日本語の「は」と「が」について。

象は鼻が長い=∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
とりあえず「三上文法」を「批判」します。

(36)三上先生に、改めて、指摘したいこと。

2018-06-16 10:36:37 | 「は」と「が」
(01)
① A is B.
に於いて、
① A
を、「強調(強く発音)」する場合は、
④ A以外はBでない
④ ∀x(~Ax→~Bx)
④ Aを除くいかなるものもBではない(Nothing except A is B)。
といふ、「意味」になる。
従って、
(02)
① A_Bである。
に於いて、
① A
を、「強調(強く発音)」する場合は、
④ A以外はBでない
といふ、「意味」になる。
然るに、
(03)
(04)(05)(06)に「引用」する通り、
① Aは(清音)
② A音)
に於いて、
① の「心理的な音量」よりも、
② の「心理的な音量」の方が、「大きい」。
(04)
清音の方は、小さくきれいで速い感じで、コロコロと言うと、ハスの上を水玉がころがるような時の形容である。ロと言うと、大きく荒い感じで、力士が土俵でころがる感じである(金田一春彦、日本語(上)、1988年、131頁)。
(05)
もし濁音を発音するときの物理的・身体的な口腔の膨張によって「音=大きい」とイメージがつくられているのだとしたら、面白いですね。この仮説が正しいとすると、なぜ英語話者や中国語話者も濁音に対して「大きい」というイメージを持っているか説明がつきます(川原繁人、音とことばの不思議な世界、2115年、13頁)。
(06)
 私理事長です(理事長は私です)
のように、ガの文がいわばハを内蔵しているから、その説明が必要である。このような「私」を強声的になっていると言うことにする。そこに発音上のストレスを与えたのと似た効果をもっているからである。
従って、
(03)~(06)により、
(07)
① 私は(清音)
② 私音)
に於いて、
① の「心理的な音量」よりも、
② の「心理的な音量」の方が、「大きい」。
従って、
(02)(07)により、
(08)
① A_Bである。
に於いて、
① A
を、「強調(強く発音)」する場合は、
② A以外はBでない
といふ、「意味」になり、尚且つ、
① 私は(清音)
② 私音)
に於いて、
① の「心理的な音量」よりも、
② の「心理的な音量」の方が、「大きい」。
従って、
(08)により、
(09)
① 私は理事長です。
といふ「日本語」に対する、
② 私理事長です。
といふ「日本語」は、
④ 私以外は理事長ではない
といふ「意味」になる。
然るに、
(10)
(11)~(14)で「証明」する通り、
③ 理事長は私です。
といふ「日本語」は、
④ 私以外は理事長ではない
といふ「日本語」に「等しい」。
(11)
(a)
1  (1) ∀x(Bx→ Ax) 仮定
1  (2)    Bc→ Ac  1普遍除去
 3 (3)       ~Ac  仮定
  4(4)    Bc      仮定
1 4(5)        Ac  24前件肯定
134(6)   ~Ac& Ac  35&導入
13 (7)   ~Bc      46背理法
1  (8)   ~Ac→~Bc  37条件法
1  (9)∀x(~Ax→~Bx) 8普遍導入
1  (9)すべてのxについて、xがAでないならば、xはBでない。
(b)
1  (1)∀x(~Ax→~Bx) 仮定
1  (2)   ~Ac→~Bc  1普遍除去
 3 (3)        Bc  仮定
  4(4)   ~Ac      仮定
1 4(5)       ~Bc  24前件肯定
134(6)   ~Bc& Bc  35&導入
13 (7)  ~~Ac      46背理法
13 (8)    Ac      7二重否定
1  (9)    Bc→ Ac  38条件法
1  (ア) ∀x(Bx→ Ax) 9普遍導入
1  (ア)すべてのxについて、xがBであるならば、xはAである。
といふ「計算」は、「正しい」。
従って、
(12)
(a)
1  (1)理事長ならば私である。    仮定
 2 (2)      私でない。    仮定
  3(3)理事長である。        仮定
1 3(4)      私である。    13前件肯定
123(5)私であり私でない。      42&導入
12 (6)理事長でない。        35背理法
1  (7)私でないならば理事長でない。 26条件法
(b)
1  (1)私でないならば理事長でない。 仮定
 2 (2)       理事長である。 仮定
  3(3)私でない。          仮定
1 3(4)       理事長でない。 13前件肯定
123(5)理事長であり理事長でない。  24&導入
12 (6)私でない。でない。      35背理法
12 (7)私である。          6二重否定
1  (8)理事長ならば私である。    27条件法
といふ「計算」も、「正しい」。
従って、
(12)により、
