大倉草紙

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【京都】 大原④ (勝林院)

2008年07月04日 07時45分02秒 | 旅 - 京都府
6月14日(土)
当日の行程:(京阪・出町柳駅) → (京都バス・出町柳駅前~大原) → 【三千院】【来迎院】 → 【音無の滝】【実光院】【勝林院】【宝泉院】【寂光院】 → (京都バス・大原~御陰橋) → 【下鴨神社】 → (京都市バス・一本松~上賀茂神社前) → 【上賀茂神社】




   
        後鳥羽天皇大原陵・順徳天皇大原陵

   
                  法華堂

勝林院への道すがら、後鳥羽天皇大原陵・順徳天皇大原陵を見つけた。
鍵がかかっていて中には入れなかった。

承久の乱に敗れ、後鳥羽上皇は隠岐へ、順徳上皇は佐渡へと流された。
後鳥羽上皇も順徳上皇も流刑地で死去し、その遺骨は大原の地に運ばれて埋葬されたという。
遺骨を埋葬した御堂が、現在、大原陵の北隣にある法華堂である。

法華堂が建立されたのは1241年であるが、1736年には勝林院とともに焼失、現在の建物は1778年に再建された。
明治時代になると、後鳥羽天皇大原陵・順徳天皇大原陵が造られ、法華堂にあった遺骨は陵墓へ移されたそうだ。


勝林院は、天台宗の寺院。
来迎院と並んで「魚山流声明(ぎょさんしょうみょう)」の中心地。

宮崎と東京に店舗がある宮崎料理店の「魚山亭」は、魚山流声明と何かかかわりがあるのだろうか、
ぼんやりとそんなことを思いながら歩く。
あとで調べたら、「魚山亭(ぎょっさんてい)」の「ぎょっさん」は、宮崎弁で「たくさん(ぎょうさん)」という意味なのだそうな。

話が脇に逸れた。
勝林院に話を戻す。
ここは、天台宗の顕真法師が、浄土宗の宗祖である法然を招いて、「大原問答(念仏により極楽往生ができるかどうかの問答)」を行った場所として知られている。


          
                 鉈捨藪跡

勝林院へ向かう途中の川のほとりに「鉈捨藪跡」がある。
ここは、大原勝林院での法然上人の大原問答の折に、その弟子熊谷直実が「師の法然上人が議論にもし敗れたならば法敵を討たん」と袖に鉈を隠し持っていたが、上人に諭されて鉈を藪に捨てた場所であると伝えられる。
しかし、史実としては、時代にずれがあるそうだ。


   
               法然上人腰掛石

勝林院と宝泉院の間に、「法然上人腰掛石」も残っている。


   
                  本堂

参拝の受付の張紙には、次のように書いてあった。
 「当、勝林院は、宝泉院
  実光院のご本尊であります
  先ずは本尊をご参拝下さい。
  見どころ
  ・美男のあみださん
  ・すべてけや木づくり
  ・らんまなどの彫刻」


          
            本尊阿弥陀如来

本堂に安置されている「美男のあみださん」はこちら。
大原問答のとき、阿弥陀如来の手から大光明が放たれ、法然の教えが正しいことを示したということから、この阿弥陀如来は「証拠の阿弥陀」とも呼ばれる。
また、「証拠の阿弥陀堂」を祀る本堂を「証拠堂」とも呼ぶそうだ。


   
                 本堂の欄間

   
                本堂の庇の彫刻

欅造の本堂の欄間や庇の彫刻は、塗りが施されていなかったが、そのことで、かえって美しさが引き立っていた。


  
      本堂の擬宝珠           鐘楼(重要文化財)

本堂の擬宝珠には、本堂の由来が刻まれている。
春日の局の願によって建立された本堂が落雷によって焼失し、その後、7年かけて総欅造の本堂が完成したということだ。

梵鐘は、藤原時代のもので、創建当時からあるものだという。


          
               勝林寺の御朱印