由主義>、②<ファシズム>を検討し、(③<社会主義>については後で述べます)
①では、「経済的自由主義」、「政治的自由主義」、「文化的自由主義」を検討し、「立憲主義」は「政治的自由主義」のところで述べられていたものです。
つまり、戸坂は当時の「自由主義」を、「自由主義ではなくて他のものになっている」として批判しているのです。
②については、次のようなことが述べられています。
「日本的ファシズムのイデオロギーを一時一等華(はなや)か(?)に展開したのは、右翼国粋反動的ファシズムであった。
それにも拘らず、初めこのイデオロギーは、その一つ一つを取って見ても理論的に一向体系的真実を持ったものでもなく、まして全体を統一した世界観の構造などは持っていなかった。
・・・・処がこの勢力が外見上多少下火になると共に、各種ファッショ団体の整理統一と併行して、やがてそのイデオロギー自身の統一化が齎(もたら)された。夫(それ)は皇道主義を経て遂に国体明徴主義にまで帰着したのである。」
「一体ファシズムは現実的地盤と観念的地盤とが喰違っていて、従ってそのイデオロギーは特別に観念的であり即ち又特にイデオロギッシュなのだが(もっと正当にはデマゴギッシュと云った方がいいかも知れない)、処がそのイデオロギー自身が他の意味で平凡(およ)そイデオロギーの資格を欠いている。思想として現に何等の筋の通ったシステムを持てないのである。」
そうして、結論として次のように述べています。
「今日は反動期だと云う。マルクス主義も自由主義さえも退潮した、日本はファシズムの世の中であり、又ファシズムへの道が唯一の残された方向だ、などとも云われる。だが夫(それ)は全く皮相で卑俗な通念だ。社会主義はこういう機会を利用してこそ、思想運動としての深度・身近さ・大衆化の素地を養うのだ。この素地を俟(ま)って、社会主義の政治的出発はいくど新たにされてもいいのである。」
ちなみに、③<社会主義>に関することについては、この本の375~395頁にある論文「一 現下に於ける進歩と反動との意義」に次のように述べられているところがあります。
「だがマルクス主義が退潮したということは本当は何を意味しているのか。
それはマルクス主義的政党及び組合の破壊と、それを囲む文化的政治的活動組織の破壊とを本来意味する筈なのだが、併し世間の実際の気持ちから云えば、之に加えて、或いは寧ろ之よりも手近に、一般にマルクス主義的風潮の流行が衰えたということなのである。
左翼思想犯人はブルジョア新聞紙上ではもはや何等の英雄でもなくなって、泥棒やギャングの類として待遇され始める(今日の英雄は右翼団体乃至(ないし)日本主義的〔連中〕だ)。これは新聞が世間のその日その日の常識を反映したものであると共に、新聞が世間をそういう風に教育しているということでもあるが、おかげでシンパも減ったろうが、マルクス主義の野次馬も減ったのである。マルクス主義が反省の時期に這入ってことが、所謂(いわゆる)反動期の意味である。」
「今日こそマルクス主義理論は常識化され日常化され、その意味に於て道徳化され気質化される時であり、又現にそうなりつつある時期なのである。その意味に於て初めて、夫が思想化しつつある時代だとさえ云ってもいいのである。
今やこの機会を利用してマルクス主義は、又唯物論は、大衆のモラルとなり大衆の気分となり、やがては大衆の風俗とさえなるように、地道に大衆の身辺に浸潤する時期なのである。
『進歩』が生きた思想にまで化すためには、現下の事情は却って欠くべからざる条件なのだ。之は将来のための見えない力となるものだ。と共に、今日こそマルクス主義理論が、理論として可能な限りに於て、専心に研鑽され整備されるべき時期なのである。
又事実そうした理論上の問題やトラブルを、丁度1905年以降のロシアの反動期がそうだったように、現在の日本は吾々に沢山なげかけているのを読者は知っているだろう。
云わば、現在はマルクス主義の文学と哲学の時代だ。無論之は決してただの反動期やただのマイナスではない。歴史の進歩はころんでもただは起きない。」
そしてその後ろに、以前も紹介しましたが、インテリについて次のように述べてあります。
「徒(いたずら)に反動期や退潮期を論じるべきではない。
又徒にインテリの動揺や困惑や絶望やを説きたることは無意味であるばかりでなく誤謬だ。
この時期故に不安になったり動揺したりするインテリは、抑々(そもそも)自分のインテリジェンス・このインテリの特有機能・につて何等の社会的自覚を持たない者で、つまり彼等はサラリーマンか学生や何かにはぞくしても、範疇としてのインテリゲンチャにぞくするものではない。
そういう『インテリ』にかかわり合っている限り、『進歩的インテリゲンチャ』という観念は遂に成立しないだろうと私は思う。反動期こそ、幸か不幸か、インテリの特有な進歩性が動員されねばならず又動員され得る処の一つの時期だ。」
少々長くなりましたが、戸坂潤はすでに戦後までも見越した極めてすぐれた哲学者であったことがわかります。
「歴史の進歩はころんでもただは起きない。」
いい言葉です。
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都教委包囲首都圏ネットワークでは、今年も2月に卒・入学式に向けて『総決起集会』を開きます。
安保法制化での卒・入学式、「教え子を再び戦場に送るな」のスローガンが掛け値なしに問われてきています。
ともに、安保法制下の「日の丸・君が代」強制と闘いましょう!
