「白洲正子文学逍遥記」
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& 能面・仏像・日本人形・・etc
唐招提寺の仏像
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唐招提寺 講堂
いよいよ神無月ともなれば、北の北海道からはチラホラ初雪の頼りも聞こえてきます。
伊豆大島は四台台風の災害が生々しく報道されております。
離島の火山灰の傾斜地の土石流の恐ろしさをまざまざと見せ付けてくれます。
逸早い復旧を願って已みません。
唐招提寺の多くの仏像群のご紹介をしてきたが、余りの量に圧倒される思いである。東大寺、法隆寺、興福寺などの巨大寺院は如何ばかりであろうか。今回は「講堂」に立ち寄ってみようと思う。
唐招提寺・弥勒如来
「講堂」の由来
唐招提寺・講堂は平城宮朝堂院の東朝集殿を当地に移築された。年代的には鑑真和上が在世されていた天平宝字4年(760~762)年の頃とされている。しかし、その後改修され鎌倉時代の様式に改修された。
「弥勒如来・弥勒菩薩」
<弥勒菩薩>の方が馴染みのある名称であるが、いずれにしても56億7千万年後に、多くの人を救済するために、現在兜率天で修行をされておられる、釈迦の次に仏陀になるとされる菩薩とされている。この天文学的な数字は仏教学的には、それなりの数学が有るようではあるが、筆者はそうは考えていない。
現在の天文学の知識によれば、太陽が赤色矮星になり、超巨大化していずれ地球も飲み込まれるとされている。これが50億年程度とされている。案外、仏道修行者の修行中に天から得た超能力によって、それを既に知っていたのではないかと考えている。一見荒唐無稽のように考えられるようではあるが、偶然の数字では有るまい。 この世の中には人知を超えた知見や人間の能力が有るのである。弥勒菩薩は修行中の形、弥勒如来は仏陀になられた形。いずれも使われている名称である。
弥勒如来・283.3cm
唐招提寺・旧講堂に安置されていた仏像は、殆どが新宝蔵に移されたが、弥勒如来座像と持国天、増長天立像は旧講堂に安置されている。現在の弥勒如来像は木質で木地に漆を塗り、金箔を貼っている。造像年代は鎌倉時代である。右手は施無畏印、左手は降魔印(触地印)である。
当初の像は鑑真和上に随行してきた軍法力の造った丈六弥勒像であった。丈六とは一丈六尺のことで、4.85m程度である。本格的な仏像にはこの大きさが多い。二代目の本尊は11世紀始めの記録があり、「旧高田寺像」という記録があり、金銅の弥勒佛であった。
増長天 持国天
平安初期の檜の木彫佛で、当初四天王として製作されていた仏像の一部なのかは不明。
旧講堂木彫群
唐招提寺には、本来安置されていた場所が不明で、近年まで講堂に置かれていたため、「旧講堂木彫群」とされる一群の像がある。それらをご紹介する。
伝・薬師如来立像・160.2cm
トルソー・154.0cm
上記のトルソー(胴体)は教科書や美術関係の図書によく掲載される。頭部が失われているにもかかわらず、非常に美術的な視点から見ると美しい。また、伝・薬師如来も同様に、流れるような衣文は清涼寺式と呼ばれる衣文の形式でもある。清涼寺は嵯峨清涼寺の釈迦像を意味する。元々は中国宋時代の仏像で、インド伝来の生身の釈迦といわれた霊像を模した形式である。
西大寺・釈迦如来立像 脚部の衣文
「十一面観音順礼」にも掲載されたいた押出佛をご紹介する。
押出佛
薬師如来立像・十一面観音菩薩立像・吉祥天像
仏像の造像は材料によって様々であるが、珍しい作例に塼仏(せんぶつ)というのが有る。上記の押出佛は薄い銅版を原型に重ね、上から槌で打ち出して作成したもので、他に法隆寺に作例がある。この他に銅版ではなく、原型の上に粘土を使って型を取って、その後焼いて作成するものもある。古代中国の魏から唐の時代にかけて作成されていた。わが国にも伝来し製作された。
大日如来・352.7cm
新宝蔵に安置されている、旧講堂の大日如来は他寺から移された客佛である。大日如来の印は智拳印である。
「ちょっと一服」
話の喫茶店
「大日如来」
大日如来は金剛界と胎蔵界の二種類存在する。金剛界は金剛頂経、胎蔵界は大日経の説く世界の教主・大日如来を表している。それぞれに曼荼羅が存在し、金剛界曼荼羅、胎蔵界曼荼羅がある。曼荼羅は経典の世界観を図象化したものである。
曼荼羅
金剛界曼荼羅 胎蔵界曼荼羅
↓ ↓
法界定印 智拳印
真言
オン バザラダド バン オン ア ビ ラ ウン ケン
円城寺・大日如来・運慶作
以前にも簡単に書いたが、仏教の中の密教は非常に奥の深い複雑な体系を持っているので、読者は各自教科書、参考書等でお調べ願いたい。
「能面鑑賞」
今回の能面鑑賞は昭和を代表する能面師であり、
無形文化財技術保持者・長沢 氏春師の作品の一部をご紹介します。
以下の作品は平成4年発行の「目の眼」から掲載しております。
若女(長沢 氏春作)
江戸時代の能面師・天下一 河内 大豪 家重が創作した能面とされている<若女>である。
写真を貼るだけで、後は余計な能書きは要らないと思う。
筆者はこれ以上の「若女」を見たことがない。まさに当代随一の名工であった。
だが、それでは余りにも素っ気無いであろうから、河内の本面・若女をご覧ください。
若女 天下一河内作
河内の本面・若女の作品は江戸時代初期の作品であるから、面に痛みがあるのは当然であり。また彩色の退色もあろう。それらを頭の中で勘案して、製作当時の状態を頭の中で、思い描いて二つの作品を比べていただきたい。(光の当て方が逆なのでこれも考慮されたい)
誠に甲乙付けがたい。長沢 氏春師が河内を尊敬し、河内の命日に逝去されたことは、冥界では同一人物だったに違いない。後は何も言うことなし。後は皆さんの好みである。
* 刷毛目
河内の若女の額のところに富士額のような刷毛目が見えている。若い女面はこのように胡粉を額の部分に刷毛で塗っていく。これが定石である。顔がキリット締まる効果があると思う。横に塗ると間延びがするに違いない。「小面」も手法は同じ。
余談 ・・・実は筆者としてはこの二枚の写真は掲載をしたくなかった。何故か。・・・余りに素晴らしいから・・・・
本日はこれのみにて終わり!
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