(01)
(ⅰ)
1 (1)~∀x{ 弟子x→ ∃y(師匠yx&x<y)} A
1 (2)∃x~{ 弟子x→ ∃y(師匠yx&x<y)} 1量化子の関係
3(3) ~{ 弟子a→ ∃y(師匠ya&a<y)} A
3(4) ~{~弟子a∨ ∃y(師匠ya&a<y)} 3含意の定義
3(5) 弟子a&~∃y(師匠ya&a<y) 4ド・モルガンの法則
3(6) 弟子a 5&E
3(7) ~∃y(師匠ya&a<y) 5&E
3(8) ∀y~(師匠ya&a<y) 7量化子の関係
3(9) ~(師匠ba&a<b) 8UE
3(ア) ~師匠ba∨a≧b 9ド・モルガンの法則
3(イ) 師匠ba→a≧b ア含意の定義
3(ウ) ∀y(師匠ya→a≧y) イUI
3(エ) 弟子a&∀y(師匠ya→a≧y) 6ウ&I
3(オ) ∃x{弟子a&∀y(師匠yx→x≧y)} エEI
1 (カ) ∃x{弟子x&∀y(師匠yx→x≧y)} 13オEE
(ⅱ)
1 (1) ∃x{弟子x&∀y(師匠yx→x≧y)} A
2(2) 弟子a&∀y(師匠ya→a≧y) A
2(3) 弟子a 2&E
2(4) ∀y(師匠ya→a≧y) 2&E
2(5) 師匠ba→a≧b 4UE
2(6) ~師匠ba∨a≧b 5含意の定義
2(7) ~(師匠ba&a<b) 6ド・モルガンの法則
2(8) ∀y~(師匠ya&a<y) 7UI
2(9) ~∃y(師匠ya&a<y) 8量化子の関係
2(ア) 弟子a&~∃y(師匠ya&a<y) 39&I
2(イ) ~{~弟子a∨ ∃y(師匠ya&a<y)} ア、ド・モルガンの法則
2(ウ) ~{ 弟子a→ ∃y(師匠ya&a<y)} イ含意の定義
2(エ)∃x~{ 弟子a→ ∃y(師匠ya&a<y)} 2EI
1 (オ)∃x~{ 弟子a→ ∃y(師匠ya&a<y)} 12エEE
1 (カ)~∀x{ 弟子x→ ∃y(師匠yx&x<y)} オ量化子の関係
従って、
(01)により、
(02)
① ~∀x{弟子x→∃y(師匠yx&x<y)}
② ∃x{弟子x&∀y(師匠yx→x≧y)}
に於いて、
①=② である。
然るに、
(03)
(ⅰ)
1 (1)~{∀x[ 弟子(x)→ ∃y〔師匠(yx)&~(x≧y)〕]} A
1 (2) ∃x~{ 弟子(x)→ ∃y〔師匠(yx)&~(x≧y)〕} 1量化子の関係
3(3) ~{ 弟子(a)→ ∃y〔師匠(ya)&~(a≧y)〕} A
3(4) ~{~弟子(a)∨ ∃y〔師匠(ya)&~(a≧y)〕} 3含意の定義
3(5) 弟子(a)&~∃y〔師匠(ya)&~(a≧y)〕 4ド・モルガンの法則
3(6) 弟子(a) 5&E
3(7) ~∃y〔師匠(ya)&~(a≧y)〕 5&E
3(8) ∀y~〔師匠(ya)&~(a≧y)〕 7量化子の関係
3(9) ~〔師匠(ba)&~(a≧b)〕 8UE
3(ア) ~師匠(ba)∨ (a≧b) 9ド・モルガンの法則
3(イ) 師匠(ba)→ (a≧b) ア含意の定義
3(ウ) ∀y〔師匠(ya)→ (a≧y)〕 イUI
3(エ) 弟子(a)& ∀y〔師匠(ya)→ (a≧y)〕 6ウ&I
3(オ) ∃x{弟子(a)& ∀y〔師匠(yx)→ (x≧y)〕} エEI
1 (カ) ∃x{弟子(x)& ∀y〔師匠(yx)→ (x≧y)〕} 13オEE
(ⅱ)
1 (1) ∃x{弟子(x)& ∀y〔師匠(yx)→ (x≧y)〕} A
2(2) 弟子(a)& ∀y〔師匠(ya)→ (a≧y)〕 A
2(3) 弟子(a) 2&E
2(4) ∀y〔師匠(ya)→ (a≧y)〕 2&E
2(5) 師匠(ba)→ (a≧b) 4UE
2(6) ~師匠(ba)∨ (a≧b) 5含意の定義
2(7) ~(師匠(ba)&~(a≧b)〕 6ド・モルガンの法則
2(8) ∀y~〔師匠(ya)&~(a≧y)〕 7UI
2(9) ~∃y〔師匠(ya)&~(a≧y)〕 8量化子の関係
2(ア) 弟子(a)&~∃y〔師匠(ya)&~(a≧y)〕 39&I
2(イ) ~{~弟子(a)∨ ∃y〔師匠(ya)&~(a≧y)〕} ア、ド・モルガンの法則
2(ウ) ~{ 弟子(a)→ ∃y〔師匠(ya)&~(a≧y)〕} イ含意の定義
2(エ) ∃x~{ 弟子(a)→ ∃y〔師匠(ya)&~(a≧y)〕} 2EI
1 (オ) ∃x~{ 弟子(a)→ ∃y〔師匠(ya)&~(a≧y)〕} 12エEE
1 (カ)~{∀x[ 弟子(x)→ ∃y〔師匠(yx)&~(x≧y)〕]} オ量化子の関係
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
① ~∀x{弟子x→∃y(師匠yx&x<y)}
② ∃x{弟子x&∀y(師匠yx→x≧y)}
③ ~{∀x[弟子(x)→∃y〔師匠(yx)&~(x≧y)〕]}
④ ∃x{弟子(x)&∀y〔師匠(yx)→ (x≧y)〕}
に於いて、
①=③ であって、
②=④ である。
然るに、
(05)
① ~{∀x[弟子(x)→∃y〔師匠(yx)&~(x≧y)〕]}
に於いて、
① ~{ }⇒{ }~
① 弟子( )⇒( )弟子
① 師匠( )⇒( )師匠
① ~{ }⇒{ }~
といふ「移動」を行ふと、
① {∀x[(x)弟子→∃y〔(yx)師匠&(x≧y)~〕]}~
といふ「語順」になる。
然るに、
(06)
① {∀x[(x)弟子→∃y〔(yx)師匠&(x≧y)~〕]}~
