前二回の絵画と同じサイトから採ったと思っていたがどうも違う作者のようで、前の比較的若い美少女タイプの絵とは違ってもっと年配の婦人たちで、私なんかの頭にあるステレオタイプのヴィクトリアンレディという感じがしないのですが、如何なもんでしょうか。
前二回の絵画と同じサイトから採ったと思っていたがどうも違う作者のようで、前の比較的若い美少女タイプの絵とは違ってもっと年配の婦人たちで、私なんかの頭にあるステレオタイプのヴィクトリアンレディという感じがしないのですが、如何なもんでしょうか。
暑さ寒さも彼岸までというわけか、酷暑も一段落したようなので、本日は「顔無し美人」とワインと参りましょう。
◎ 木曾街道六十九次
52 加納 広重
53 河渡 長良川鵜飼船 英泉
54 美江寺 広重
見立ては本歌取りとか替え唄のように、元の作品内容を知らなければ、面白さは判らないのだが、この作品は元の話を知ってもなぜ元の話と繋がるのか、理解に苦しむ物が多い。
例えば本日の最後の作品は、貧乏で母親に十分な食を与えられない夫婦に子供が生まれた。祖母が自分の乏しい食を孫に分け食べさせていることを辛く思った夫婦は、子供さえいなければ、と幼子を生き埋めにしようと穴を掘ると、天の授けた金の釜が出てきたという話である。それがどうして母親が子どもに甘酒を飲ませているのを犬が欲しそうに見ている絵となるのか、理解できない。第一、元の話からして不自然な話で、可愛がっている孫を殺されたら、祖母にとんでもない歎きを与える親不孝の最たる事が天の感ずるところなどとは矛盾も甚だしい。福沢諭吉もこの書について厳しく批判している。
ただ考えようによっては、江戸時代ならともかく、明治期にはこの書に説く荒唐無稽な親孝行には福沢ならずとも疑問を感じて、周延も敢えて繋がりの見えない作品にしたのではないか、とは言えないだろうか。
二十四孝は中国の親孝行の話を集めたものながら、かつては広く知られたものだろうが、非現実的な話も多く、現代では通用しない。
それらの話を日本女性の姿に見立てた作品だが、必ずしも話に沿って主人公を女性にしている訳ではない。例えば三段目中央の王祥は真冬に鯉が食べたいと言う母のため氷の張りつめた川の上に横たわって氷を溶かすと鯉がとび跳ねて捕まえたという話だが、それを鯉を採る漁夫を眺めている女性としていて原話とは直接の関係は無い。ただ上部に元の話の絵が描かれていて王祥の話と関連づけられているだけである。
タイトル文字は、初期の頃は McCALL'S MAGAZINE と同大同列の大文字であった。その後 MAGAZINE が 小さな文字になって McCALL'S の下になり、更に微細な文字に変り、更に MAGAZINE は無くなってしまう。
絵は成人女性とは限らない。