日本語の「は」と「が」について。

象は鼻が長い=∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
とりあえず「三上文法」を「批判」します。

(620)「矛盾・韓非子」の「述語論理」(Ⅴ)。

2020-05-21 17:15:01 | 漢文・述語論理

(01)
 ― 矛盾・韓非子 ―
楚人有鬻盾与矛者。誉之曰、吾盾之堅、莫能陥也。又誉其矛曰、矛之利、於物無不陥也。或曰、以子之矛、陥子之盾、何如。其人弗能応也=
楚人有[鬻〔盾与(矛)〕者]。誉(之)曰、吾盾之堅、莫(能陥)也。又誉(其矛)曰、矛之利、於(物)無〔不(陥)〕也。或曰、以(子之矛)、陥(子之盾)、何如。其人弗〔能(応)〕也⇒
楚人に[〔盾と(矛)とを〕鬻ぐ者]有り。(之を)誉めて曰く、吾が盾の堅きこと、(能く陥す)莫きなり。又た(其の矛を誉めて)曰く、吾が矛の利なること、(物に)於いて〔(陥さ)不る〕無きなり。或ひと曰く、(子の矛を)以て、(子の盾を)陥さば、何如ん。其の人〔(応ふる)能は〕ざるなり=
楚の国の人で盾と矛とを売る者がゐた。自分の盾を誉めて言った。 私の盾を突き通すことができるものはない。 又其の矛を誉めて言った。 私の矛の鋭いことには、どんな物でも突き通すことができないものはない。或るひとが言った。 あなたの矛で、あなたの盾を突いたらどうなるのか。 其の(盾と矛を売る)人は、答へることが、出来なかった。
従って、
(01)により、
(02)
① いかなる矛でも陥せない盾が存在する。⇔
① ∃x{盾x&∀y(矛y→~陥yx)}⇔
① あるxは盾であり、すべてのyについて、yが矛ならば、yはxを陥さない。
② いかなる盾をも陥す矛が存在する。⇔
② ∃y{矛y&∀x(盾x→ 陥yx)}⇔
② あるyは矛であり、すべてのxについて、xが盾ならば、yはxを陥す。
然るに、
(03)
1   (1) ∃x{盾x&∀y(矛y→~陥yx)} A
 2  (2)    盾a&∀y(矛y→~陥ya)  A
 2  (3)    盾a              2&E
 2  (4)       ∀y(矛y→~陥ya)  2&E
 2  (5)          矛b→~陥ba   4UE
  6 (6) ∃y{矛y&∀x(盾x→ 陥yx)} A
   7(7)    矛b&∀x(盾x→ 陥bx)  A
   7(8)    矛b              7&E
   7(9)       ∀x(盾x→ 陥bx)  7&E
   7(ア)          盾a→ 陥ba   9UE
 2 7(イ)              陥ba   3アMPP
 2 7(ウ)             ~陥ba   58MPP
 2 7(エ)         陥ba&~陥ba   イウ&I
 26 (オ)         陥ba&~陥ba   67エEE
1 6 (カ)         陥ba&~陥ba   12オEE
1   (キ)~∃y{矛y&∀x(盾x→ 陥yx)} 6カRAA
  6 (ク)~∃x{盾x&∀y(矛y→~陥yx)} 1キRAA
従って、
(03)により、
(04)
① ∃x{盾x&∀y(矛y→~陥yx)}├ ~∃y{矛y&∀x(盾x→ 陥yx)}
② ∃y{矛y&∀x(盾x→ 陥yx)}├ ~∃x{盾x&∀y(矛y→~陥yx)}
といふ「連式(Sequents)」、すなはち、
① いかなる矛でも陥せない盾が存在する。故に、いかなる盾をも陥す矛は存在しない
② いかなる盾をも陥す矛が存在する。  故に、いかなる矛でも陥せない盾は存在しない
といふ「連式(Sequents)」は「妥当(Valid)」である。
然るに、
(05)
夫不可陷之盾与無不陷之矛、不可同世而立。今堯舜之不可両譽、矛盾之説也=
夫不〔可(陷)〕之盾與[無〔不(陷)〕之矛]、不[可〔同(世)而立〕]。今堯舜之不〔可(両譽)〕、矛盾之説也⇒
夫れ〔(陷す)可がら〕不るの盾と[〔(陷さ)不る〕無きの矛]とは、[〔(世を)同じくして立つ〕可から]不。今堯舜の〔(両つながら譽む)可から〕不るは、矛盾の説なり=
いかなる矛であっても、突き通すことが出来ない「盾」と、いかなる盾であってあっても、突き通さないことが無い「矛」とは、同時に存在することはできない。堯と舜とを同時に誉めたたへることが出来ないのは、この「盾と矛の例へ」と同じである。
従って、
(03)(04)(05)により、
(06)
「韓非の言ってゐること」は、「漢文」としても、「日本語」としても、「述語論理」としても、「正しい」。
cf.
儒教思想を批判した韓非は、儒者が堯・舜を、万人を感化した聖人であるとして賞賛するのを反対して、堯が万人を感化したなら、もはや舜はその後をうけて人民を感化する必要はないし、舜が堯にかわって万人を感化する必要があったとするならば、堯は聖人として不十分であったという証拠になる。という。したがって堯・舜ふたりとも聖人であるというのは矛盾であるとして、この話を引用したのである。
(旺文社、漢文の基礎、1973年、34頁)



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