といふ「述語論理式」は、「左から右へ」、
① {すべてのxについて[(xが)弟子でならば、ある〔(yはxの)師匠であって(xはyに及ば)ない〕]}といふことはない。
といふ風に、「読む」ことになる。
然るに、
(07)
① 弟子不必不如師=
① 弟子不ニ必不一レ如レ師=
① 弟子不[必不〔如(師)〕]⇒
① 弟子[必〔(師)如〕不]不=
① 弟子[は必ずしも〔(師)に如か〕不んば]あら不=
① 弟子は必ずしも、師匠に及ばない、というわけではない。
といふ「読み方」が、「漢文・訓読」であるならば、
② ~∀x{弟子x→∃y(師匠yx&x<y)}=
② ~{∀x[弟子(x)→∃y〔師匠(yx)&~(x≧y)〕]}⇒
② {∀x[(x)弟子→∃y〔(yx)師匠&(x≧y)~〕]}~=
②{すべてのxについて[(xが)弟子でならば、ある〔(yはxの)師匠であって(xはyに及ば)ない〕]}といふことはない。
といふ「読み方」は、いはば、「述語論理・訓読」である。
然るに、
(08)
記号論理学は、英語などヨーロッパ語を母国語とする文化圏でもっぱら開発された学門であるにもかかわらず、論理学者の母語よりも日本語のような外国語の文法に合致している部分が少なくない(もちろん逆もある)。このことは、論理学が、ローカルな日常言語ではなく言語的な普遍論理をかなり再現しおおせている証しと言えるだろう(三浦俊彦、ラッセルのパラドックス、2005年、105頁)。
従って、
(07)(08)により、
(09)
② ~∀x{弟子x→∃y(師匠yx&x<y)}=
② ~{∀x[弟子(x)→∃y〔師匠(yx)&~(x≧y)〕]}⇒
② {∀x[(x)弟子→∃y〔(yx)師匠&(x≧y)~〕]}~=
②{すべてのxについて[(xが)弟子でならば、ある〔(yはxの)師匠であって(xはyに及ば)ない〕]}といふことはない。
といふ「述語論理・訓読」を行っても、「誰にも、文句を言はれない。」
然るに、
(10)
(青木)二百年前、正徳の昔に於て荻生徂徠は夙に道破した。漢学の授業法はまず支那語から取りかからねばならぬ。教うるに俗語を以てし、誦するに支那音を以てし、訳するに日本の俗語を以てし、決して和訓廻環の読み方をしてはならぬ。先ず零細な二字三字の短句から始めて、後には纏った書物を読ませる、斯くて支那語が熟達して支那人と同様になつてから、而る後段々と経子史集四部の書を読ませると云う風にすれば破竹の如しだ、是が最良の策だ(勉誠出版、「訓読」論、2008年、56頁)。
(倉石)徂徠は、単に唐音を操るといふ様なことに満足せず、漢文を学ぶには先ず支那語からとりかり、支那の俗語をば支那語で暗誦させ、これを日本語の俗語に訳し、決して和訓の顚倒読みをしてはならない、始めは零細な二字三字の句から始めて、遂に纏った書物を読ます、支那語が支那人ほど熟達してから、古い書物を読ませば、破竹の勢いで進歩すると説いたこれは、今日の様に外国語に対する理念が発達した時代から見れば、何の不思議もないことであるが、その当時、つとに、かかる意見を吐いたのは、たしかに一世に抜きんでた見識に相違ない(勉誠出版、「訓読」論、2008年、56頁)。
(11)
日本語や英語、中国語(現代でなく、過去の中国語も含む)は、自然言語である。しかし漢文は、自然言語を土台にした人工言語だ(加藤徹、白文攻略 漢文ひとり学び、2013年、8頁)。中国の口語文(白話文)も、漢文とおなじように漢字を使っていますが、もともと二つのちがった体系で、単語も文法もたいへんちがうのですから、いっしょにあつかうことはできません。漢文と中国語は別のものです(魚返善雄、漢文入門、1966年、17頁)。しからば、口語はAxByであるものを、文章語はABとつづめても、これはこれで完全な文となり得る。かくして記載語のABは、はじめから口語のAxByとは別のものとして発生し、存在したと思われる(吉川幸次郎、漢文の話、1962年、59頁)。
従って、
(09)(10)(11)により、
(12)
荻生徂徠、青木正兒、倉石武四郎は、「漢文は、中国語である。」といふに、思ってゐた、ことになり、
魚返善雄、吉川幸次郎、加藤徹 は、「漢文は、人工言語」であると、思ってゐる(た)ことに、なるものの、「人工言語」であるならば、
① 弟子不[必不〔如(師)〕]⇒ 弟子[は必ずしも〔(師)に如か〕不んば]あら不。
② ~∀x{弟子x→∃y(師匠yx&x<y)}⇒ すべてのxについて[(xが)弟子でならば、ある〔(yはxの)師匠であって(xはyに及ば)ない〕]}といふことはない。
といふ風に読んだとしても、「問題」は、無いはずある。
然るに、
(13)
「ユーチューブ」で探してみたところ(李姉妹ch)、
A:中国人ならば、漢文をスラスラ読めるのか。日頃から、トップレベルに多い質問なんですけど、ズバリ結論からいうと、中国語が出来るからと言って、漢文が読めるわけではありません。その人の知識次第です。
A:今日は、この動画をとるに当たって、日本の漢文で、どういう感じだったかなぁ、と思って、2019年度のセンター試験の、国語の問題の中から、持って来ました。 B:これは、杜甫の文章です。Dùfǔ。えっ、ちょっと読んでみます。Wūhū'āizāi yǒu xiōng zǐ yuē fǔ zhìfú yú sī jì dé yú sī kè shí yú sī huò yuē qǐ xiào tóng zhī yóuzi yǔ xī xiàoyì zhī qín ruò cǐ.
