日本語の「は」と「が」について。

象は鼻が長い=∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
とりあえず「三上文法」を「批判」します。

(560)「括弧」と「返り点」(16)―「括弧」は有ります!―。

2020-03-18 16:07:34 | 「漢文訓読」と「括弧」。

―「話の流れ」を作るために、 先程(02年03月18日)の記事の「(01)~(09)」を繰り返します。―
(01)
①( )
②〔 〕
③[ ]
④{ }
に於いて、
④ の中には、1組以上の③が有り、
③ の中には、1組以上の②が有り、
② の中には、1組以上の①が有るならば、そのときに限って、「括弧」である。
従って、
(01)により、
(02)
①( )
②〔 〕
③[ ]
④{ }
に於いて、
① が無ければ、② は無く、
② が無ければ、③ は無く、
③ が無ければ、④ は無い。
従って、
(01)(02)により、
(03)
例へば、
①( )
②〔 ( )( ) 〕
③[ 〔 ( ) 〕 ]
④{ [ 〔 ( ) 〕( )] }
は、「括弧」である。
従って、
(03)により、
(04)
例へば、
① 我読(漢文)。
② 有〔揮(快刀)断(乱麻)者〕。
③ 耕者不[可〔以不(益急)〕]。
④ 我非{必求[以〔解(中文)法〕解(漢文)事]者}也。
に於いて、これらは、「漢文と括弧」である
(05)
④ 我非{必求[以〔解(中文)法〕解(漢文)事]者}也。
に於いて、
非{ }
求[ ]
以〔 〕
解( )
解( )
の「5つの漢字」は、『括弧の直前の漢字』である。
然るに、
(06)
(ⅰ)「原則」として「からへ」読む。ただし、
(ⅱ)『括弧の直前の漢字』に関しては、各々の、「直後の括弧の中の全ての漢字」を、「読み終へた直後」に読む。
といふ「ルール」を、定めることにする。
従って、
(05)(06)により、
(07)
④ 我非{必求[以〔解(中文)法〕解(漢文)事]者}也。
であれば、
④ 我  必      中文 法   漢文 事 者 也
に関しては、「そのまま、左から右に読み」、
④ 非 は、{ }の中に有る{必求以解中文法解漢文者}を読み終へた「直後」に読む。
④ 求 は、[ ]の中に有る  [以解中文法解漢文] を読み終へた「直後」に読む。
④ 以 は、〔 〕の中に有る   〔解中文法〕    を読み終へた「直後」に読む。
④ 解 は、( )の中にある    (中文)     を読み終へた「直後」に読む。
④ 解 は、( )の中にある        (漢文) を読み終へた「直後」に読む。
然るに、
(08)
④ 我非{必求[以〔解(中文)法〕解(漢文)事]者}也。
に於いて、
非{ }⇒{ }非
求[ ]⇒[ ]求
以〔 〕⇒〔 〕以
解( )⇒( )解
解( )⇒( )解
といふ「移動」を行ふと、
④ 我非{必求[以〔解(中文)法〕解(漢文)事]者}也⇒
④ 我{必[〔(中文)解法〕以(漢文)解]事者}求非也。
といふ「語順」になる。
従って、
(07)(08)により、
(09)
④ 我非{必求[以〔解(中文)法〕解(漢文)事]者}也。
に於いて、
④ 我  必      中文 法   漢文 事 者 也
に関しては、「そのまま、左から右に読み」、
④ 非 は、{ }の中に有る{必求以解中文法解漢文者}を読み終へた「直後」に読む。
④ 求 は、[ ]の中に有る  [以解中文法解漢文] を読み終へた「直後」に読む。
④ 以 は、〔 〕の中に有る   〔解中文法〕    を読み終へた「直後」に読む。
④ 解 は、( )の中にある    (中文)     を読み終へた「直後」に読む。
④ 解 は、( )の中にある        (漢文) を読み終へた「直後」に読む。
といふことは、
④ 我非{必求[以〔解(中文)法〕解(漢文)事]者}也。
といふ「括弧」が付いた「漢文」を、
④ 我{必[〔(中文)解法〕以(漢文)解事]求者}非也。
