「ハレルヤ」という言葉は、「アーメン」とともに、世界中どこへ行ってもそのまま使われる言葉なのだそうだ。日本へ行っても韓国へいっても、現地の言葉に翻訳されるのではなく、多少の発音やイントネーションの違いはあるもののヘブライ語のまま(アラム語ではない。)使われている。
そのハレルヤの意味だが、これは「神をほめたたえよ」とか「主をほめたたえよ」の意味であると説明される。語源として、「ハーレール」が「たたえよ」で、「ヤ」が「神、主」であるという説明だ。
父なる神に対してはもちろんのこと、キリスト教ではイエス・キリストは神であるとしているので、キリストに対してもハレルヤというし、聖霊に対してもハレルヤと言う。
がしかし、ハレルヤの「ヤ」は、父なる神の名ヤハウェ(あるいはヤーウェ)の短縮形だ。いわゆる聖四文字(テトラグラマトン:英字アルファベットのYHWHに相当)の正確な読み方は完全には解明されていないが、先頭が「ヤ」であるらしいことは、聖書の人名からも分かる。たとえば預言者エリヤは「エル(神)」+「YHWH」で、「ヤハウェこそ神」という意味の名前だ。
何が言いたいかというと、ハレルヤは「神をほめたたえよ」ではなく「ヤハウェをほめたたえよ」という意味だということだ。「神をほめたたえよ」なら「ハレルエル」になってしまうだろう(ヘブライ語の単語として正しいかはわからないが)
三位一体というのは「唯一である神は同時に、ヤハウェとキリストと聖霊である」ということだ。
「キリストが神である」とは、「キリストは、ヤハウェがエルであるのとまったく同じ意味でキリストもエルである」という意味だろう。
「キリストが主である」とは、「ヤハウェがアドナイ(ヘブライ語で「主」)であるのとまったく同じ意味で、キリストもキュリオス(ギリシャ語で「主」)だ」という意味だろう。
ヤハウェとキリストと聖霊は混同されるものではなく、それぞれが独立した人格(ペルソナ)を持ちながら、しかし唯一の神であるというのが、聖書から導かれる三位一体であるはずだ。
とすれば、主キリストや聖霊を賛美するつもりで「ハレルヤ(ヤハウェをほめたたえよ)」というのはどう考えてもおかしいんじゃないだろうか。
これはキリスト教が、ヤハウェという神名を隠してしまったことからくる誤りだろうと思う。
ユダヤ教では、主の名を「みだりに」口にしてはならないという戒律を厳守し、聖書にYHWHと書いてあるところを読む際には「アドナイ(主)」と読んだという。
「それは極端であって、十戒が禁じたのはあくまでも『みだりに口にすること』だけだ」と、十戒の講解のたびに聞かされはしないだろうか。しかし現在の邦訳聖書は、底本に聖四文字が書かれているところを「主」としている。みずからが「極端だ」とするユダヤ教と同じことをしているのだ。
口語訳以降の邦訳聖書が、文語訳で「エホバ」と「表記」していた聖四文字を「主」と「翻訳」してしまっていることに、坂井は常々不満があった。
主の祈りでも「天にまします我らの父よ、御名があがめられますように」と祈りながら、しかしその御名を口にしないのだ。それであがめていることになるのだろうかと。
現代の邦訳聖書が読者から「父」の「御名」をとりあげていることは、たとえばルツ記2:4を見ればわかる。まず文語訳でみてみよう。
これが新共同訳では次のようになっている。
エホバは誤読であるとされているが、少なくともここで農場主と農夫が普通に神名を口にして挨拶している。祝福を祈る際に神名を口にすることは、絶対に「みだりに」ではないだろう。
キリストによって贖われた者は、地上での父親を呼ぶように、天の父を呼んでいいはずだ。
キリストなどはヤハウェを「アバ」と呼んでいる。「アバ」は父親の愛称であって日本語なら「おとうちゃん」などにあたるという説明を受けるが、これは成人男性が父親を呼ぶときに使うという話しもあり、であれば日本語なら「親父」あたりに相当するだろう(オヤジではない)。
キリストはヤハウェを「親父」と呼んだのだが、キリストによって贖われた者もヤハウェを「親父」と呼んでいいのではないか。それほどの近しさが、贖われた者とヤハウェのあいだには許されているのではないか。