A:全く、分からん。
B:全く、分からん。― 中略 ―、「そもそも、語順が違うから、並び替えも必要。― 後略 ―、因みに、中国の学生に、「文言文(漢文)」という言葉は、「禁句の言葉」に入るくらい、聞いただけで、鳥肌が立つって言うさ、
A:いやな思い出しかないって、言うみたいな。
B:マジで嫌。みんな、嫌いやもん、文言文(漢文)は、
A:因みに、お母さんに、この動画撮る前に、文言文(漢文)について、動画撮るって、言ったら、
B:ウン、
A:ハァッツ(と、母はため息をついたとのことで、二人とも、声をだして、笑う)。お母さん、メッチャ、きらいやった。っていうとった。嫌いな人が多い、ムズカシイんやろなぁ。
従って、
(12)(13)により、
(14)
「漢文(文言文)」が、「人工言語」であらうと、なからうと、いづれにせよ、
「漢文(文言文)」を理解する上で、「中国語の知識」は、「何らのアドバンテージ」にも、なりそうにない。
従って、
(08)~(14)により、
(15)
「英語」が出来なければ、「論理学」が分かるようにならないわけではないため、それと「同じ様」に、
「漢学の授業法はまず支那語から取りかからねばならぬ」という風に、私自身は、思はない。
―「昨日(令和03年04月18日)の記事」を書き直します。―
(01)
(ⅰ)
1 (1)~∀x{ 弟子x→ ∃y(師yx&x<y)} A
1 (2)∃x~{ 弟子x→ ∃y(師yx&x<y)} 1量化子の関係
3(3) ~{ 弟子a→ ∃y(師ya&a<y)} A
3(4) ~{~弟子a∨ ∃y(師ya&a<y)} 3含意の定義
3(5) 弟子a&~∃y(師ya&a<y) 4ド・モルガンの法則
3(6) 弟子a 5&E
3(7) ~∃y(師ya&a<y) 5&E
3(8) ∀y~(師ya&a<y) 7量化子の関係
3(9) ~(師ba&a<b) 8UE
3(ア) ~師ba∨a≧b 9ド・モルガンの法則
3(イ) 師ba→a≧b ア含意の定義
3(ウ) ∀y(師ya→a≧y) イUI
3(エ) 弟子a&∀y(師ya→a≧y) 6ウ&I
3(オ) ∃x{弟子a&∀y(師yx→x≧y)} エEI
1 (カ) ∃x{弟子x&∀y(師yx→x≧y)} 13オEE
(ⅱ)
1 (1) ∃x{弟子x&∀y(師yx→x≧y)} A
2(2) 弟子a&∀y(師ya→a≧y) A
2(3) 弟子a 2&E
2(4) ∀y(師ya→a≧y) 2&E
2(5) 師ba→a≧b 4UE
2(6) ~師ba∨a≧b 5含意の定義
2(7) ~(師ba&a<b) 6ド・モルガンの法則
2(8) ∀y~(師ya&a<y) 7UI
2(9) ~∃y(師ya&a<y) 8量化子の関係
2(ア) 弟子a&~∃y(師ya&a<y) 39&I
2(イ) ~{~弟子a∨ ∃y(師ya&a<y)} ア、ド・モルガンの法則
2(ウ) ~{ 弟子a→ ∃y(師ya&a<y)} イ含意の定義
2(エ)∃x~{ 弟子a→ ∃y(師ya&a<y)} 2EI
1 (オ)∃x~{ 弟子a→ ∃y(師ya&a<y)} 12エEE
1 (カ)~∀x{ 弟子x→ ∃y(師yx&x<y)} オ量化子の関係
従って、
(01)により、
(02)
① ~∀x{弟子x→∃y(師yx&x<y)}
② ∃x{弟子x&∀y(師yx→x≧y)}
に於いて、
①=② である。
然るに、
(03)
① y>x
② ~(x≧y)
に於いて、
①=② である。
従って、
(02)(03)により、
(04)
① ~∀x{弟子x→∃y〔師yx&~(x≧y)〕}
② ∃x{弟子x&∀y〔師yx→ (x≧y)〕}
に於いて、
①=② である。
然るに、
(05)
① ~∀x(Fx)
② ~{∀x(Fx)}
に於いて、
①=② である。
従って、
(04)(05)により、
(06)
① ~{∀x[弟子x→∃y〔師yx&~(x≧y)〕]}
② ∃x{弟子x&∀y〔師yx→ (x≧y)〕}
に於いて、
①=② である。
然るに、
(07)
「~(A≧B)」=「AはBに及ばない。」
「A≧B」 =「AはBに及んでゐる。」
といふ風に、「読む」ことにする。
従って、
(06)(07)により、
(08)
① ~{∀x[弟子x→∃y〔師yx&~(x≧y)〕]}
② ∃x{弟子x&∀y〔師yx→ (x≧y)〕}
に於いて、すなはち、
① すべてのxについて{xが弟子であるならば、あるyは(xの師匠であって、xはyに及ばない)。}といふわけではない。
② あるxについて{xは弟子であって、すべてのyについて(yがxの師匠であるならば、xはyに及んでゐる)}。
に於いて、
①=② である。
然るに、
(09)
② 弟子不必不如師=
② 弟子不[必不〔如(師)〕]⇒
② 弟子[必〔(師)如〕不]不=
② 弟子[は必ずしも〔(師)に如か〕不んば]あら不=
② 弟子は必ずしも、師匠に及ばない、というわけではない。
然るに、
(10)
弟子は必ずしも師に及ばないというわけではなく(、弟子の方がすぐれている場合もある)。
(三省堂、明解古典学習シリーズ20、1973年、56頁)
従って、
(07)~(10)により、
(11)
① ~{∀x[弟子x→∃y〔師yx&~(x≧y)〕]}
② 弟子不[必不〔如(師)〕]
に於いて、
① は、「二重否定」であって、
② も、「二重否定」であって、
① は、② の「直訳」である。
然るに、
(12)
括弧は、論理演算子のスコープ(scope)を明示する働きを持つ。スコープは、論理演算子の働きが及ぶ範囲のことをいう。
(産業図書、数理言語学辞典、2013年、四七頁:命題論理、今仁生美)
従って、
(11)(12)により、
(13)
① ~{∀x[弟子x→∃y〔師yx&~(x≧y)〕]}
② 弟子不[必不〔如(師)〕]
に於ける。
①{ [ 〔 ( ) 〕 ] }
② [ 〔 ( ) 〕]
といふ「括弧」は、「スコープ(scope)」を明示する「働き」を担ってゐる。
然るに、
(14)
「管到」とは、ある語句がそのあとのどの漢字までかかっているか、という範囲のことである。白文の訓読では、それぞれの漢字の意味や品詞を自分で考え、その漢字が後ろのどこまでかかっているか、考えねばならない。
(加藤徹、白文攻略 漢文ひとり学び、2013年、143頁)
従って、
(13)(14)により、