といふ「語順」で読む。
といふことに、他ならない。
従って、
(09)により、
(10)
④ 我非必求以解中文法解漢文事者也=
④ 我非{必求[以〔解(中文)法〕解(漢文)事]者}也⇒
④ 我{必[〔(中文)解法〕以(漢文)解事]求者}非也=
④ 我は{必ずしも[〔(中文を)解する法を〕以て(漢文を)解する事を]求むる者に}非ざるなり。
といふ「漢文訓読」が、成立する。
然るに、
(11)
④ 我非必求以解中文法解漢文事者也=
④ 我非必求中文漢文也⇒
④ 我必中文漢文也=
④ 我は必ずしも中文を解する法を以て漢文を解する事を求むる者に非ざる也。
従って、
(10)(11)により、
(12)
④ 我 非 必 求 以 解 中 文 法 解 漢 文 事 者 也。
といふ「漢文」に付く「返り点」は、
④  地  乙 下 二  一 上 二  一 甲 天
である。
従って、
(01)(09)(12)により、
(13)
① 二 一
② 下 上
③ 乙 甲
④ 地 天
に於いて、
④ の中には、1組以上の③が有り、
③ の中には、1組以上の②が有り、
② の中には、1組以上の①が有るならば、そのときに限って、「返り点」である。
とするならば、
④ 我非必求以解中文法解漢文事者也。
といふ「漢文」に付く、
④ { [ 〔 ( ) 〕 ( ) ] }
といふ「括弧」は、
④ 地 乙 下 二 一 上 二 一 甲 天
といふ「返り点」に、「等しい」。
然るに、
(14)
「(レ点を含まない)返り点」が「漢字」に付いてゐる。といふことと、
漢字」が「(レ点を含まない)返り点」に付いてゐる。といふことは、「同じ」である。
従って、
(15)
④  地  乙 下 二  一 上 二  一 甲 天
といふ「それ」が、「括弧」ではなく、「返り点」であるならば、
④ 我 非 必 求 以 解 中 文 法 解 漢 文 事 者 也。
といふ「漢文」から、
④                  法     事 者
といふ「3つの漢字」  を「削除」した場合は、それと「同時」に、   
④                        上     甲 天
といふ「3つの返り点」も「削除」される。
然るに、
(16)
⑤ 我不必求以解中文解漢文也=
⑤ 我不{必求[以〔解(中文)〕解(漢文)]}也=
⑤ 我{必[〔(中文)解〕以(漢文)解]求}不也⇒
⑤ 我は{必ずしも[〔(中文を)解するを〕以て(漢文を)解するを]求め}ず。
然るに、
(17)
⑤ 我不必求以解中文解漢文也=
⑤ 我不必求中文漢文也⇒
⑤ 我は必ずしも中文を解するを以て漢文を解するを求めず。
従って、
(14)~(17)により、
(18)
④  地  乙 下 二  一 上 二  一 甲 天
といふ「それ」が、「括弧」ではなく、「返り点」であるならば、
④ 我 非 必 求 以 解 中 文 法 解 漢 文 事 者 也。
といふ「漢文」から、
④                  法     事 者
といふ「3つの漢字」  を「削除」した場合は、それと「同時」に、   
④                         上     甲 天
といふ「3つの返り点」も「削除」され、その「結果」として、「返り点」は、
④ 「地  乙 下 二  一  二  一」ではなく、
④  「丁  丙 レ 二  一 乙  甲」でなければ、ならない。
従って、
(13)(15)(18)により、
(19)
「逆」に言へば、
⑤ 我不{必求[以〔解(中文)〕解(漢文)]}也。
であっても、
④ 我非{必求[以〔解(中文)法〕解(漢文)事]者}也。
と「同じく」、
⑤ 我不{必求[以〔解(中文)#〕解(漢文)#]#}也。
であるものの、
⑤                           #      # #
に関しては、「3つ」とも、「音」であって、尚且つ、「書かない」とするならば、
⑤ 我非必求中文漢文也。
といふ「返り点」も、「可」である。
然るに、
(20)
