白洲 正子文学逍遥記

故・白洲正子様の執筆された作品を読み、その読後感と併せて能楽と能面、仏像と仏像彫刻、日本人形、日本伝統美術についてご紹介

白洲正子文学逍遥記-0018

2013-11-02 | 日本の伝統芸術

 

 

白洲正子文学逍遥記

-018

 

 & 能面・仏像・日本人形・・etc

 

 

薬師寺-02

 

 

11月に入ると、南西諸島も幾分涼しくなってきました。最低気温20℃、最高気温25℃。北海道は初雪も降るような状態でしょうが、秋といえば秋。晩秋といえば晩秋。

とは言っても、<蚊>はブンブン飛ぶは、真紅のハイビスカスの鮮やかさ、紅葉は有るのかないのか分からない。大根、白菜、青梗菜、人参などの野菜の種を蒔き始めました。先日、サツマイモの収穫が終わり、今年の畑作業はこれで終わったと、思ったばかりなのですが。

台風29号は運良く日本には向かってきませんが、これで終わりにして欲しいのですが。

 

先回は薬師寺の周辺を散策してみたが、今回から当寺の仏像をご紹介したいと思う。その前に余計なことではあるが、この寺以外に奈良市内には、歴史的に有名な寺「新薬師寺」という別な寺があるので、<薬師寺>とお間違いのないようにしていただきたい。

 

 

 

 金堂内の仏像群

 

薬師三尊像 

 

 仏像には木彫佛、石佛、乾漆佛など様々な材質があるが、数多くはないがブロンズ佛も有名なものはある。最も一般的なものは、東大寺の大仏である。唯、火災などで可なり作り替えられているので、白鳳時代の部分はごく限られている。それに引き替え、薬師寺のブロンズ佛は火災に遭ったとはいえ、当時の面影を色濃く残しているようである。それでは、まず最初にこの薬師三尊像からご紹介することにする。

 

 筆者も先ずはこの薬師三尊を、この寺を訪れた時にはいの一番に参拝したはずなのだが、強烈な印象というか、記憶が余りない。それよりも薬師寺・東院堂の<聖観世音菩薩立像>の方が、今でも脳裏に強く焼きついている。東院堂の美しさと自らの観音信仰に起因するのかもしれない。申し訳ないことではあるが、これは筆者の頭の内部の事情によるものであるから、止むを得ないことである。

先回もご紹介したとおり、この寺は飛鳥の当初その原型が藤原京の薬師寺である。この三尊像が当初からの佛像であるかは、はっきり分からない。移転後製作されたとされる説の方が強い。いずれにしても大変な秀作である。

 

薬師如来

254.7cm 

 

 

製作当初は光背と同じく鍍金であったが、火災によりそれを失い、且つお身拭いなどで現在のような光沢を帯びるようになったようである。(金箔は注意深く見ると、胸、腹部、台座によく残っている平安時代の仏師・定朝がこの仏像を目標として、定朝様式の円満な造形の源流であるとされている。2.5mもあるブロンズ佛を製作する技術が、当時あったことに驚きを感じる。完成度も極めて高いし、現代でもこのような完成度を持つ、ブロンズは世界でもそう数はない。如何に当時の造佛技術が高かったかが分かろうというものである。 

佛顔

                      

 

佛顔をよく見ると、眉、唇の縁などに鏨が入っている。特に眉の部分の鏨は制作年代の特定が出来るそうである。また、手・指や足の表現、足裏の輪相などまで細かな表現が見られる。

 

           

 

興福寺の旧山田寺の講堂本尊の佛顔と比較すると、可なり写実表現が進んでいる事がわかる。

興福寺・旧山田寺 講堂仏頭 

 

 

ちょっと一服」    

     話の喫茶店  

 

 ブロンズの鋳造技術

 

  ブロンズの仏像鋳造はどのように成されるのかについて、簡単に説明してみましょう。

 白鳳・天平時代には<蝋型鋳造法>という製作方法が用いられておりました。まず塑土で大まかな仏像の原型を造り、その上にある程度の厚さまでを被せていきます。その後、この蝋の上に細かい彫刻を施し、蝋の仏像が完成すると、その上に粘土を被せます。次にこの像を焼きます。焼くことにより蝋が溶け出し、塑土の芯と粘土の間に隙間が出来ます。その後、その隙間に「」と呼ばれる溶かした銅を流し込みます。冷えたら粘土を剥ぎ取ると、ブロンズの像が出来上がるわけです。 

奈良の大仏のような 巨大なものは、大変な労力と費用が掛かったことでしょう。でも手法は同じです。後には木彫の仏像がたくさん製作されるようになりました。唐招提寺の乾漆佛と同様に、費用が莫大な手法でもありました。 

 

   

 

 「能面鑑賞」 

  

節木増・増阿弥久次 

 

同上の面の拡大(モノクロ

 

 

  増阿弥 久次作・「節木増」はご覧の通りの女面の代表作です。足利時代の作者で「六作」と呼ばれる能面師の一人です。基本的には<増女>として作られたのですが、鼻の付け根に脂が出てしまい、本来ならば傷物になるところ、余りの名品ゆえにこれが基本面になってしまったという面です。以前ご紹介しました天下一・河内の<若女>の上を行くような名品です。

伝承によれば、増阿弥は能役者でしたが、60歳を過ぎてから能面を打ち始め、その際の作とか。当時ならば人生50年の時代でしたでしょうから、驚異的な事です。製作者の年齢を全く感じません。

節木増・故 鈴木 慶雲 作

 

 

現代の能面師で元々、仏師でした。高村光太郎の父、高村光雲の弟子筋の方。非常に穏やかな方で面にもそれが現れております。素晴らしい品格のある出来。宝生流の宗家付きの作家でも有る。嵯峨人形の研究家としても有名。筆者のフアンの作家でもある。

 

小面 天下一 友閑 満庸

 

節木増友閑 満庸

 

江戸時代初期の作家・天下一 是閑 吉満の弟子、二代目 天下一 友閑 満庸の<節木増>です。残念ながら正面写真は有りませんが、素晴らしい出来。

如何でしょうか。このような途轍もなく素晴らしい名品を、直に見る機会はなかなか有りませんが、機会があれば是非本物を見ておいてください。これを頭に焼き付けて置く事が大事なことだと思います。そうすれば駄作には眼も呉れなくなります。相乗効果で他の名品もすぐ目利きが効きます。

 

 

 

  

 

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