(15)
① ~∀x{弟子x→∃y〔師yx&~(x≧y)〕}
② 弟子不[必不〔如(師)〕]
に於ける。
①{ [ 〔 ( ) 〕 ] }
② [ 〔 ( ) 〕]
といふ「括弧」は、「管到(scope)」を明示する「働き」を担ってゐる。
従って、
(01)~(15)により、
(16)
加藤徹先生が、仮に、
1 (1)~∀x{ 弟子x→ ∃y(師yx&x<y)} A
1 (2)∃x~{ 弟子x→ ∃y(師yx&x<y)} 1量化子の関係
3(3) ~{ 弟子a→ ∃y(師ya&a<y)} A
3(4) ~{~弟子a∨ ∃y(師ya&a<y)} 3含意の定義
3(5) 弟子a&~∃y(師ya&a<y) 4ド・モルガンの法則
3(6) 弟子a 5&E
3(7) ~∃y(師ya&a<y) 5&E
3(8) ∀y~(師ya&a<y) 7量化子の関係
3(9) ~(師ba&a<b) 8UE
3(ア) ~師ba∨a≧b 9ド・モルガンの法則
3(イ) 師ba→a≧b ア含意の定義
3(ウ) ∀y(師ya→a≧y) イUI
3(エ) 弟子a&∀y(師ya→a≧y) 6ウ&I
3(オ) ∃x{弟子a&∀y(師yx→x≧y)} エEI
1 (カ) ∃x{弟子x&∀y(師yx→x≧y)} 13オEE
といふ「計算」を、行ふ人であるならば、
加藤徹先生(https://bit.ly/2XRhhPa)もまた、既に、
① 弟子不必不如師=
① 弟子不ニ必不一レ如レ師=
① 弟子不[必不〔如(師)〕]⇒
① 弟子[必〔(師)如〕不]不=
① 弟子[は必ずしも〔(師)に如か〕不んば]あら不=
① 弟子は必ずしも、師匠に及ばない、というわけではない=
① 弟子は必ずしも師に及ばないというわけではなく(、弟子の方がすぐれている場合もある)。
といふ「括弧の用法」に、気付いてゐることになる。
然るに、
(17)
「白文の訓読では、それぞれの漢字の意味や品詞を自分で考え、その漢字が後ろのどこまでかかっているか、考える。」
といふことを、『趣味』にしてゐる(た)人には、分かってもらえる通り、
② 弟子不必不如師。
のやうに、「極めて簡単な漢文(白文)」であれば、「それを見た瞬間」に、
② 弟子は必ずしも師に如か不んばあら不。
といふに、「訓読」出来る。
然るに、
(18)
② 是以大學始敎必使學者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極=
② 是以大學始敎必使下學者即二凡天下之物一莫上レ不下因二其已知之理一益々極レ之以求上レ至二乎其極一=
② 是以大學始敎必使〈學者即(凡天下之物)莫{不[因(其已知之理)而益極(之)以求〔至(乎其極)〕]}〉⇒
② 是以大學始敎必〈學者(凡天下之物)即{[(其已知之理)因而益(之)極以〔(乎其極)至〕求]不}莫〉使=
② 是を以て、大學の始敎は、必ず〈學者をして(凡そ天下の物に)即きて{[(其の已に知るの理に)因って、益々(之を)極め、以て〔(其の極に)至るを〕求め]不るを}莫から〉使む。
② そのため、大學の敎へを始める際には、必ず學者をして凡そ天下の物について、その學者がすでに知っているの理に依って、益々、天下の物を極め、それによって、その極点に至ることを求めないことが、無いやうにさせる。
に於ける、
② 是以大學始敎必使學者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
のような、「極めて複雑な漢文(白文)」の場合は、「それを見た瞬間」に、
② そのため、大學の敎へを始める際には、必ず學者をして凡そ天下の物について、その學者がすでに知っているの理に依って、益々、天下の物を極め、それによって、その極点に至ることを求めないことが、無いやうにさせる。
といふに、「訓読」することは、「相当、難しい」。
然るに、
(19)
例えば、京都大学において、その中国文化の研究について、大きな基礎を作られた狩野直喜氏(一八六六~一九四七)は、その教えを受けた倉石武四郎(一八九七~」に、かつて「自分たちが訓読するのは、そういう習慣になっていたから、いちおう訓読するだけで、実は、原文を直読しているのである」と語られたという。
(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、385頁)
従って、
(18)(19)により、
(20)
狩野直喜氏(一八六六~一九四七)であれば、あるいは、
② 是以大學始敎必使學者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
という「漢文」であっても、「訓読」としての「直読」が、可能であったと、思はれる。
然るに、
(21)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。しかし、訓読は、国語の語順に置きかえて読むことが、その大きな原則となっている。それでその補足構造によっている文も、返り点によって、国語としての語順が示されている。
(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、296頁)
従って、
(18)(21)により、
(22)
② 是以大學始敎必使學者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極=
② 是以大學始敎必使下學者即二凡天下之物一莫上レ不下因二其已知之理一益々極レ之以求上レ至二乎其極一=
② 是以大學始敎必使〈學者即(凡天下之物)莫{不[因(其已知之理)而益極(之)以求〔至(乎其極)〕]}〉⇒
② 是以大學始敎必〈學者(凡天下之物)即{[(其已知之理)因而益(之)極以〔(乎其極)至〕求]不}莫〉使=
② 是を以て、大學の始敎は、必ず〈學者をして(凡そ天下の物に)即きて{[(其の已に知るの理に)因って、益々(之を)極め、以て〔(其の極に)至るを〕求め]不るを}莫から〉使む。
② そのため、大學の敎へを始める際には、必ず學者をして凡そ天下の物について、その學者がすでに知っているの理に依って、益々、天下の物を極め、それによって、その極点に至ることを求めないことが、無いやうにさせる。
に於ける、
②〈 ( ) { [ ( )( )〔 ( ) 〕 ] } 〉
といふ「括弧」は、