にもかかわらず、「名」で呼ぶことをタブー視し、「主」という称号、あるいは「神」という役職名で呼ばせる(読ませる)というのはどういうことだろうか。
「ヤハウェ」という名を取り上げ「主」「神」と呼ばせているから、ハレルヤも「神/主をたたえよ」になる。で、キリストも神であり主なのだからということで、キリストを賛美するときにもハレルヤと言う。
どう考えてもおかしい。
そのハレルヤの意味だが、これは「神をほめたたえよ」とか「主をほめたたえよ」の意味であると説明される。語源として、「ハーレール」が「たたえよ」で、「ヤ」が「神、主」であるという説明だ。
父なる神に対してはもちろんのこと、キリスト教ではイエス・キリストは神であるとしているので、キリストに対してもハレルヤというし、聖霊に対してもハレルヤと言う。
がしかし、ハレルヤの「ヤ」は、父なる神の名ヤハウェ(あるいはヤーウェ)の短縮形だ。いわゆる聖四文字(テトラグラマトン:英字アルファベットのYHWHに相当)の正確な読み方は完全には解明されていないが、先頭が「ヤ」であるらしいことは、聖書の人名からも分かる。たとえば預言者エリヤは「エル(神)」+「YHWH」で、「ヤハウェこそ神」という意味の名前だ。
何が言いたいかというと、ハレルヤは「神をほめたたえよ」ではなく「ヤハウェをほめたたえよ」という意味だということだ。「神をほめたたえよ」なら「ハレルエル」になってしまうだろう(ヘブライ語の単語として正しいかはわからないが)
三位一体というのは「唯一である神は同時に、ヤハウェとキリストと聖霊である」ということだ。
「キリストが神である」とは、「キリストは、ヤハウェがエルであるのとまったく同じ意味でキリストもエルである」という意味だろう。
「キリストが主である」とは、「ヤハウェがアドナイ(ヘブライ語で「主」)であるのとまったく同じ意味で、キリストもキュリオス(ギリシャ語で「主」)だ」という意味だろう。
ヤハウェとキリストと聖霊は混同されるものではなく、それぞれが独立した人格(ペルソナ)を持ちながら、しかし唯一の神であるというのが、聖書から導かれる三位一体であるはずだ。
とすれば、主キリストや聖霊を賛美するつもりで「ハレルヤ(ヤハウェをほめたたえよ)」というのはどう考えてもおかしいんじゃないだろうか。
これはキリスト教が、ヤハウェという神名を隠してしまったことからくる誤りだろうと思う。
ユダヤ教では、主の名を「みだりに」口にしてはならないという戒律を厳守し、聖書にYHWHと書いてあるところを読む際には「アドナイ(主)」と読んだという。
「それは極端であって、十戒が禁じたのはあくまでも『みだりに口にすること』だけだ」と、十戒の講解のたびに聞かされはしないだろうか。しかし現在の邦訳聖書は、底本に聖四文字が書かれているところを「主」としている。みずからが「極端だ」とするユダヤ教と同じことをしているのだ。
口語訳以降の邦訳聖書が、文語訳で「エホバ」と「表記」していた聖四文字を「主」と「翻訳」してしまっていることに、坂井は常々不満があった。
主の祈りでも「天にまします我らの父よ、御名があがめられますように」と祈りながら、しかしその御名を口にしないのだ。それであがめていることになるのだろうかと。
現代の邦訳聖書が読者から「父」の「御名」をとりあげていることは、たとえばルツ記2:4を見ればわかる。まず文語訳でみてみよう。
時にボアズ、ベテレヘムより来たり、その刈者等(かるものども=農夫)に言ふ。「ねがはくは、エホバ、汝等とともに在せ(いませ)」と。
彼等すなはち答へて「ねがはくは、エホバ、汝を祝み給へ(めぐみたまえ)」という。
(句読点、カギかっこ、改行を補った)
これが新共同訳では次のようになっている。
ボアズがベツレヘムからやって来て、農夫たちに、「主があなたたちと共におられますように」と言うと、彼らも、「主があなたを祝福してくださいますように」と言った。
エホバは誤読であるとされているが、少なくともここで農場主と農夫が普通に神名を口にして挨拶している。祝福を祈る際に神名を口にすることは、絶対に「みだりに」ではないだろう。
