今年は、戦後80年であると同時に「昭和100年」に当たる。私が生まれたのは昭和16年6月14日、その約半年後の12月8日未明、日本陸軍が英領マレー半島に奇襲上陸。 作戦開始は真珠湾攻撃の1時間以上前だったとか。 同日、日本は各地で軍事行動を開始、太平洋戦争が始まった。
昭和16年の太平洋戦争勃発の時、私は生後半年の乳呑児だ。そして昭和20年の戦争終結時はわずか4才、戦争そのものの記憶はまったくない。父が出征したのが2才の時だから父親の記憶もない。休暇で帰ってきた父を、知らないよそのおじさんだと思って、泣いて近寄らなかったという。
私は銀行員だった父の転勤先である広島県呉市で生まれた。呉市は、戦前において戦艦「大和」を建造した東洋一の軍港、日本一の海軍工廠のまちとして栄えた。そのため呉市は、太平洋戦争末期には複数回にわたりアメリカ軍の空襲を受けた。私たち母娘も戦火を逃れ、岡山市の母の実家へ。だが岡山市も空襲が激しくなり、そのたびに私は母の背に負われて防空壕へ避難したという。
その後、叔父の子どもたちとともに、岡山市から遠く離れた田舎町へ疎開した。百姓家の二階を借りていたから食べ物には困らなかった。川でザリガニや魚を釣ったり、自然の中でのびのびと過ごした。戦争なんて遠い国のことのように、静かで穏やかな暮らしだった。
そして1945年(昭和20年)8月14日、日本政府はポツダム宣言の無条件受諾による降伏を連合国に通告、翌8月15日の玉音放送で日本国民に終戦が伝えられた。同年9月2日、日本政府が降伏文書に署名し、戦争は正式に終結したのである。
父が復員してきたので、私たちはまた呉市に戻った。呉の町には進駐軍がいっぱいいて、夜ともなれば酔っぱらいのケンカが絶えず、MPのジープが走り回っていた。子どもたちは「ギブ ミー チョコレート」と言いながらジープを追いかけてゆく。そのうち日本人女性との間に「合いの子」がたくさん生まれた。白人の子どもはまだしも、黒人の子どもはみんなにいじめられて泣いていた。あの子たちもみんな80才を過ぎただろう。戦後、どうやって生きてきただろうか。
戦後は米や味噌、砂糖等の食べ物や衣類などの物資は配給制になり、通帳持参で母親と一緒に並んだことを覚えている。また父は英語が話せたのか、時折、せっけんや缶詰などの米軍物資を手に入れてくることもあった。
母の実家から祖母がよくお米を持ってきてくれた。汽車に乗ると必ず検閲があり、見つかると没収される。私と姉が一緒の時、祖母はお米の袋を私たちの席の下奥へ押し込んだ。さいわい検閲に見つからなくて胸をなでおろしたこともあった。母も自分の着物を持って田舎へ行き、野菜や衣服などと交換してきた。
小学校に入学してもランドセルなんてない。手作りの布袋に教科書を入れて、粗末なズック靴を穿いて通学した。雨の日や雪の日は傘をさしてもズック靴はずぶ濡れ、冷たかったなあ。
当時はみんな粗末な服装で、破けたところにツギをあてたのを着ている子がたくさんいた。だがみんなそうだったから笑うものは誰一人いない。またお風呂に入らないからシラミが湧く。学校に行くと下を向いて一列に並ばされ、DT殺虫剤を吹きつけられて、みんな白髪頭になって大笑いした。
戦後しばらくは岡山駅周辺に「戦災孤児」がいっぱいうろついていた。駅構内や地下道をねぐらにして、昼間は闇市をうろつき、食べ物を盗んで捕まって叩かれている子もいた。大人でも生きてゆくのは並大抵ではなかった時代に、子どもたちは大変な苦労をしただろう。
戦後の庶民の暮らしは、それはそれは悲惨なモノだった。だが「困ったときはお互い様」、近所の人はみんな人情があって温かかった。今のように豊かでなくても、何にもない貧乏暮らしでも、今よりよほど生きやすかったように思う。「向こう三軒両隣」、親しくしているご近所さんにずいぶん助けられたものである。
戦後80年、ずいぶん長生きしたけど、戦後の貴重な経験があるから「今がある」、そう思えば少しは我慢もできそうだ。
どこが悪いのか分かりません。