② 是以大學始敎必使學者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
といふ「漢文」の「補足構造」を表してゐる、と同時に、「訓読」に於ける、
② 下 二 一 上レ 下 二 一 レ レ 二 一
といふ「返り点」に、「相当」する。
従って、
(14)(22)により、
(23)
例へば、「京都大学の漢文の先生」に、
② 是以大學始敎必使學者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
といふ「漢文の補足構造」を「質問」した「結果」として、
② 是以大學始敎必使〈學者即(凡天下之物)莫{不[因(其已知之理)而益極(之)以求〔至(乎其極)〕]}〉。
といふ「補足構造」を、得ることが、出来たのであれば、そのまま直ぐに、
② 是を以て、大學の始敎は、必ず〈學者をして(凡そ天下の物に)即きて{[(其の已に知るの理に)因って、益々(之を)極め、以て〔(其の極に)至るを〕求め]不るを}莫から〉使む。
といふ、「訓読の語順」を、得ることになる。
然るに、
(24)
文系国語
第一問は評論、随筆、第二問は、従来は文語文が出題されていたが、近年では小説や随筆が出題される事が多い(ただし、やや文語的なものが出題される)。第三問は古典である。主に古文が出題される。各大問とも配点はそれぞれ50点である。
(京大対策/国語 - Wikibooks - ウィキブックス)
従って、
(24)により、
(25)
どうやら、「京都大学」の場合は、「文系の入試」でさえも、「漢文の出題」が無いことになる。
加へて、
(26)
大学では、これまでなじみのある訓読という方法によらず、現代中国語の知識を前提として、中国語の音によってそのまま読んでいきます。音そのもののひびきの美しさを体得できるよう、古典・現代のいずれに関心がある場合でも、入学後は現代中国語を充分に習得してください。
(京都大学、文学部受験生向けメッセージ)
然るに、
(27)
「大学に入っても、一般に中国文学科では訓読法を指導しない。漢文つまり古典中国語も現代中国語で発音してしまうのが通例で、訓読法なぞ時代遅れの古臭い方法だと蔑む雰囲気さえ濃厚だという。
(古田島洋介、日本近代史を学ぶための、文語文入門、2013年、はじめに ⅳ)
従って、
(23)~(27)により、
(28)
例へば、「京都大学の漢文の先生」に、
② 是以大學始敎必使學者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
といふ「漢文の補足構造」を「質問」することまでは、「良い」としても、
② 是を以て、大學の始敎は、必ず〈學者をして(凡そ天下の物に)即きて{[(其の已に知るの理に)因って、益々(之を)極め、以て〔(其の極に)至るを〕求め]不るを}莫から〉使む。
といふ「訓読」が、「正しいのか、間違ひであるのか」といふことを、「質問」しては、ならない。
然るに、
(29)
博士課程後期に六年間在学して訓読が達者になった中国の某君があるとき言った。「自分たちは古典を中国音で音読することができる。しかし、往々にして自ら欺くことがあり、助詞などいいかげんに飛ばして読むことがある。しかし日本式の訓読では、「欲」「将」「当」「謂」などの字が、どこまで管到して(かかって)いるか、どの字から上に返って読むか、一字もいいかげんにできず正確に読まなければならない」と、訓読が一字もいやしくしないことに感心していた。これによれば倉石武四郎氏が、訓読は助詞の類を正確に読まないと非難していたが、それは誤りで、訓読こそ中国音で音読するよりも正確な読み方なのである。
(原田種成、私の漢文 講義、1995年、27頁)
従って、
(28)(29)により、
(30)
② 是以大學始敎必使學者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
といふ「漢文」を、ある人が、
② Shì yǐ dàxué shǐ jiào bì shǐ xuézhě jí fán tiānxià zhī wù mòbù yīn qí yǐ zhīzhī lǐ ér yì jí zhī yǐ qiú zhì hū qí jí.
といふ風に、読めるからと言って、その人が、
② 是以大學始敎必使〈學者即(凡天下之物)莫{不[因(其已知之理)而益極(之)以求〔至(乎其極)〕]}〉。
といふ「補足構造」を、「把握」してゐるとは、限らない。
然るに、
(31)
然るに、
大学(京都帝国大学)に入った二年め(昭和5年)の秋、倉石武四郎先生が中国の留学から帰られ、授業を開始されたことは、私だけではなく、当時の在学生に一大衝撃を与えた。先生は従来の漢文訓読を全くすてて、漢籍を読むのにまず中国語の現代の発音に従って音読し、それをただちに口語に訳することにすると宣言されたのである。この説はすぐさま教室で実行された。私どもは魯迅の小説集『吶喊』と江永の『音学弁徴』を教わった。これは破天荒のことであって、教室で中国の現代小説を読むことも、京都大学では最初であり、全国のほかの大学でもまだなかったろうと思われる。
(『心の履歴』、「小川環樹著作集 第五巻」、筑摩書房、176頁)
従って、
(24)~(31)により、
(32)
大学(京都帝国大学)に入った二年め(昭和5年)の秋から、
① 是以大學始敎必使學者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極=
① 是以大學始敎必使下 學者即二 凡天下之物一莫上レ 不下 因二 其已知之理一益々極レ 之以求上レ 至二 乎其極一=
① 是以大學始敎必使〈學者即(凡天下之物)莫{不[因(其已知之理)而益極(之)以求〔至(乎其極)〕]}〉⇒
① 是以大學始敎必〈學者(凡天下之物)即{[(其已知之理)因而益(之)極以〔(乎其極)至〕求]不}莫〉使=
① 是を以て、大學の始敎は、必ず〈學者をして(凡そ天下の物に)即きて{[(其の已の知るの理に)因って、益々(之を)極め、以て〔(其の極に)至るを〕求め]不るを}莫から〉使む。
① そのため、大學の敎へを始める際には、必ず學者をして凡そ天下の物について、その學者がすでに知っているの理に依って、益々、天下の物を極め、それによって、その極点に至ることを求めないことが、無いやうにさせる。
