日本語の「は」と「が」について。

象は鼻が長い=∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
とりあえず「三上文法」を「批判」します。

(689)「漢文」に於ける「補足構造」と「括弧」。

2020-08-19 17:04:05 | 「漢文訓読」と「括弧」。

(01)
① 我不〔有(兄弟)〕。
に於いて、
不〔 〕⇒〔 〕不
有( )⇒( )有
といふ「移動」を行ひ、「平仮名」を加へると、
① 我不〔有(兄弟)〕⇒
① 我〔(兄弟)有〕不=
① 我に〔(兄弟)有ら〕不=
① 私には、兄弟がゐない。
従って、
(01)により、
(02)
(ⅰ)
「左」から「右」へ読みつつ、
(ⅱ)
① 不 は、〔 〕の中を「読んだ直後に読む」。
① 有 は、( )の中を「読んだ直後に読む」。
ならば、
① 我に〔(兄弟)有ら〕ず。
といふ、「語順」になる。
然るに、
(03)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。しかし、訓読は、国語の語順に置きかえて読むことが、その大きな原則となっている。それでその補足構造によっている文も、返り点によって、国語としての語順が示されている(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、296頁)。
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
① 我不〔有(兄弟)〕。
① 我に〔(兄弟)有ら〕ず。
に於ける、
①〔 ( ) 〕
①〔 ( ) 〕
といふ「括弧」は、
①「漢文補足構造」と、同時に、
①「訓読補足構造」と、同時に、「訓読語順」を、表してゐる。
従って、
(04)により、
(05)
① 我不〔有(兄弟)〕⇒
① 我に〔(兄弟)有ら〕ず。
といふ「漢文・訓読」に於いて、「(漢文と訓読の)語順」こそ、「異なる」ものの、「(漢文と訓読の)補足構造自体は、「同じ」である。
然るに、
(06)
① 我 不  〔 有 (  兄弟  )〕。
① I don't〔have(brothers)〕.
のやうに、「語順」が「同じ」であるならば、「補足構造(シンタックス)」は「同じ」である。
然るに、
(07)
② I have(nobrothers).
に於いて、
have( )⇒( )have
 no〔 〕⇒〔 〕no
といふ「移動」を行ひ、「英単語」を、「翻訳」すると、
② I have(nobrothers)
② I (brothers)haveno=
② 私には(兄弟が)ゐない。
然るに、
(08)
① I don'thave(brothers).
② I have(nobrothers).
に於ける、
( )
②(  )
に於いて、
① は、「括弧」であるが、
② は、「括弧」ではない
加へて、
(09)
① I don'thavebrothers.
② I havenobrothers.
に於ける、
① 三 二 一
② 二  一
に於いて、
① は、「返り点」であるが、
② は、「返り点」ではない
(10)
「返り点」は、「縦書き」であれば、「下から上へ、返る点」であるため、
「横書き」であれば、「(二)から、(三)へ戻る点」は、「返り点」ではない
従って、
(03)~(10)により、
(11)
「番号」を付け直すと、
① 我 不 〔 有  ( 兄弟  )〕。
② I don't〔have(brothers)〕.
③ 我に〔(兄弟)有ら〕ず。
④ I have(no〔brothers)〕.
に於いて、「補足構造」に関しては、
( )
( )
( )
であるため、
①=②=③ であって、
唯一
④(  )
だけが、「他の3つ」と、「同じ」ではない
従って、
(11)により、
(12)
語順が異なること」は、「補足構造(シンタックス)が異なる」ための、「必要条件」であるが、
語順が異なること」は、「補足構造(シンタックス)が異なる」ための、「十分条件」ではない
然るに、
(13)
語順異なること」よりも、
構造異なること」の方が、「重大」なはずである。
従って、
(14)
語順が異なる」ことは、敢へて、言ふと、
構造が異なる」ことに比べれば、「どうでも良い」。
然るに、
(15)