繰り返し、書いて来た通り、
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。しかし、訓読は、国語の語順に置きかえて読むことが、その大きな原則となっている。それでその補足構造によっている文も、返り点によって、国語としての語順が示されている(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、296頁)。
従って、
(08)(10)(19)(20)により、
(21)
④ 我非必求以解中文法解漢文事者也=
④ 我非必求中文漢文也=
④ 我非{必求[以〔解(中文)法〕解(漢文)事]者}也。
に於いて、
非{ }⇒{ }非
求[ ]⇒[ ]求
以〔 〕⇒〔 〕以
解( )⇒( )解
解( )⇒( )解
といふ「移動」を行ふと、
④ 我非必求以解中文法解漢文事者也=
④ 我非{必求[以〔解(中文)法〕解(漢文)事]者}也⇒
④ 我{必[〔(中文)解法〕以(漢文)解事]求者}非也=
④ 我は{必ずしも[〔(中文を)解する法を〕以て(漢文を)解する事を]求むる者に}非ざるなり。
といふ「漢文訓読」が、成立する。
といふ「漢文訓読」が、成立する。
といふことは、
④ 我非必求以解中文法解漢文事者也。
④ 我は必ずしも中文を解する法を以て漢文を解する事を求むる者に非ざるなり。
といふ「漢文」と「日本語」の、両方に、
④{ [ 〔 (  ) 〕 (  ) ] }
④{ [ 〔 (  ) 〕 (  ) ] }
といふ「括弧」で「表現可能」な、「補足構造」が有る。
といふことを、「意味」してゐる。
従って、
(21)により、
(22)
④ 我非必求以解中文法解漢文事者也。
といふ「漢文」に、
④ 我非{必求[以〔解(中文)法〕解(漢文)事]者}也。
といふ「補足構造」が、無い
といふのであれば、
④ 我非必求以解中文法解漢文事者也。
といふ「漢文」には、固より、「補足構造」が無い
然るに、
(23)
④ 我非必求以解中文法解漢文事者也。
といふ「漢文」には、「補足構造」が有る
従って、
(01)(22)(23)により、
(24)
例へば、
① 我読漢文。
② 有揮快刀断乱麻者。
③ 耕者不可以不益急。
④ 我非必求以解中文法解漢文事者也。
といふ「漢文」には
① 我読(漢文)。
② 有〔揮(快刀)断(乱麻)者〕。
③ 耕者不[可〔以不(益急)〕]。
④ 我非{必求[以〔解(中文)法〕解(漢文)事]者}也。
といふ「括弧補足構造)」が、無ければ、ならない(従って、「括弧」は有ります!)。
従って、
(21)(24)により、
(25)
④ 我非必求以解中文法解漢文事者也。
といふ「漢文」を、
④ 我は必ずしも中文を解する法を以て漢文を解する事を求むる者に非ざるなり。
といふ「語順」で「訓読」したとしても、「漢文をむりやり並び替えて、日本語のように読んでいる(みかちー)。」
といふことには、ならない。
然るに、
(26)
そして重野の講演を後れること七年、文化大学の講師を務めていたイギリス人チャンバレン氏も一八八六年『東洋学芸雑誌』第六一号に「支那語読法ノ改良ヲ望ム」を発表し、「疑ハシキハ日本人ノ此支那語ヲ通読スル伝法ナリ、前ヲ後ニ変へ、下ヲ上ニ遡ラシ、本文ニ見へザル語尾ヲ附シ虚辞ヲ黙シ、若クハ再用スル等ハ、漢文ヲ通読スルコトニアランヤ。寧ロ漢文ヲ破砕シテ、其ノ片塊ヲ以テ随意ニ別類ノ一科奇物ヲ増加セリト云フヲ免カレンヤ。」「畢竟日本語ハ日本ノ言序アリ、英語ハ英ノ語次存スルコトは皆々承知セリ、唯支那語ニノミ治外法権ヲ許ルサズシ権内ニ置クハ何ソヤ」(「訓読」論 東アジア漢文世界と日本語、中村春作・市來津由彦・田尻祐一郎・前田勉 共編、2008年、50頁)。
従って、
(21)(24)(26)により、
(27)
④ 我非必求以解中文法解漢文事者也。
といふ「漢文」を、
④ 我は必ずしも中文を解する法を以て漢文を解する事を求むる者に非ざるなり。