といふ「読み方」は、「京都大学」に於いて、「排斥」されて来た。といふことになる。
(33)
その「結果」として、「京都大学の漢文」先生が、「他の大学の漢文」の先生よりも、「漢文の読み書き」に於いて、優秀なのか、否か。
といふことについては、部外者の私には、全く、分からない。
(34)
中國以北京語為國語矣。然若北京語非漢文也。是以中國語直読法雖盛中華人民共和國語不可以書中夏之書審矣。
如日本之学生有欲能読漢文者則宜以括弧学其管到。古漢文之於日本語猶古文之於日本語也。故漢文亦日本語也。
学中國語莫若音読、学漢文莫若以訓読学之。
―「昨日(令和03年04月18日)の記事」を書き直します。―
(01)
(ⅰ)
1 (1)~∀x{ 弟子x→ ∃y(師yx&x<y)} A
1 (2)∃x~{ 弟子x→ ∃y(師yx&x<y)} 1量化子の関係
3(3) ~{ 弟子a→ ∃y(師ya&a<y)} A
3(4) ~{~弟子a∨ ∃y(師ya&a<y)} 3含意の定義
3(5) 弟子a&~∃y(師ya&a<y) 4ド・モルガンの法則
3(6) 弟子a 5&E
3(7) ~∃y(師ya&a<y) 5&E
3(8) ∀y~(師ya&a<y) 7量化子の関係
3(9) ~(師ba&a<b) 8UE
3(ア) ~師ba∨a≧b 9ド・モルガンの法則
3(イ) 師ba→a≧b ア含意の定義
3(ウ) ∀y(師ya→a≧y) イUI
3(エ) 弟子a&∀y(師ya→a≧y) 6ウ&I
3(オ) ∃x{弟子a&∀y(師yx→x≧y)} エEI
1 (カ) ∃x{弟子x&∀y(師yx→x≧y)} 13オEE
(ⅱ)
1 (1) ∃x{弟子x&∀y(師yx→x≧y)} A
2(2) 弟子a&∀y(師ya→a≧y) A
2(3) 弟子a 2&E
2(4) ∀y(師ya→a≧y) 2&E
2(5) 師ba→a≧b 4UE
2(6) ~師ba∨a≧b 5含意の定義
2(7) ~(師ba&a<b) 6ド・モルガンの法則
2(8) ∀y~(師ya&a<y) 7UI
2(9) ~∃y(師ya&a<y) 8量化子の関係
2(ア) 弟子a&~∃y(師ya&a<y) 39&I
2(イ) ~{~弟子a∨ ∃y(師ya&a<y)} ア、ド・モルガンの法則
2(ウ) ~{ 弟子a→ ∃y(師ya&a<y)} イ含意の定義
2(エ)∃x~{ 弟子a→ ∃y(師ya&a<y)} 2EI
1 (オ)∃x~{ 弟子a→ ∃y(師ya&a<y)} 12エEE
1 (カ)~∀x{ 弟子x→ ∃y(師yx&x<y)} オ量化子の関係
従って、
(01)により、
(02)
① ~∀x{弟子x→∃y(師yx&x<y)}
② ∃x{弟子x&∀y(師yx→x≧y)}
に於いて、
①=② である。
然るに、
(03)
① y>x
② ~(x≧y)
に於いて、
①=② である。
従って、
(02)(03)により、
(04)
① ~∀x{弟子x→∃y〔師yx&~(x≧y)〕}
② ∃x{弟子x&∀y〔師yx→ (x≧y)〕}
に於いて、
①=② である。
然るに、
(05)
① ~∀x(Fx)
② ~{∀x(Fx)}
に於いて、
①=② である。
従って、
(04)(05)により、
(06)
① ~{∀x[弟子x→∃y〔師yx&~(x≧y)〕]}
② ∃x{弟子x&∀y〔師yx→ (x≧y)〕}
に於いて、
①=② である。
然るに、
(07)
「~(A≧B)」=「AはBに及ばない。」
「A≧B」 =「AはBに及んでゐる。」
といふ風に、「読む」ことにする。
従って、
(06)(07)により、
(08)
① ~{∀x[弟子x→∃y〔師yx&~(x≧y)〕]}
② ∃x{弟子x&∀y〔師yx→ (x≧y)〕}
に於いて、すなはち、
① すべてのxについて{xが弟子であるならば、あるyは(xの師匠であって、xはyに及ばない)。}といふわけではない。
② あるxについて{xは弟子であって、すべてのyについて(yがxの師匠であるならば、xはyに及んでゐる)}。
に於いて、
①=② である。
然るに、
(09)
② 弟子不必不如師=
② 弟子不[必不〔如(師)〕]⇒
② 弟子[必〔(師)如〕不]不=
② 弟子[は必ずしも〔(師)に如か〕不んば]あら不=
② 弟子は必ずしも、師匠に及ばない、というわけではない。
然るに、
(10)
弟子は必ずしも師に及ばないというわけではなく(、弟子の方がすぐれている場合もある)。
(三省堂、明解古典学習シリーズ20、1973年、56頁)
従って、
(07)~(10)により、
(11)
① ~{∀x[弟子x→∃y〔師yx&~(x≧y)〕]}
② 弟子不[必不〔如(師)〕]
に於いて、
① は、「二重否定」であって、
② も、「二重否定」であって、
① は、② の「直訳」である。
然るに、
(12)
括弧は、論理演算子のスコープ(scope)を明示する働きを持つ。スコープは、論理演算子の働きが及ぶ範囲のことをいう。
(産業図書、数理言語学辞典、2013年、四七頁:命題論理、今仁生美)
従って、
(11)(12)により、
(13)
① ~{∀x[弟子x→∃y〔師yx&~(x≧y)〕]}
② 弟子不[必不〔如(師)〕]
に於ける。
①{ [ 〔 ( ) 〕 ] }
② [ 〔 ( ) 〕 ]
といふ「括弧」は、「スコープ(scope)」を明示する「働き」を担ってゐる。
然るに、
(14)
「管到」とは、ある語句がそのあとのどの漢字までかかっているか、という範囲のことである。白文の訓読では、それぞれの漢字の意味や品詞を自分で考え、その漢字が後ろのどこまでかかっているか、考えねばならない。
(加藤徹、白文攻略 漢文ひとり学び、2013年、143頁)
従って、
(13)(14)により、
(15)
① ~∀x{弟子x→∃y〔師yx&~(x≧y)〕}
② 弟子不[必不〔如(師)〕]
に於ける。
①{ [ 〔 ( ) 〕 ] }
② [ 〔 ( ) 〕 ]
といふ「括弧」は、「管到(scope)」を明示する「働き」を担ってゐる。
従って、
(01)~(15)により、
(16)
加藤徹先生が、仮に、
1 (1)~∀x{ 弟子x→ ∃y(師yx&x<y)} A
1 (2)∃x~{ 弟子x→ ∃y(師yx&x<y)} 1量化子の関係
3(3) ~{ 弟子a→ ∃y(師ya&a<y)} A
