大倉草紙

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【京都】 大覚寺

2008年07月28日 18時58分44秒 | 旅 - 京都府
6月21日(土)
当日の行程:(阪急電鉄・嵐山駅)…(自転車) → 【清涼寺】【大覚寺】【直指庵】【仏野念仏寺】【祇王寺】【滝口寺】【二尊院】【落柿舎】【常寂光寺】【野宮神社】【天龍寺】



大覚寺の前身は嵯峨天皇の離宮である。
876年に、お寺に改められ、嵯峨天皇の孫にあたる常寂法親王が初代門跡に就いた。
このお寺の正式名称は、「旧嵯峨御所大覚寺門跡」という。
南北朝時代には南朝(大覚寺統)の御所であり、南北朝の媾和会議もここで開かれたそうだ。


   
                   表門

   
                  明智門

          
                 明智陣屋

参拝者は表門から入る。
表門の隣には明智門があり、これは元亀山城の明智光秀の城門を明治4年に移築したもの。
明智門の奥には、明智陣屋と呼ばれる建物がある。
これも明智門と同じく、亀山城から移された。
現在は、入口に、「真言宗大覚寺派宗務庁」と書かれた板が掲げられている。


   
                  式台玄関

   
           式台玄関の障壁画「松に山鳥図」

式台玄関は江戸時代に御所より移築された。
式台玄関を入ったところに「松の間」があるが、参拝者は通常、式台玄関からではなく、「松の間」の横の参拝者受付から入る。
「松の間」の障壁画は、狩野永徳筆「松に山鳥図」。
写真にあるものは複製である。
※以下、大覚寺の国宝、重要文化財の障壁画や装飾画は、すべて複製である。オリジナルは収蔵庫に収められている。


   
     宸殿・牡丹の間の襖絵「牡丹図」(重要文化財)※複製

          
    宸殿・紅梅の間の襖絵「紅白梅図」(重要文化財)※複製

   
    宸殿前の左近の梅            宸殿前の右近の橘

宸殿(重要文化財)は、江戸時代、後水尾天皇より下賜された建物。
皇后東福門院和子(徳川秀忠の娘)が、宸殿として使用していたもの。
5つの部屋から成り、牡丹の間は格式が高いとされる。
牡丹の間の襖絵「牡丹図」、紅梅の間の襖絵「紅白梅図」は、どちらも桃山時代、狩野山楽による。
廊下と広縁はすべてうぐいす張り。
宸殿の正面には、「右近の橘」と「左近の梅」がある。


   
               御影堂(心経前殿)

          
                  勅使門

御影堂(心経前殿)は、大正天皇即位式場に建てられた饗宴殿を移築したもの。
内陣左右に嵯峨天皇、秘鍵大師(弘法大師)、後宇多法皇、恒寂入道親王の尊像を安置しているという。
参拝したときには「御影供法会」が行われていたので、安置された像を拝むことはできなかった。
この「御影供法会」は、弘法大師が承和2年3月21日に高野山に入定された日を期して、毎月21日に執り行われるそうだ。

御影堂から庭を望むと、正面に勅使門がある。
これは、嘉永年間(1848~54)に再建されたもの。


   
                五大堂(本堂)

   
                 大沢池

五大堂は、江戸時代中期に建てられた。
不動明王を中心とする五大明王を安置している。
東側は大沢池に面していて、池を一望できる広いぬれ縁がある。
ぬれ縁は、滑りやすいのが難点。

大沢池は、庭湖とも呼ばれる。
日本最初の庭池で、最も古い庭園といわれている。
「名月や 池をめぐりて 夜もすがら」という芭蕉の句は、大沢池の月を詠んだものだという。


          
             勅封心経殿(心経殿)

勅封心経殿は、大正14年、後宇多法皇600年、後亀山天皇500年の御遠忌記念事業として建てられた。
法隆寺の夢殿を模した建造物。
殿内に入ることはできないが、中には、薬師如来立像を安置し、嵯峨天皇をはじめ六天皇の写経が奉祀されているそうだ。


   
              正寝殿(重要文化財)

   
      正寝殿の腰障子「野兎図」(重要文化財)※複製

          
             上段の間(「御冠の間」)

正寝殿は、12の部屋から成る。
そのうちの一室にある「野兎図」と題される腰障子は、渡辺始興によるもの。

上段の間は後宇多法皇が院政を執った部屋。
執務のときに冠を傍らに置いたことから、「御冠の間」と呼ばれている。
南朝の後亀山天皇と北朝の後小松天皇による媾和は、この部屋で成立したと書かれた案内板を読み、興奮を覚えた。


          
               大覚寺の御朱印