そして重野の講演を後れること七年、文化大学の講師を務めていたイギリス人チャンバレン氏も一八八六年『東洋学芸雑誌』第六一号に「支那語読法ノ改良ヲ望ム」を発表し、「疑ハシキハ日本人ノ此支那語通読スル伝法ナリ、前ヲ後ニ変へ、下ヲ上ニ遡ラシ、本文ニ見へザル語尾ヲ附シ虚辞ヲ黙シ、若クハ再用スル等ハ、漢文ヲ通読スルコトニアランヤ。寧ロ漢文ヲ破砕シテ、其片塊ヲ以テ随意ニ別類ノ一科奇物ヲ増加セリト云フヲ免カレンヤ。」「畢竟日本語ハ日本ノ言序アリ、英語ハ英ノ語次存スルコトは皆々承知セリ、唯支那語ニノミ治外法権ヲ許ルサズシ権内ニ置クハ何ソヤ」(「訓読」論 東アジア漢文世界と日本語、中村春作・市來津由彦・田尻祐一郎・前田勉 共編、2008年、50頁)。
従って、
(14)(15)により、
(16)
「畢竟日本語日本言序アリ、英語ハ英ノ語次存スルコトは皆々承知セリ、唯支那語ニノミ治外法権ヲ許ルサズシ権内ニ置クハ何ソヤ」
といふ風に「主張」してゐる、イギリス人チャンバレン氏は、私に言はせれば、「どうでも良い」ことに、「拘泥」してゐる。
然るに、
(17)
数年前、ある言語学教育関連の新聞の連載のコラムに、西洋文化研究者の発言が載せられていた。誰もが知る、孟浩然の『春眠』「春眠暁を覚えず・・・・・・」の引用から始まるそのコラムでは、なぜ高校の教科書にいまだに漢文訓読があるのかと疑問を呈し、「返り点」をたよりに「上がったり下がったりしながら、シラミつぶしに漢字にたどる」読み方はすでに時代遅れの代物であって、早くこうした状況から脱するべきだと主張する。「どこの国に外国語母国語の語順で読む国があろう」かと嘆く筆者は、かつては漢文訓読が中国の歴史や文学を学ぶ唯一の手段であり「必要から編み出された苦肉の知恵であった」かもしれないが、いまや中国語を日本にいても学べる時代であり「漢文訓読を卒業するとき」だと主張するのである(「訓読」論 東アジア漢文世界と日本語、中村春作・市來津由彦・田尻祐一郎・前田勉 共編、2008年、1頁)。
従って、
(16)(17)により、
(18)
「どこの国に外国語母国語の語順で読む国があろう」かと、
嘆く筆者(西洋文化研究者)は、私に言はせれば、「どうでも良い」ことに、「拘泥」してゐる。
(19)
⑤ 是以大學始教、必使學者即凡天下之物、莫不因其已知之理、而益窮之、以求至乎其極。
といふ「純粋漢文(大學、伝五章)」を、「機械翻訳」に掛けると、
⑤ 大学によって初めて教えて、必ず学者のすなわちすべての天下の物、モーがそれのためもう知らない道理を使って、益貧乏なこれ、乎のそれに至るためにきわめて。
となってしまひ、「わけが分からない」。
従って、
(19)により、
(20)
このことは、例へば、
⑤ 是以大學始教、必使學者即凡天下之物、莫不因其已知之理、而益窮之、以求至乎其極。
といふ「純粋漢文」を、
⑤ Shì yǐ dàxué shǐ jiào, bì shǐ xuézhě jí fán tiānxià zhī wù, mòbù yīn qí yǐ zhīzhī lǐ, ér yì qióng zhī, yǐ qiú zhì hū qí jí.
といふ風に、「北京語」で「音読出来たとしても、「意味自体」は、「チンプンカンプン」である。
といふことを、示してゐる。
従って、
(21)
⑤ 是以大學始教、必使學者即凡天下之物、莫不因其已知之理、而益窮之、以求至乎其極。
といふ「漢文」を、「補足構造」に従って、
⑤ 是以、大學始敎、必使〈學者即(凡天下之物)、莫{不[因(其已知之理)、而益極(之)、以求〔至(乎其極)〕]}〉⇒
⑤ 是以、大學始敎、必〈學者(凡天下之物)即、{[(其已知之理)因、而益(之)極、以〔(乎其極)至〕求]不}莫〉使=
⑤ 是を以て、大學の始敎は、必ず〈學者をして(凡そ天下の物に)即きて、{[(其の已に知るの理に)因って、益々(之を)極め、以て〔(其の極に)至るを〕求め]不るを}莫から〉使む=
⑤ そのため、大學の敎へを始める際には、必ず〈學者をして(凡そ天下の物に)即いて、{[(その學者がすでに知っているの理に)依って、益々(これを)極め、以て〔(その極点に)至ることを〕求め]ないことが}無いやうに〉させる。
といふ風に「訓読」する「読み方」が、
⑤ 是以大學始教、必使學者即凡天下之物、莫不因其已知之理、而益窮之、以求至乎其極。
といふ「漢文」を、
⑤ Shì yǐ dàxué shǐ jiào, bì shǐ xuézhě jí fán tiānxià zhī wù, mòbù yīn qí yǐ zhīzhī lǐ, ér yì qióng zhī, yǐ qiú zhì hū qí jí.
といふ風に「音読」する「読み方」よりも、「劣ってゐる」はずが無い



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