大倉草紙

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【京都】 六波羅蜜寺

2008年07月15日 08時22分48秒 | 旅 - 京都府
6月15日(日)
当日の行程:(JR京都駅)…(JRバス・京都~山城高雄) → 【神護寺】【西明寺】【高山寺】 → (JRバス・栂ノ尾~四条大宮)…(自転車) → 【六波羅蜜寺】【知恩院】【南禅寺】 → 【金地院】【幕末維新ミュージアム「霊山歴史館」】【京都霊山護國神社】


   
               本堂(重要文化財)

   
                  弁天堂

六波羅蜜寺は、民家の建ち並ぶ細い通りに面している。
市民の中で伝道に励み、「市の聖(いちのひじり)」と呼ばれていた空也上人に相応しい。

空也上人は、京都で流行していた悪病退散のため、十一面観音像を刻んだ。
そして、その観音像を車に安置して市中を曵き回り、病者に茶を授け、念仏を唱えることで病魔を鎮めたといわれる。
病者に授けた茶は、青竹を八葉の蓮片のように割り、中へ小梅干と結昆布を入れて仏前に献じたもので、現在も「皇服茶」として伝わっている。
963年、空也上人は大規模な大般若経供養会を行い、これが六波羅蜜寺(当時は「西光寺」)の始まりだそうだ。
「六波羅蜜寺」と改称されたのは、空也の死後、977年に中信が中興して以来。
その名前は、大乗仏教の「六波羅蜜」に由来するとも、昔からこのあたりを「六原」呼ぶことに由来するともいわれる。
「六原」という名は今でも残っていて、六波羅蜜寺のすぐ隣にある小学校の名前は「六原小学校」。
この小学校は、六波羅探題の跡地に建てられたものだという。


六波羅蜜寺には、仰々しい山門はない。
とても小さなお寺だ。
それもまた空也上人らしいのではと思ったが、廃仏毀釈を受けるまでは、大伽藍を連ねていたらしい。
本堂の前の門は閉ざされており、この場所より少し南側にある弁天堂の前から境内へ入る。

本堂は、1363年に建てられ、1969年に開創1000年を記念して解体修理したもの。
本尊は空也上人が刻んだ十一面観音像(国宝)である。
12年に一度、辰年の年にだけ開扉される秘仏。


   
       阿古屋塚               平清盛公乃塚

阿古屋塚は、弁天堂と本堂の間に建っている。
これは、阿古屋の菩提を弔うために鎌倉時代に建てられたもの。
阿古屋は、五條坂に住む白拍子で、平景清の想い人とされる。
浄瑠璃・壇ノ浦兜軍記の「阿古屋の琴責め」では、次のような場面があるそうだ。
平家の残党である景清の行方を探すため、代官畠山重忠は阿古屋捕え、三味線や琴を弾かせる。
阿古屋は景清の所在を知っていたが、三味線や琴の調べには一点の乱れもなく、そのことに感動した畠山重忠は、阿古屋を釈放したという。

阿古屋塚の隣には、平清盛公乃塚がある。
平安後期、平忠盛は六波羅蜜寺内の塔頭に軍勢を留め、清盛・重盛の時代には、5,200余りもの平家一門の館が建てられていたという。
それらは、平家没落時に兵火を受け、残っていない。


宝物館で、あの、空也上人立像(重要文化財)を拝む。
この像に、ずっと会いたかった。
空也上人立像は、鎌倉時代、運慶の四男康勝の作。
胸には金鼓、右手には撞木、、左手には鹿の杖、膝を露にして草鞋を履き、念仏を唱える口からは六体の阿弥陀が現れたという伝承の通りに刻まれた像。
117㎝と、実際の空也よりは小さいのだろうけど、実に生々しく、今にでも、こちらへ一歩近づいてくるような感じがする。

空也上人立像の隣に安置されている地蔵菩薩立像(重要文化財)も印象に残っている。
こちらは、定朝の作。
元六波羅地蔵堂の本尊で、左手に頭髪を持っているので、「鬘掛地蔵」ともいわれるそうだ。
鬘掛地蔵の前には、たくさんの頭髪が納められていた。
この像には、次のような言い伝えがあるそうだ。
母親に先立たれた女のもとに一人の僧が現れ、母親の遺骸を葬ってくれた。
その後、女が六波羅蜜寺に詣でと、地蔵菩薩の左手に母の鬘が掛けてあったので、地蔵菩薩が母親を葬ってくれたのだと知ったという。
鬘掛地蔵の前の頭髪は、いったいどういう方が納めるのだろう。
亡くなった方の成仏を願い、納めるのだろうか。

そのほかには、平清盛坐像(重要文化財)や、境内の十輪院が運慶一族の菩提寺だったことから、運慶坐像(重要文化財)、湛慶坐像(重要文化財)もある。


   
             六波羅蜜寺のてぬぐい


   
   六波羅蜜寺のてぬぐい         六波羅蜜寺の御朱印