3(4) ~{~弟子a∨ ∃y(師ya&a<y)} 3含意の定義
3(5) 弟子a&~∃y(師ya&a<y) 4ド・モルガンの法則
3(6) 弟子a 5&E
3(7) ~∃y(師ya&a<y) 5&E
3(8) ∀y~(師ya&a<y) 7量化子の関係
3(9) ~(師ba&a<b) 8UE
3(ア) ~師ba∨a≧b 9ド・モルガンの法則
3(イ) 師ba→a≧b ア含意の定義
3(ウ) ∀y(師ya→a≧y) イUI
3(エ) 弟子a&∀y(師ya→a≧y) 6ウ&I
3(オ) ∃x{弟子a&∀y(師yx→x≧y)} エEI
1 (カ) ∃x{弟子x&∀y(師yx→x≧y)} 13オEE
といふ「計算」を、行ふ人であるならば、
加藤徹先生(https://bit.ly/2XRhhPa)もまた、既に、
① 弟子不必不如師=
① 弟子不ニ必不一レ如レ師=
① 弟子不[必不〔如(師)〕]⇒
① 弟子[必〔(師)如〕不]不=
① 弟子[は必ずしも〔(師)に如か〕不んば]あら不=
① 弟子は必ずしも、師匠に及ばない、というわけではない=
① 弟子は必ずしも師に及ばないというわけではなく(、弟子の方がすぐれている場合もある)。
といふ「括弧の用法」に、気付いてゐることになる。
然るに、
(17)
「白文の訓読では、それぞれの漢字の意味や品詞を自分で考え、その漢字が後ろのどこまでかかっているか、考える。」
といふことを、『趣味』にしてゐる(た)人には、分かってもらえる通り、
② 弟子不必不如師。
のやうに、「極めて簡単な漢文(白文)」であれば、「それを見た瞬間」に、
② 弟子は必ずしも師に如か不んばあら不。
といふに、「訓読」出来る。
然るに、
(18)
② 是以大學始敎必使學者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極=
② 是以大學始敎必使下學者即二凡天下之物一莫上レ不下因二其已知之理一益々極レ之以求上レ至二乎其極一=
② 是以大學始敎必使〈學者即(凡天下之物)莫{不[因(其已知之理)而益極(之)以求〔至(乎其極)〕]}〉⇒
② 是以大學始敎必〈學者(凡天下之物)即{[(其已知之理)因而益(之)極以〔(乎其極)至〕求]不}莫〉使=
② 是を以て、大學の始敎は、必ず〈學者をして(凡そ天下の物に)即きて{[(其の已に知るの理に)因って、益々(之を)極め、以て〔(其の極に)至るを〕求め]不るを}莫から〉使む=
② そのため、大學の敎へを始める際には、必ず學者をして凡そ天下の物について、その學者がすでに知っているの理に依って、益々、天下の物を極め、それによって、その極点に至ることを求めないことが、無いやうにさせる。
に於ける、
② 是以大學始敎必使學者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
のような、「極めて複雑な漢文(白文)」の場合は、「それを見た瞬間」に、
② そのため、大學の敎へを始める際には、必ず學者をして凡そ天下の物について、その學者がすでに知っているの理に依って、益々、天下の物を極め、それによって、その極点に至ることを求めないことが、無いやうにさせる。
といふに、「訓読」することは、「相当、難しい」。
然るに、
(19)
例えば、京都大学において、その中国文化の研究について、大きな基礎を作られた狩野直喜氏(一八六六~一九四七)は、その教えを受けた倉石武四郎(一八九七~」に、かつて「自分たちが訓読するのは、そういう習慣になっていたから、いちおう訓読するだけで、実は、原文を直読しているのである」と語られたという。
(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、385頁)
従って、
(18)(19)により、
(20)
狩野直喜氏(一八六六~一九四七)であれば、あるいは、
② 是以大學始敎必使學者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
という「漢文」であっても、「訓読」としての「直読」が、可能であったと、思はれる。
然るに、
(21)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。しかし、訓読は、国語の語順に置きかえて読むことが、その大きな原則となっている。それでその補足構造によっている文も、返り点によって、国語としての語順が示されている。
(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、296頁)
従って、
(18)(21)により、
(22)
② 是以大學始敎必使學者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極=
② 是以大學始敎必使下學者即二凡天下之物一莫上レ不下因二其已知之理一益々極レ之以求上レ至二乎其極一=
② 是以大學始敎必使〈學者即(凡天下之物)莫{不[因(其已知之理)而益極(之)以求〔至(乎其極)〕]}〉⇒
② 是以大學始敎必〈學者(凡天下之物)即{[(其已知之理)因而益(之)極以〔(乎其極)至〕求]不}莫〉使=
② 是を以て、大學の始敎は、必ず〈學者をして(凡そ天下の物に)即きて{[(其の已に知るの理に)因って、益々(之を)極め、以て〔(其の極に)至るを〕求め]不るを}莫から〉使む=
② そのため、大學の敎へを始める際には、必ず學者をして凡そ天下の物について、その學者がすでに知っているの理に依って、益々、天下の物を極め、それによって、その極点に至ることを求めないことが、無いやうにさせる。
に於ける、
②〈 ( ) { [ ( )( )〔 ( ) 〕 ] } 〉
といふ「括弧」は、
② 是以大學始敎必使學者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
といふ「漢文」の「補足構造」を表してゐる、と同時に、「訓読」に於ける、
② 下 二 一 上レ 下 二 一 レ レ 二 一
といふ「返り点」に、「相当」する。
従って、
(14)(22)により、
(23)
例へば、「京都大学の漢文の先生」に、
② 是以大學始敎必使學者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