<集会名>『「日の丸・君が代」強制反対!10・23通達撤廃!
2・13総決起集会』
<日 時>2016年2月13日(土)18時開場、18時30分開会
<場 所>セシオン杉並 3階会議室
(地下鉄丸の内線 東高円寺下車8分)
<内 容>
講 演:大内裕和氏(中京大学教授) ”安保法制と教育”
現場報告:・「君が代」被処分者、・高校の現場
・義務制の現場 ・「君が代」裁判の現状
・共謀罪の闘い ・立川テント村 他
集会決議
行動提起
<主 催> 都教委包囲首都圏ネットワーク
<資料代> 500円
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「都教委包囲首都圏ネットワーク」のブログのアドレス
http://houinet.blogspot.jp/
「千葉高教組『日の丸・君が代』対策委員会」のホームページ
http://homepage3.nifty.com/hinokimi/
「ひのきみ全国ネット」のウェブサイト
http://hinokimi.web.fc2.com/
【僕、国歌歌わないもん】(石原慎太郎)
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東京五輪に 【国旗も国歌も必要ない】(ビートたけし)
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対米従属で「世界征服」を夢想するデマゴギー政治家安倍首相を倒そう!
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最近、評論家の佐高信さんが、▲ 民主党は「立憲民主党」と改めてはどうかと提案しているようです。
私は一概に「立憲主義」を否定するものではありません。
また大衆的な運動を発展させる上で現在一つのスローガンのようになっていることも否定するものではありません。
しかし、やはり警戒もしなければならないと思っています。
最近流行っている(?)この「立憲主義」については、私は、昨年11月30日のメール(アベを倒そう!(38))で、戸坂潤の「自由主義・ファシズム・社会主義」(『日本イデオロギー論』1936、岩波文庫、408~422ページ)という論文から、「立憲主義」に関わる部分を紹介しました。
そこでは、次のように述べられていました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー戸坂は論文「自由主義・ファシズム・社会主義」の冒頭には、次のように書いています。
政府や官僚や軍閥が議会やブルジョア政党の自由主義を抑制しているばかりではなく、大事なことには、議会やブルジョア政党そのものが、議会制度の名目と、又実際には或る程度までの実質とにも拘らず、そういう政治形式とは独立に、自由主義ではなくて他のものになっている。
之は云わば議会制度を採用した処の一種のファシズムなのである。
ファシズムを独裁制という政治形式だけから考えることは許されないので、政治形式としての独裁制を取らない処のファシズムは、イギリスにもアメリカにもフランスにもあるのだ。
にも拘らず現下の日本では、この立憲的ファシズム全般をなお「自由主義」のものだと考えている。そこに大きな錯誤があるのだ。
自由主義の本質の認識を迷わせる通俗的な原因の大きな一つは之だ。
のみならず、この立憲的ファシズムが部分的に現わす自由主義的な擬態も亦(また)、人を迷わせるものだ。・・・・
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「今日の日本の社会思想と云えば、自由主義とファシズムと社会主義との三つである。之を単なる思想としてみれば、自由主義・日本主義・唯物論の三つだと云ってもいい。」
そして、①<自由主義>、②<ファシズム>を検討し、(③<社会主義>については後で述べます)
①では、「経済的自由主義」、「政治的自由主義」、「文化的自由主義」を検討し、「立憲主義」は「政治的自由主義」のところで述べられていたものです。
つまり、戸坂は当時の「自由主義」を、「自由主義ではなくて他のものになっている」として批判しているのです。
②については、次のようなことが述べられています。
「日本的ファシズムのイデオロギーを一時一等華(はなや)か(?)に展開したのは、右翼国粋反動的ファシズムであった。
それにも拘らず、初めこのイデオロギーは、その一つ一つを取って見ても理論的に一向体系的真実を持ったものでもなく、まして全体を統一した世界観の構造などは持っていなかった。
・・・・処がこの勢力が外見上多少下火になると共に、各種ファッショ団体の整理統一と併行して、やがてそのイデオロギー自身の統一化が齎(もたら)された。夫(それ)は皇道主義を経て遂に国体明徴主義にまで帰着したのである。」
「一体ファシズムは現実的地盤と観念的地盤とが喰違っていて、従ってそのイデオロギーは特別に観念的であり即ち又特にイデオロギッシュなのだが(もっと正当にはデマゴギッシュと云った方がいいかも知れない)、処がそのイデオロギー自身が他の意味で平凡(およ)そイデオロギーの資格を欠いている。思想として現に何等の筋の通ったシステムを持てないのである。」
