わが購読紙掲載の五木寛之のエッセー『新・地図のない旅』を毎週楽しみにしている。前回の「消えゆく言葉 消えゆく歴史」に、同じ経験をしたババは懐かしいやらおかしいやら、思い出すと今でも笑えてくる。(一部抜粋)
若い編集者に「DDTを頭から吹きかけられて、真っ白になっちゃてね」と言ったら、みんなきょとんとした顔でまったく反応がなかった。
DDTというのは戦後アメリカから伝えられた強力な殺虫剤で、めっぽう効くかわりに副作用がつよい。第二次世界大戦中は軍用として使用され、戦後はカ・ハエ・シラミなどの駆除に広く用いられた。強力なだけ人体に対する毒性も大きく、やがて使用禁止となった。
戦後、外地から引き揚げてきたとき、上陸するとまずDDTの洗礼を受けた。裸にされて、頭から真っ白な粉をぶっかけられるのである。シラミやノミや南京虫などはイチコロだった。しかし頭からDDTをぶっかけられて真っ白になったときは、怖いよりもおかしかった。
ちなみに「DDT」が使われだしたのは、終戦翌年の昭和21(1946)年3月頃らしい。当時、発疹チフスが急増し、媒介するシラミ退治のため米軍が持ち込んだ殺虫剤の「DDT」散布が盛んに行われた。特に衛生状態の悪い引き揚げ者や、学校では女子児童の長髪に白い粉が吹き付けられた。その後DDTの大量使用で、昭和20年代後半にはシラミは日本国内からほぼ消滅したという。
私が小学1年の時だったと思う。学校の朝礼のとき、学級ごとに並んだ列の先頭から順に、すごい勢いで白い粉を吹きかけられた。終わって目を開けてみると、みんな頭も顔も真っ白け、その姿がおかしくて笑いこけたものである。その頃は一学級60人ほど、全校生徒何千人がみな真っ白け、校庭は異様な風景だったろう。
その頃はまだ戦前からの名残で、お国のやることに国民はただ従うだけ。何も言えず、何も知らされず、すべて強制的に行われた。もちろん「DDT」が毒性の強い殺虫剤ということなど知るはずもなかった。
戦後の貧しい暮らしの中、満足に風呂にも入れない子どもたちの頭はシラミには居心地が良かっただろう。シラミはどんどん繁殖して、一度や二度DDTを噴霧しても絶滅しなかったらしい。
シラミは髪の毛の卵を産み付けるので、成虫にならない間に卵を取り除かなくてはならない。家に帰ると新聞紙をひろげて、写真のような櫛で何回も髪をとかすと、シラミの卵がポトポト落ちてくる。最初は母がしてくれていたが、慣れてきたら自分でやっていたなあ。あの頃はシラミやノミを怖がっていては笑われる。女でも度胸の強さが必要だったのである。
五木寛之氏は文の終わりを「一つの言葉が消えていくことは、その言葉にまつわる歴史が消えていくということだ」と結んでいた。本当にそうだ。戦前・戦後を知る者がだんだんいなくなって、昔のことを知りたくなったらインターネットで。そんな時代もそう遠くないだろうね。
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