布屋忠次郎日記

布屋忠次郎こと坂井信生の日記

聖書の中の「太陽」

2005-04-04 20:04:08 | 聖書
マタイ5:45に「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」とある。
教会での子供メッセージ奉仕の都合でここを読んでいて、聖書の中で太陽がどのように扱われているかを調べてみようと思った。

新共同訳聖書(続編を除く)の場合、「太陽」は旧約に87回、新約に23回、計110回登場する。
そのほとんどは、太陽そのものの描写だ。一部、エジプトの太陽神についての記述もある。

そんな中で目に付くのは、太陽は、災いをもたらすもの、恐ろしいものとしている箇所だ。

ヨブ8:16「水があれば葦は太陽にも負けず」(つまり水がないと太陽は葦を枯らす)
詩篇121:6「昼、太陽はあなたを撃つことがなく」(でなければ太陽はあなたを撃つ)
イザヤ49:10「太陽も熱風も彼らを打つことはない。」(でなければ太陽と熱風が彼らを打つ)
ヨナ4:8「太陽もヨナの頭上に照りつけたので、」
その他、黙示録1:16、7:16、16:8。


使徒26:13など、太陽を「輝くもの」として比喩的に使っているところも多い。
コヘレト11:7のように、太陽そのものを「喜ばせるもの」としているところもある。
太陽を神との関係で語るところも多い。詩篇19:4,5、同84:11、マラキ4:2など。

しかし、太陽そのものの「作用」ということでは、前述の通り葦を負かそうとしたり、人を撃ったり、照りつけたりというネガティブな文脈が少なくない。
一方で、私が読んだ限りの話しだけど、ポジティブな文脈のものは、2サムエル23:4「太陽の輝き出る朝の光 雲もない朝の光 雨の後、地から若草を萌え出させる陽の光。」という一箇所しか見つからない。

どうも、日本人の持つ太陽のイメージとはかなり異なるようで、太陽について思い込みを持って聖書を読むと、文脈を間違えるのではないだろうか。
2サムエル23:4は確かに、日本人のイメージにあうけど、多数決なら「その他の少数意見」ってところだ。

以前にどこかで聞いたか読んだかしたのだけど、イスラエルでは旅をする時には夜に移動するものだったという。昼間は太陽が「あなたを撃つ」ほどに照りつけてくるからというのだ。たとえば詩篇119:105は、昼間に移動する旅のことを言っているとは思えない。
けれど日本人の感覚では、夜中に旅をするのは「おてんと様の下は歩けない」という事情がある場合だけということになるだろう。

名越二荒之助が著書「新世紀の宝庫・日本」で指摘しているところでは、中東など乾燥した国には国旗に緑色を使うところが多いが、植物の緑があふれるのが彼らの理想だからだろうとのことだ。
そういう国の人には、太陽をシンボライズした日本の国旗に(反日諸国とは違う意味で)不快感を持つケースもあるそうで、それくらい太陽というのは「おびやかす存在」なのだと。
(ちなみに同著は、それに比べれば私たちの国土はなんと恵まれているか、という文脈だ。為念)


こうなると、マタイ5:45はどう読むべきだろうか。
日本人の感覚では、神は悪人(正しくない者)にも善人(正しい者)にも等しく「太陽と雨の恵みを与える」と読んでしまう。
しかし上記を踏まえるならここは、神は悪人にも善人にも等しく「苦難を与える」し、正しい者にも正しくない者にも等しく「恵みを与える」と読むべきということにならないだろうか。
だとすれば、ヨブがいうところの「幸いを受けるのだから不幸も受けよう」というのが、マタイ5:45を読む上での適切ということになるのかもしれない。

ただし、雨についても、イザヤ18:4では「暑い刈り入れ時を脅かす雨雲のように。」という表現はあるのだけど。

(2005-4-8にちょっとUPDATE)

ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が死去

2005-04-04 12:34:56 | 教会
プロテスタントでは「召天」(天に召される)と言いますが、カトリックでは「帰天」(天に帰る)と言うようです。
英語読みすれば「ジョン・ポール・セカンド」、教皇になる前の名前で「カロル・ヨゼフ・ヴォイティワ」さんが、お亡くなりになりました。

ちなみに以前は「法王」とも呼ばれましたが、ヨハネ・パウロ2世の来日(1981)を機に「ローマ教皇」で統一されたそうです。(知らんかった)

私などはカトリックに対しては批判せざるをえない部分もあるし(プロテスタント系に対しても批判せざるをえない部分もあるのだけど。むしろカトリックには敬意を表すべき部分も多い)、進化論を容認するなど首をかしげざるをえないこともあった。「万民祭司」派としてはそもそも教皇という位そのものに対して疑問を持つ。
だけど、「一人の、キリストにある者」として彼を見た場合、やはりその功績の大きさのほうに目をとめたい。

ことに、プロテスタントとのエキュメニカルのみならず、ユダヤ教との対話や、十字軍に関するイスラム教への反省表明などの、キリスト教の「イエスの御心ではないとしか言えない」歴史に対して真摯に取り組み行動してきた足跡、また「空飛ぶ教皇」と呼ばれるほどの精力的な諸国訪問などの実は決して小さくないのだろうと思う。

それ以上に、全カトリック教徒の信仰をささえ、それらを含むすべての人々や国々のためにとりなしを祈ってきた信仰者としてのあり方。

ある個人が救われたかどうか、天国に迎えられたかどうかは、主だけが言及できることで、人の身に過ぎない私などが「誰々は天国に行った」などと言っていいはずはない。
だけど、きっとヨハネ・パウロ2世は、今ごろ天において、主から「よくやった、よい忠実なしもべよ」とのおことばをいただいているだろうと思う。


ところで後継教皇について、投票権を持つ80歳未満の枢機卿(117人)で構成されるコンクラーベと呼ばれる教皇選挙会で互選されるそうだ。
この117人のうち、アジアからは11人、うち日本からは2人。そのうちの1人、濱尾文郎枢機卿は、元の東宮侍従だった濱尾実さんの実の兄弟なのだそうです。
もうひとりは前の東京大司教の白柳誠一枢機卿。

コンクラーベは教皇の帰天後、15~20日以内に、システィーナ礼拝堂で開かれるそうです。