そうして、結論として次のように述べています。
「今日は反動期だと云う。マルクス主義も自由主義さえも退潮した、日本はファシズムの世の中であり、又ファシズムへの道が唯一の残された方向だ、などとも云われる。だが夫(それ)は全く皮相で卑俗な通念だ。社会主義はこういう機会を利用してこそ、思想運動としての深度・身近さ・大衆化の素地を養うのだ。この素地を俟(ま)って、社会主義の政治的出発はいくど新たにされてもいいのである。」
ちなみに、③<社会主義>に関することについては、この本の375~395頁にある論文「一 現下に於ける進歩と反動との意義」に次のように述べられているところがあります。
「だがマルクス主義が退潮したということは本当は何を意味しているのか。
それはマルクス主義的政党及び組合の破壊と、それを囲む文化的政治的活動組織の破壊とを本来意味する筈なのだが、併し世間の実際の気持ちから云えば、之に加えて、或いは寧ろ之よりも手近に、一般にマルクス主義的風潮の流行が衰えたということなのである。
左翼思想犯人はブルジョア新聞紙上ではもはや何等の英雄でもなくなって、泥棒やギャングの類として待遇され始める(今日の英雄は右翼団体乃至(ないし)日本主義的〔連中〕だ)。これは新聞が世間のその日その日の常識を反映したものであると共に、新聞が世間をそういう風に教育しているということでもあるが、おかげでシンパも減ったろうが、マルクス主義の野次馬も減ったのである。マルクス主義が反省の時期に這入ってことが、所謂(いわゆる)反動期の意味である。」
「今日こそマルクス主義理論は常識化され日常化され、その意味に於て道徳化され気質化される時であり、又現にそうなりつつある時期なのである。その意味に於て初めて、夫が思想化しつつある時代だとさえ云ってもいいのである。
今やこの機会を利用してマルクス主義は、又唯物論は、大衆のモラルとなり大衆の気分となり、やがては大衆の風俗とさえなるように、地道に大衆の身辺に浸潤する時期なのである。
『進歩』が生きた思想にまで化すためには、現下の事情は却って欠くべからざる条件なのだ。之は将来のための見えない力となるものだ。と共に、今日こそマルクス主義理論が、理論として可能な限りに於て、専心に研鑽され整備されるべき時期なのである。
又事実そうした理論上の問題やトラブルを、丁度1905年以降のロシアの反動期がそうだったように、現在の日本は吾々に沢山なげかけているのを読者は知っているだろう。
云わば、現在はマルクス主義の文学と哲学の時代だ。無論之は決してただの反動期やただのマイナスではない。歴史の進歩はころんでもただは起きない。」
そしてその後ろに、以前も紹介しましたが、インテリについて次のように述べてあります。
「徒(いたずら)に反動期や退潮期を論じるべきではない。
又徒にインテリの動揺や困惑や絶望やを説きたることは無意味であるばかりでなく誤謬だ。
この時期故に不安になったり動揺したりするインテリは、抑々(そもそも)自分のインテリジェンス・このインテリの特有機能・につて何等の社会的自覚を持たない者で、つまり彼等はサラリーマンか学生や何かにはぞくしても、範疇としてのインテリゲンチャにぞくするものではない。
そういう『インテリ』にかかわり合っている限り、『進歩的インテリゲンチャ』という観念は遂に成立しないだろうと私は思う。反動期こそ、幸か不幸か、インテリの特有な進歩性が動員されねばならず又動員され得る処の一つの時期だ。」
少々長くなりましたが、戸坂潤はすでに戦後までも見越した極めてすぐれた哲学者であったことがわかります。
「歴史の進歩はころんでもただは起きない。」
いい言葉です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
都教委包囲首都圏ネットワークでは、今年も2月に卒・入学式に向けて『総決起集会』を開きます。
安保法制化での卒・入学式、「教え子を再び戦場に送るな」のスローガンが掛け値なしに問われてきています。
ともに、安保法制下の「日の丸・君が代」強制と闘いましょう!
<集会名>『「日の丸・君が代」強制反対!10・23通達撤廃!
2・13総決起集会』
<日 時>2016年2月13日(土)18時開場、18時30分開会
<場 所>セシオン杉並 3階会議室
(地下鉄丸の内線 東高円寺下車8分)
<内 容>
講 演:大内裕和氏(中京大学教授) ”安保法制と教育”
現場報告:・「君が代」被処分者、・高校の現場
・義務制の現場 ・「君が代」裁判の現状
・共謀罪の闘い ・立川テント村 他
集会決議
行動提起
<主 催> 都教委包囲首都圏ネットワーク
<資料代> 500円
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「都教委包囲首都圏ネットワーク」のブログのアドレス
http://houinet.blogspot.jp/
「千葉高教組『日の丸・君が代』対策委員会」のホームページ
http://homepage3.nifty.com/hinokimi/
「ひのきみ全国ネット」のウェブサイト
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