といふ「漢文の補足構造」を「質問」した「結果」として、
② 是以大學始敎必使〈學者即(凡天下之物)莫{不[因(其已知之理)而益極(之)以求〔至(乎其極)〕]}〉。
といふ「補足構造」を、得ることが、出来たのであれば、そのまま直ぐに、
② 是を以て、大學の始敎は、必ず〈學者をして(凡そ天下の物に)即きて{[(其の已に知るの理に)因って、益々(之を)極め、以て〔(其の極に)至るを〕求め]不るを}莫から〉使む。
といふ、「訓読の語順」を、得ることになる。
然るに、
(24)
文系国語
第一問は評論、随筆、第二問は、従来は文語文が出題されていたが、近年では小説や随筆が出題される事が多い(ただし、やや文語的なものが出題される)。第三問は古典である。主に古文が出題される。各大問とも配点はそれぞれ50点である。
(京大対策/国語 - Wikibooks - ウィキブックス)
従って、
(24)により、
(25)
どうやら、「京都大学」の場合は、「文系の入試」でさえも、「漢文の出題」が無いことになる。
加へて、
(26)
大学では、これまでなじみのある訓読という方法によらず、現代中国語の知識を前提として、中国語の音によってそのまま読んでいきます。音そのもののひびきの美しさを体得できるよう、古典・現代のいずれに関心がある場合でも、入学後は現代中国語を充分に習得してください。
(京都大学、文学部受験生向けメッセージ)
然るに、
(27)
「大学に入っても、一般に中国文学科では訓読法を指導しない。漢文つまり古典中国語も現代中国語で発音してしまうのが通例で、訓読法なぞ時代遅れの古臭い方法だと蔑む雰囲気さえ濃厚だという。
(古田島洋介、日本近代史を学ぶための、文語文入門、2013年、はじめに ⅳ)
従って、
(23)~(27)により、
(28)
例へば、「京都大学の漢文の先生」に、
② 是以大學始敎必使學者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
といふ「漢文の補足構造」を「質問」することまでは、「良い」としても、
② 是を以て、大學の始敎は、必ず〈學者をして(凡そ天下の物に)即きて{[(其の已に知るの理に)因って、益々(之を)極め、以て〔(其の極に)至るを〕求め]不るを}莫から〉使む。
といふ「訓読」が、「正しいのか、間違ひであるのか」といふことを、「質問」しては、ならない。
然るに、
(29)
博士課程後期に六年間在学して訓読が達者になった中国の某君があるとき言った。「自分たちは古典を中国音で音読することができる。しかし、往々にして自ら欺くことがあり、助詞などいいかげんに飛ばして読むことがある。しかし日本式の訓読では、「欲」「将」「当」「謂」などの字が、どこまで管到して(かかって)いるか、どの字から上に返って読むか、一字もいいかげんにできず正確に読まなければならない」と、訓読が一字もいやしくしないことに感心していた。これによれば倉石武四郎氏が、訓読は助詞の類を正確に読まないと非難していたが、それは誤りで、訓読こそ中国音で音読するよりも正確な読み方なのである。
(原田種成、私の漢文 講義、1995年、27頁)
従って、
(28)(29)により、
(30)
② 是以大學始敎必使學者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極。
といふ「漢文」を、ある人が、
② Shì yǐ dàxué shǐ jiào bì shǐ xuézhě jí fán tiānxià zhī wù mòbù yīn qí yǐ zhīzhī lǐ ér yì jí zhī yǐ qiú zhì hū qí jí.
といふ風に、読めるからと言って、その人が、
② 是以大學始敎必使〈學者即(凡天下之物)莫{不[因(其已知之理)而益極(之)以求〔至(乎其極)〕]}〉。
といふ「補足構造」を、「把握」してゐるとは、限らない。
然るに、
(31)
然るに、
大学(京都帝国大学)に入った二年目(昭和5年)の秋、倉石武四郎先生が中国の留学から帰られ、授業を開始されたことは、私だけではなく、当時の在学生に一大衝撃を与えた。先生は従来の漢文訓読を全くすてて、漢籍を読むのにまず中国語の現代の発音に従って音読し、それをただちに口語に訳することにすると宣言されたのである。この説はすぐさま教室で実行された。私どもは魯迅の小説集『吶喊』と江永の『音学弁徴』を教わった。これは破天荒のことであって、教室で中国の現代小説を読むことも、京都大学では最初であり、全国のほかの大学でもまだなかったろうと思われる。
(『心の履歴』、「小川環樹著作集 第五巻」、筑摩書房、176頁)
従って、
(24)~(31)により、
(32)
大学(京都帝国大学)に入った二年め(昭和5年)の秋から、
① 是以大學始敎必使學者即凡天下之物莫不因其已知之理而益極之以求至乎其極=
① 是以大學始敎必使下 學者即二 凡天下之物一莫上レ 不下 因二 其已知之理一益々極レ 之以求上レ 至二 乎其極一=
① 是以大學始敎必使〈學者即(凡天下之物)莫{不[因(其已知之理)而益極(之)以求〔至(乎其極)〕]}〉⇒
① 是以大學始敎必〈學者(凡天下之物)即{[(其已知之理)因而益(之)極以〔(乎其極)至〕求]不}莫〉使=
① 是を以て、大學の始敎は、必ず〈學者をして(凡そ天下の物に)即きて{[(其の已の知るの理に)因って、益々(之を)極め、以て〔(其の極に)至るを〕求め]不るを}莫から〉使む。
① そのため、大學の敎へを始める際には、必ず學者をして凡そ天下の物について、その學者がすでに知っているの理に依って、益々、天下の物を極め、それによって、その極点に至ることを求めないことが、無いやうにさせる。
といふ「読み方」は、「京都大学」に於いて、「排斥」されて来た。といふことになる。
(33)
その「結果」として、「京都大学の漢文」先生が、「他の大学の漢文」の先生よりも、「漢文の読み書き」に於いて、優秀なのか、否か。
といふことについては、部外者の私には、全く、分からない。
(34)
中國以北京語為國語矣。然若北京語非漢文也。是以中國語直読法雖盛中華人民共和國語不可以書中夏之書審矣。
如日本之学生有欲能読漢文者則宜以括弧学其管到。古漢文之於日本語猶古文之於日本語也。故漢文亦日本語也。
学中國語莫若音読、学漢文莫若以訓読学之。