キリストによって贖われた者は、地上での父親を呼ぶように、天の父を呼んでいいはずだ。
キリストなどはヤハウェを「アバ」と呼んでいる。「アバ」は父親の愛称であって日本語なら「おとうちゃん」などにあたるという説明を受けるが、これは成人男性が父親を呼ぶときに使うという話しもあり、であれば日本語なら「親父」あたりに相当するだろう(オヤジではない)。
キリストはヤハウェを「親父」と呼んだのだが、キリストによって贖われた者もヤハウェを「親父」と呼んでいいのではないか。それほどの近しさが、贖われた者とヤハウェのあいだには許されているのではないか。
にもかかわらず、「名」で呼ぶことをタブー視し、「主」という称号、あるいは「神」という役職名で呼ばせる(読ませる)というのはどういうことだろうか。
「ヤハウェ」という名を取り上げ「主」「神」と呼ばせているから、ハレルヤも「神/主をたたえよ」になる。で、キリストも神であり主なのだからということで、キリストを賛美するときにもハレルヤと言う。
どう考えてもおかしい。
ありがとうございます!
私も聖書を読んでいるのですが、管理人様の最初のコメントに驚きました。
大変深いものだと感じました。
ヨハネによる福音書 12章 28節 などからしても、父の名がヤハウェじゃないとつじつまが合わないような気がします。
聖書は奥が深いですが、その教えはあやふやなものではないはずなのでこれからも深く勉強していくつもりです。
現改訳聖書、楽しみですね。
返信どうもありがとうございました。
解決というか。
このエントリーを書いたときは、ヤハウェ(やーウェ)は「父の名」だと思っていたわけですけど、今は「三位一体なる方」の名なのではと思うようになっています。
そうなら、御子を賛美して「ハレルヤ」というのはおかしくないですし、ハレルヤと賛美の声を上げることが主の名を呼び求めることになっているわけです(呼び求めるつもりではなく、かもしれませんけど)。
新共同訳などで「主の名」が隠されてしまっていることについては、準備が進められている現改訳聖書では「主」と書いて「ヤーウェ」とルビをふるようです。サンプルがhttp://jesuscom.org/malkoushu2/special_bible/special_bible_02.htmにあります。
この聖書には個人的にいろいろ期待しているところです。
使徒2:21やその他の箇所、主の祈りなどを見ても、名前が大切なことがわかりますよね。
>聖書から神名が消され「主」に置き換えられて>、「主の名を呼び求める」ことが奪われてしま>っているという問題は残ります。
この問題は解決されましたか?
ところで、上の本文は2005年3月のものですが、その後いろいろ考えて、今は私は「『ヤハウェ』というのは『父』の名というよりも『三位一体者』の名なのでは」と考えるようになってきました。もしそうであれば、父はもちろん、キリストに向かっても、聖霊に向かっても「ハレルヤ」と賛美して全然おかしくないし、と。
この考えを、お世話になっている何人かの牧師にぶつけてみたところ、「おそらく、そう(キリストも聖霊も含む三位一体の神の名がヤハウェ)だろう」という牧師と「おそらく、違う(ヤハウェはあくまで第一位格の名)だろう」という牧師と、だいたい半々になってしまいました。
ただいずれにしても、聖書から神名が消され「主」に置き換えられて、「主の名を呼び求める」ことが奪われてしまっているという問題は残ります。
一世紀当時の、ユダヤ人がギリシャ語で書き残した「新約聖書」自体が、allelouia および osanna という、元はヘブライ語の言葉を音訳のみで使っているのですから、本来の『あなたがたはヤハを賛美せよ!』および『救いたまえ!』という意味を離れていたのではないでしょうか?
あるいは、「ハレルヤ」については、本来、ユダヤ人がユダヤ人のために訳した七十人訳の中で、既に音訳しかされていないので、キリスト教発生以前から、(意味は意識されているとしても)感嘆詞的に使われていたのではないでしょうか?