といふ「語順」で「訓読」したとしても、「漢文ヲ破砕シテ、其ノ片塊ヲ以テ随意ニ別類ノ一科奇物ヲ増加セリト云フヲ免カレン(イギリス人チャンバレン氏)。」
といふことには、ならない。
然るに、
(28)
「漢文訓読」であれば、
① 誰為夫子=
① 誰為(夫子)⇒
① 誰(夫子)為=
① 誰をか(夫子)と為す=
① 誰が(先生)であるか。
であって、
② 子為誰=
② 子為(誰)⇒
② 子(誰)為=
② 子は(誰と)為す=
② あなたは(誰)ですか。
である。
然るに、
(29)
「英文和訳」の場合は、
① Who is the teacher?=
① Who is(the teacher)?⇒
① Who (the teacher)is?=
① 誰が(先生)であるか。
であって、尚且つ、
② Who are you?=
② Who(areyou}?⇒
② ({ you)Who}are?=
② ({あなたは)誰}であるか。
である。
然るに、
(30)
① 誰為(夫子)。
② 子為(誰)。
① Who is(the teacher)?
といふ「括弧」に対して、
② Who(are you}?
といふ「それ」は、「括弧」ではない
従って、
(20)(21)(30)により、
(31)
② Who are(you)?
といふ「英語」に対して、
② Who(are{ you)}?
とふ「それ(括弧ではない)」を付けて、
② ({あなたは)誰}ですか。
といふ風に、「読む」のであれば、それこそ「英文をむりやり並び替えて、日本語のように読んでいる。」といふ、ことになる。
従って、
(25)(31)により、
(32)
④ 我非必求以解中文法解漢文事者也。
といふ「漢文」を、
④ 我は必ずしも中文を解する法を以て漢文を解する事を求むる者に非ざるなり。
といふ「語順」で「訓読」したとしても、「漢文をむりやり並び替えて、日本語のように読んでいる(みかちー)。」
といふことには、ならないものの、
② Who are you?
といふ「英文」を、
② あなたは誰ですか。
といふ「語順」で「訓読」するならば、「英文をむりやり並び替えて、日本語のように読んでいる。」といふ、ことになる。
従って、
(32)により、
(33)
「?文」を、「日本語の語順」で読んだとしても、それだけでは?文をむりやり並び替えて、日本語のように読んでいる(みかちー)。」
といふことには、ならない。
然るに、
(34)
大学(京都帝国大学)に入った二年め(昭和5年)の秋、倉石武四郎先生が中国の留学から帰られ、授業を開始されたことは、私だけではなく、当時の在学生に一大衝撃を与えた。先生は従来の漢文訓読を全くすてて、漢籍を読むのにまず中国語の現代の発音に従って音読し、それをただちに口語に訳することにすると宣言されたのである。この説はすぐさま教室で実行された。私どもは魯迅の小説集『吶喊』と江永の『音学弁徴』を教わった。これは破天荒のことであって、教室で中国の現代小説を読むことも、京都大学では最初であり、全国のほかの大学でもまだなかったろうと思われる(『心の履歴』、「小川環樹著作集 第五巻」、筑摩書房、176頁)。との、ことである。
然るに、
(35)
かつて、杉村勇造教授から次のような話を聞いた。銭稲孫氏(一八八七年浙江省生まれ。中国に日本文学を紹介する。北京大学教授)は父銭恂氏が来日していた関係から、当時東京高等師範学校に入学した。そして中学の漢文の教科書により、日本式の訓読で「学んで時に之を習う、亦説ばしからずや・・・・・・」と習い、「あ、これでわかった」と言ったという。銭氏は四、五歳のころから中国語によって『論語』などの素読を授けられたが、それは一種のお経読みのたぐいであるから、読むことは読んでも、さっぱり意味がわからなかったのである。それが、日本式の訓読に接して、初めて意味を理解することができたというのである(原田種成、私の漢文講義、1995年、24頁)。との、ことである。



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