大倉草紙

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【京都】 三尾③ (高山寺)

2008年07月14日 08時59分51秒 | 旅 - 京都府
6月15日(日)
当日の行程:(JR京都駅)…(JRバス・京都~山城高雄) → 【神護寺】【西明寺】【高山寺】 → (JRバス・栂ノ尾~四条大宮)…(自転車) → 【六波羅蜜寺】【知恩院】【南禅寺】 → 【金地院】【幕末維新ミュージアム「霊山歴史館」】【京都霊山護國神社】


【高山寺】(世界遺産)

西明寺から歩いて高山寺へ。


  
        寺標                金堂へ続く石段

表参道の入口には、寺標が建っている。
まっすぐ進むと、金堂へ続く石段だ。
ここを登らずに、右に折れて山門のほうへ行く。


          
                  山門

山門の奥には、石水院(国宝)がある。
山門の内側は、工事中のバリケードと足場だらけ。
石水院へ入ることはできるけれど、シートで覆われていて外観は分からない。
石水院は、明恵上人が後鳥羽院から賜った建物。
明恵上人の時代の唯一の遺構である。
建築当初は、金堂の東側に位置していたものを、明治22年に現在の場所へ移築したそうだ。


   
               財善童子の木像

入口で参拝の手続きを終えて、石水院の奥へ入ると、財善童子の木像が迎えてくれる。
ここから、西側の庭を見てみたかったのだが、工事のシートに覆われていて見えない。
シートのせいか、堂内はとても暗い。


          
          明恵上人樹上坐禅像(複製)

石水院の南に面した部屋の床の間には、明恵上人樹上坐禅像(複製)が掛けられている。
オリジナルの明恵上人樹上坐禅像(国宝)は、京都国立博物館に寄託。
明恵は、楞伽山(りょうがせん)と名付けた高山寺の裏山で、日々座禅をしていたという。
明恵上人樹上坐禅像では、縄床樹(じょうしょうじゅ)と名付けた松に坐る明恵上人を描いたものだといわれる。


   
    仏眼仏母像(複製)         木像狗児(重要文化財)

仏眼仏母像は、仏の眼力を人格化した密教の尊格。
明恵上人は、仏道修行の意志堅固であることの証として、この像の前で右耳を切ったといわれる。

木像狗児は、運慶作と伝わるもの。
明恵上人が可愛がっていた犬だといわれる。


   

   
           鳥獣人物戯画の一部(複製)

鳥羽僧正作といわれる鳥獣人物戯画は、見ていて飽きない。
オリジナル(国宝)は、甲・丙巻が東京国立博物館、乙・丁巻が京都国立博物館に寄託されている。


          
               石水院南の縁側

石水院の南側は、工事のシートは外されていたが、足場がじゃまして景色がよく見えなかった。
残念だ。
紅葉の秋までには、工事を終えるのだろう。


   
                  開山堂

石水院を出て、山の上のほうへ登っていくと、開山堂がある。
かつてここには、禅堂院があり、そこで明恵上人は禅修行に励んでいたという。
禅堂院が焼失した後、1723年に開山堂が再建されたそうだ。
堂内には、明恵上人坐像(重要文化財)が安置されているそうだが、扉が閉ざされているため、拝むことはできなかった。
明恵上人坐像は、右耳を切った姿のようだ。


   
                 明恵上人御廟

開山堂から少し登ったところに、明恵上人御廟がある。
中には、次のような明恵上人が詠んだ歌を刻んだ碑があった。
「山のはに われも入りなむ 月も入れ 夜な夜なごとに また友とせむ」


  
                   仏足石

御廟と金堂の間には、仏足石があった。


          
                旧石水院跡

仏足石の北側、山の奥のほうに、旧石水院跡がある。
石段が残っているだけで、その先は柵があって入ることはできない。
前述のとおり、現在の場所へは明治22年に移されたそうだ。


   
                   金堂

本尊は釈迦如来坐像。
室町時代に焼失した後、1634年に仁和寺の御堂を移したものだという。
人の気配がなく、とても静かだ。


   
                高山寺のてぬぐい


          
               高山寺の御朱印