大倉草紙

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【京都】 落柿舎

2008年08月06日 12時21分23秒 | 旅 - 京都府
6月21日(土)
当日の行程:(阪急電鉄・嵐山駅)…(自転車) → 【清涼寺】【大覚寺】【直指庵】【仏野念仏寺】【祗王寺】【滝口寺】【二尊院】【落柿舎】【常寂光寺】【野宮神社】【天龍寺】



          
               向井去来の墓

二尊院から落柿舎へ向かう途中、落柿舎の北にあたるだろうか、弘源寺の墓地に向井去来のお墓がある。
「去来」と刻まれた小振りの石があるだけで、目立たない。
「去来墓」の立札がなければ、探すのに難儀しただろう。


   
                  西行井戸

   
                 西行の句碑

弘源寺の墓地の外にある西行井戸。
西行庵の跡だとか。

西行井戸の脇には、句碑が建っている。
「牡鹿なく小倉の山のすそ近みただ独りすむわが心かな」


          
          嵯峨天皇皇女有智子内親王墓

落柿舎のすぐ隣には、嵯峨天皇皇女有智子内親王墓がある。
有智子内親王は、初代の斎王。
斎王とは、賀茂社に奉仕する未婚の皇女または王女のことであり、斎王が身を清めて常住する場所を斎院という。
薬子の変のとき、嵯峨天皇が、自分の方に利があれば賀茂大社に皇女を捧げると誓い、その約束通り、娘の有智子内親王を斎王としたのが賀茂斎院の始まりだといわれる。
有智子内親王は、漢詩人としても知られていて、その才能を讃えた昭憲皇太后の歌碑が落柿舎に建っている。


   
      落柿舎の入口               柿の古木

落柿舎の門からは、蓑と笠がかかっているのが見える。
蓑と笠がかかっていたら在宅、かかってなければ不在を示すらしい。

庭には、柿の古木があった。
都から来た商人に庭の柿の実を売る約束をした晩に、柿がすべて落ちてしまったことから、落柿舎と呼ぶようになったとか。
この話は、向井去来の『落柿舎記』にある。


   
      本庵の玄関        「落柿舎」の額がかかった本庵の部屋

   
                 本庵の土間

   
                 落柿舎制札  

   
                   次庵

落柿舎は、向井去来の草庵であり、建物は、門を入ってすぐに建っている本庵と、その西側、少し奥まったところに建っている次庵の二棟ある。
去来の師である松尾芭蕉は、落柿舎を三度訪れ、元禄4年(1691)には、ここで『嵯峨日記』を書いている。

本庵は、2畳の玄関と、その北側にある2畳の部屋、玄関の東側にある土間と、土間の北側にある2畳の部屋、玄関の西側にある4畳半の部屋と、その北側にある3畳の部屋から成る。

本庵の4畳半の部屋には、「落柿舎制札」がかかっている。

  落柿舎制札

一、我家の俳諧に遊ぶべし
  世の理窟を謂ふべからず
一、雑魚寝には心得あるべし
  大鼾をかくべからず
一、朝夕かたく精進を思ふべし
  魚鳥を忌むにはあらず
一、速に灰吹を棄つべし
  煙草を嫌ふにはあらず
一、隣の据膳をまつべし
  火の用心にはあらず

 右條々
 俳諧奉行 向井去来

「落柿舎制札」に関しては、落柿舎の俳席で、芭蕉が作ったのだとも、その10年前に去来が元案を作ったのだともいわれている。


   
       芭蕉の木                  投句箱

そういえば、落柿舎のそばに、芭蕉の木が植えてあった。
「芭蕉」という俳号は、門人である李下が贈った芭蕉に因んでいる。

庭には投句箱が置かれていて、選ばれた句は、財団法人落柿舎保存会が年に4回発行している季刊誌「落柿舎」に掲載される。


庭には、句碑が並ぶ。

   
               松尾芭蕉の句碑
           「五月雨や色紙へぎたる壁の跡」

   
     向井去来の句碑            高浜虚子の句碑
 「柿主や梢はちかきあらし山」 「凡そ天下に去来ほどの小さき墓に詣りけり」

   
    昭憲皇太后の句碑             平澤興の句碑
「加茂川のはやせの波のうちこえし    「春の雨天地ここに俳人塔」
 ことばのしらべ世にひびきけり」

   
    保田與重郎の句碑            工藤芝蘭子の句碑
「何もない庭の日ざしや冬来る」      「十三畳半の落柿舎冬支度」

   
    山鹿栢年の句碑             落柿舎のてぬぐい
「足あともはづかし庵のわかれ霜」


   
                落柿舎の御朱印