「対自然的」と「即自然的」という二つの生き方のいずれを選ぶか。
東日本大震災、かかる災害に対して「想定外」とぬけぬけと口にする連中には、自然の力を舐めきった人間の傲りの姿が明らかである。そもそも外国ですでにもっと激しい地震が起きていたのだから「想定の内」でなければならなかったはずなのだ。しかも「自然」は本当にすべて理解されているわけではない。その想定外の力を秘める自然を向こうに回わすのではなく、自然に即した生き方をしていたなら、自然の力にしてもっと謙虚な姿勢さえあったら、いかなる事態も起こりうるという自然に対する畏れさえあったら、地震・津波そのものは防ぐことはできなくても少なくとも原発災害はなかったはずであろう。使用済み燃料の後始末さえ出来ないのに原子力に頼るのは、ちゃんとした止める方法も知らない仮免許すら持たないドライバーが、街中を高速で乗りまわしているようなものではないか、いや被害はその程度で済まなかった惨劇が今回だったのだ。
ともあれ宗教色は抜きにして、もっと素朴な形で「自然」の前に膝まづく祈りの姿があってしかるべきかと思う。
Calro Dolci 「悲しみの聖母」 W. A. Bouguereau 「少女」
S. L. Fildes S. Reynolds H. Memling
東日本大震災、かかる災害に対して「想定外」とぬけぬけと口にする連中には、自然の力を舐めきった人間の傲りの姿が明らかである。そもそも外国ですでにもっと激しい地震が起きていたのだから「想定の内」でなければならなかったはずなのだ。しかも「自然」は本当にすべて理解されているわけではない。その想定外の力を秘める自然を向こうに回わすのではなく、自然に即した生き方をしていたなら、自然の力にしてもっと謙虚な姿勢さえあったら、いかなる事態も起こりうるという自然に対する畏れさえあったら、地震・津波そのものは防ぐことはできなくても少なくとも原発災害はなかったはずであろう。使用済み燃料の後始末さえ出来ないのに原子力に頼るのは、ちゃんとした止める方法も知らない仮免許すら持たないドライバーが、街中を高速で乗りまわしているようなものではないか、いや被害はその程度で済まなかった惨劇が今回だったのだ。
ともあれ宗教色は抜きにして、もっと素朴な形で「自然」の前に膝まづく祈りの姿があってしかるべきかと思う。
Calro Dolci 「悲しみの聖母」 W. A. Bouguereau 「少女」
S. L. Fildes S. Reynolds H. Memling