(13)
③ 理事長ならば私である。
④ 私でないならば理事長でない
といふ「対偶(contrapositon)」に於いて、
③=④ である。
従って、
(13)により、
(14)
③ 理事長は私です。
④ 私以外は理事長でない
といふ「対偶(contrapositon)」に於いて、
③=④ である。
cf.
③ ∀x( 理事長x→ 私x)。
④ ∀x(~私x→~理事長x)。
従って、
(09)(13)により、
(15)
① 私は理事長です。
といふ「日本語」に対する、
② 私理事長です。
といふ「日本語」は、
④ 私以外は理事長ではない
といふ「意味」になり、尚且つ、
③ 理事長は私です。
④ 私以外は理事長でない
といふ「対偶(contrapositon)」に於いて、
③=④ である。
従って、
(15)により、
(16)
① 私は理事長です。
② 私理事長です。
③ 理事長は私です。
④ 私以外は理事長でない。
に於いて、
②=③=④ である。
然るに、
(17)
「逆」には、
(1)真でないときと、
(2)真であるときがあります。
そこで(1)と(2)をひっくるめて、「逆は必ずしも真ならず」といいます(山下正男、論理的に考えること、1985年、13・14頁)。
従って、
(18)
① AはBである。
③ BはAである。
に於いて、
①=③ である。
とは、限らない。
従って、
(16)(18)により、
(19)
「結論」として、
① AはBである。
② ABである。
③ BはAである。
④ A以外はBでない。
に於いて、必ず、
  ②=③=④
であるが、必ずしも、
①=②=③=④
であるとは、限らない。
従って、
(16)(19)により、
(20)
いづれにせよ、
② 私理事長です。
③ 理事長は私です。
④ 私以外は理事長でない。
に於いて、
②=③=④ である。
従って、
(20)により、
(21)
② 私理事長です。
③ 理事長は私です。
に於いて、
②=③ である。
といふことを、論じる一方で、
② 私理事長です
④ 私以外は理事長でない。
に於いて、
②=④ である。
といふことを、論じないのであれば、「十分な説明」であるとは、言へない。
然るに、
(22)
(23)(24)に「引用」する通り、
三上章先生は、
② 私理事長です。
③ 理事長は私です。
④ 私以外は理事長でない。
に於いて、
②=④ である。
といふことを、論じようとは、しない。
(23)
Xハ(Xガを兼務の場合)は題目である主格、Xが題目でないただの主格、と言えばハとガの大切な区別はいちおうついたことになるが、なお一つ、どうしてもつけ加えなければならないことがある。それは、
 私が理事長です(理事長は私です)
のように、ガの文がいわばハを内蔵しているから、その説明が必要である。このような「私」を強声的になっていると言うことにする。そこに発音上のストレスを与えたのと似た効果をもっているからである。
 Xニツイテ言エバXは、何を指しているか明らかなもの、すなはち相手とって既知のものでなければならない。疑問詞は全然いけないことは明らかだろう。「これは何だ?」は普通であるが、「何はあるか?」は無意味である。次に不特定なものも不適当である。「花は」と言ったら、場面や文脈で特定の花を指していることがわかっている場合か、または花の一般論を始める場合かである(三上章、日本語の論理、1963年、105・6頁)。
(24)
題目は既知であるから情報的でなく、弱声的である。相手に情報を与えるのは、題目以外の部分である。既知と未知の組み合わせは、二々が四通りあるはずであるが、既知+既知は、相手に何の情報も与えないむだ口になるから、それを除いて、有効な組み合わせは次の三通りである。既知を「太字」、未知を「細字」で示す。
(a)私は 理事長です。 既知+未知
(b)私が 理事長です。 未知+既知
(a)花は 散りました。 既知+未知
(c)花が 散りました。 未知+未知
未知+既知は順序としては逆であるから、(b)はひっくり返して(d)に変えることができる。
(d)理事長は 私です。 既知+未知
こうして内臓のハが文面に出てくる。この文は(b)と同値である(三上章、日本語の論理、1963年、107頁改)。
従って、
(25)
三上章先生は、
② 私理事長です。
③ 理事長は私です。
④ 私以外は理事長でない
に於いて、
②=③ であるとするものの、何故、
②=③ であるのかを、「説明」はせず、
②=④ であることについては、「一言」も、述べてはゐない。
然るに、
(06)(25)により、
(26)
三上章先生は、
(a)私は(清音)
(b)私(濁音)
に於いて、
(a)を、「弱声的」と、表現し、
(b)を、「強声的」と、表現してゐる。
従って、
(04)~(07)(26)により、
(27)
三上章先生もまた、
① 私は(清音)
② 私音)
に於いて、
① の「心理的な音量」よりも、
② の「心理的な音量」の方が、「大きい」。
といふことに、気付いてゐた。
といふ、ことなる。

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