少しずつ日の出時間が早くなってきた。今朝は船の往来が多い。
少し前のことだが、わが購読紙に投稿された「昔話になった五右衛門風呂」を読んで、私にも覚えがあり、懐かしかった。
湯に浮かべた丸底板を足で踏み込みながら、真ん中に座るのが難しかった。四方の釜に当たらないようにゆっくりと腰を落として座るのがコツで、うっかりして板の端を踏もうものなら、板がフワッと浮き上がったり、ひっくり返ったりしてやけどしそうになる。
真ん中でじっと我慢しながら、額に汗がにじむまで湯船に浸かる。湯がぬるくなると大きな声で家族を呼び、下から木切れをくべてもらっていた。
十数年前、東京生まれの娘さんに、五右衛門風呂の話をすると彼女は「見たことも聞いたこともない。熱くて入れそうにもないから高下駄を履いて入るの?」と言うので大笑いした。
読んでいて、当時のことがありありと思い出された。小学校ころ、学校が休みになると私と姉、弟の3人は母の実家へ行くのが当たり前になっていた。
祖父母の家の風呂は鉄製の丸くて小さい五右衛門風呂だった。足で底板を沈めるのだが、子どもは軽いから上手く沈められない。真ん中にうまく沈められるようになるにはだいぶ苦労した。
薪を節約するため、いつも姉と一緒に入っていたが、狭いから体を丸め正座してじっとしていないと、ちょっとでも釜に触れると熱くて飛び上がりそうになる。今のように浴槽にもたれて、手足を伸ばして入れる風呂しか知らない人たちには想像もつかないだろうネ。
叔母はみんながお風呂に入り終えるまで風呂の焚口近くにいて、湯かげんを尋ねながら薪をくべていた。そして仕舞い湯に入って火をおとすのである。翌日はその残り湯でタライと洗濯板を使って手洗いする。
当時、毎日の煮炊きは七輪で、ご飯は「羽釜」におコメと水を入れて「かまど」で炊く。たまに七輪の炭おこしを手伝ったが、これも大変だ。まず外に出した七輪に、丸めた新聞紙と木くずを入れて火を点け、木炭を入れて炭が赤くなるまでまでうちわであおぐ。煮炊きにつかった七輪の残り火は風呂の焚口に移し、薪を入れて火吹き竹を拭きながら火加減を調節する。
電気製品などまったくない時代だから、主婦の仕事は重労働だったろう。が、叔母は私たちに「手伝って」とは一言も言わなかったなあ。叔母は懐が深く心根の優しい人で、「昔のお母さん」そのものだった。
余談だが、昔、大泥棒の石川五右衛門が「釜茹での刑」にされたという有名な話がある。「釜茹での刑」とは罪人を釜に入れて、湯で煮るそうだ。じわりじわり苦痛を与えながら死にいたらしめるというやり方だとか。生きながら熱湯につけられるという苦しみはどんなものか。五右衛門風呂で釜に触れただけでヤケドするのに、でも五右衛門はなかなか死なないいので油をそそいだとか。想像を絶する苦しみだったろう。
最近の五右衛門風呂は鋳物でできているそうで、熱がやわらかく伝わり、まろやかな湯加減が肌にやさしい。湯が冷めにくいという特徴があるとか。信楽焼の五右衛門風呂もあるそうだが、これなら寝そべって入ってもヤケドの心配はなさそうだね。
今では超贅沢風呂で、別荘などでしつらえる人もいるとか・・。孫にも体験させてやりたい一つです。
我が家も普通のお風呂でしたが、地続きの本家は生粋の農家、牛小屋も釣瓶井戸も五右衛門風呂も鶏小屋も!!!揃っていましたから
時々従姉妹たちとふざけながら入浴した経験有り
今時の信楽焼五右衛門風呂様式?
1度味わってからあの世への土産に?感想を教えてあげたいは、勿論石川五右衛門さんに
友だちの家の五右衛門風呂は熱くなかったですか?
祖父母の家の風呂は古い型だったのでしょう、ちょっとでも触れると熱くて熱くて…。
今風の五右衛門風呂はお金持ちの純日本風の家なら合いそうですね。でもどんな豪華なお風呂でも烏の行水の私にはまったく興味なしです。
お体の調子はいかがですか? 早く暖かくなればいいですね。
昔の浴室は照明も暗くて、五右衛門風呂の釜も黒いし、今風の明るくて、ゆったりのんびりという雰囲気はありませんでした。
でも家にお風呂があるというだけでもましでした。両親と住む家には風呂がなくて銭湯に通っていました。番台の人に料金を払って入ります。洗髪は追加料金が必要でした。貧乏だったから色々経験しましたよ。