カリグラフィー

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水泳、好きな事、好きなもの、こもれび山崎温水プールについて

選択

2009-10-03 04:25:23 | いろいろ

あんなにも悩みに悩んで、私たちは告知を選んだ。

私の心が決まったのは、
「もしあなたっだったら、どうされたい?
お姉さんだったらどうして欲しいと言ってる?」
と言う質問だった。

それから、私より母と一緒にいる時間が短かった姉のこと。
告知をすれば、母に不審に思われるなどと気にせず、
会いたいときに会いに来れるからだ。

姉も、私たちのことを考え最終的に告知を選択した。
一緒に住んでいて、うそを突き通さなければならない
辛さを心配してくれた。

主治医には、末期であることと
転移のことは告げずに、
なるべくソフトに伝えて欲しいとお願いした。

「結果を知りたいですか?」
と言う主治医の問いに、
「がんでしょ」
と言った母。

主治医はがんという言葉は使わなかった。
結果は良くなかったが、今は自宅でも治療ができること。
自己免疫力の話をした。

私たちも、がんという言葉を母の前では口に出さなかった。

むくみも取れ、食欲も出てきて、力がついてきたと母は思っていた。
自信をつけたいと、一人で大船まで買い物に出かけたこともあった。

もしかしたら、気付いていないかも?
本当に何の病気かわからないと思っているのかも?

母が訴えていたのは、胸の苦しさだったり
盲腸の手術の古傷だったりした。

数ヵ月後、市から郵送された健康診断の通知を主治医に見せ、
受診すべきかどうかきいてみると言い出した。

今更、がんと言うには遅すぎる。
あの頃ならともかく、体力も落ち
立ち直るには時間が少なすぎる。
私たちは、今更本当のことは言えないと思った。

思いとは裏腹に、ちっとも回復していかない体。

母は、「先生は何の病気か聞いても教えてくれない。
でも、私はがんだと思う。
子供たちは、言わないけど本当のことを知っていると思う」
と、新潟からかかってきた電話で伯母と話していた。

何も聞かない母。
何も言わない私たち。

再び、私たちは選択を迫られた。

主治医から蘇生をどうするか考えておくよう
言われていた。

私は、即答できず「姉とも相談してみます」
と言った。

姉にこの話をしたのは、エアコンのついている車の中だった。
姉は、「まだ、そんな話し早い」と怒っていた。

毎日母と一緒にいる私は、悲しいくらい
母のちょっとした変化に気付いていた。

訪問診療に切り替え、主治医が家に来る朝
夫が電話で「おそらく、今日また蘇生の話を切り出してくると思う。
あれだけ話し合っても結論がでないってことは、
やるだけやってもらうと答えるしかない。」と言った。

実は、私の心は決まっていた。
蘇生はしない。

案の定、往診に来た主治医は蘇生の話を始めた。
姉とは相談していなかったが、その問いに
「私の心は昨日決まりました。
蘇生はしない。」
と、はっきり告げた。
「私もそう思います。」
姉は泣きながら答えた。

主治医は「よく決断しましたね。」
と言った。


化粧

2009-10-03 03:54:31 | いろいろ

ひとつずつ、色々なことが変わっていった。

母が、テレビを見なくなった。

私が子供の頃から、母はよくテレビで洋画をみていた。
クリント・イーストウッドをみた時、将来必ず売れる
と思ったそうだ。

だんだん、字幕の洋画を見なくなり、
テレビがついていても、寝ていることが多くなった。
そのうち、気に入った番組の時だけテレビをつけていたが、
それもなくなった。

そして、あんなに明るく、冗談も必ず言ってた母が
笑わなくなった。

私が、魔法の力と思っていたものも、
効かなくなっていた。

新潟に住む母の姉との電話、
姉や孫の訪問。
私の手作りパン。
まわりの皆が、母のためにと下さったもの。

いろいろ考え、思いついた。
朝になると、私は蒸しタオルを母に渡し、
手鏡を持たせ化粧水、乳液を差し出した。

すると、母の症状は途端にシャッキッとし、
鏡を見ながら丁寧に1本ずつしわに染込むように
化粧水を塗りはじめるのだ。

母が動けなくなってしまい、この日課は中断してしまった。









涙の薬

2009-10-01 20:30:14 | いろいろ

母は、だんだん全身に力が入らなくなっていた。
元気な頃は、75歳になっても私なんかより歩くのも早く、
階段を上り下りする音も、我が家では一番きれいな
タタタタタッという足音だった。

それが、だんだん足音さえたたぬほど
ゆっくりそろそろ歩きになっていた。

そして、徐々に自分では起立できなくなり
介助が必要になった。

ある日、夜中にトイレに行った母が、
立ち上がれなくなってしまった。

翌日、私は母を説得し、介助ベットを手配し、
訪問看護を依頼。
診察も、訪問診療に切り替えた。

怖くて見て見ぬふりをしたかった母の足が、
また象のようにむくみだしたことは気付いていた。

母が、自分の体の異変に気付いたのも
足のむくみだった。

本当は、何も治療ができないので退院させたのだが、
それでも母の足のむくみはなくなり、とても元気になった頃があった。

むくみのとれた自分の足を見て、
「力もついてきたし、だんだん良くなってきている」
と言っていた母。

しかし、自分の体が回復していかないことと、
照らし合わせるようにむくんだ足を黙ってみていた。

私は、ベットに寝たまま自分では動けなくなってしまった母の
後ろで、声だけを殺し泣いていた。

床にぽとりと落ちた涙が、
薬になることを祈った。

そして涙をぬぐった手で、母の足にふれ眠りについた。

翌日・・・
「昨日より、足のむくみが良くなっているみたい」
と訪問看護に来てくれた看護士さんは言った。