久しぶりに超ロングラン・ウオーキングをした 特に目的も無かったが南の方へ歩く
陽射しは暑いので コンビニやスーパーは 私の束の間のクールダウンとして有難い
水分も摂ろうと自販機で炭酸入り飲料買ったら大間違い 開けた途端にブシューっと大量に泡が流れ出た
砂町銀座入り口まで歩く ここに魚屋直営の寿司店がある 空いていれば入ろうかと思ったら・・筈は無い
七夕飾りは終わっていて 名物の「バカ値市」 いわゆる商店街の割引セールで 人が多い
1キロはある有名な惣菜横丁 テレビ取材がたびたびある通りでもある 活気がある
昼を挟んで歩いていても 店で食事気分には成れない クールダウンも兼ねてコンビニで軽食だ
今は便利 どこでも挽きたての珈琲が100円で飲めるし イートインコーナーがあろって買ったものが食べられる
花を見ればカメラに収め 気が付けば家を出てから4時間ばかり 今度は新装なった東大島文化センターに着いた
長く休館して大工事が行われていた 先月リニューアルオープンで 中を見学で見て回る
ここでは下町のうたごえも何度か開催した場所 そして何より13年間 童謡唱歌うたう会を代表して通った場所だ
午後4時だった 8月は その 童謡唱歌うたう会は休みかと思ったら ちょうど練習が終わったところだった
辞めてから6年くらい経つ ホールから出てくる半分は知らない方であるが 長く付き合った仲間は驚いて歓迎された
指導は オペラ歌手でもある先生と 専属のピアニスト お二人とも気さくに喜んでしばし雑談を交わした
互いの元気を喜び 話しの中に 介護施設のボランティアが出てくる お二人も施設に何度も通っているのだ
昭和歌謡の私の話もする 施設の男性は 軍歌もたまには歌いたいと言うらしい
普通は軍歌に良い想い出が無く 軍国主義崇拝へとられてしまうから 封印してるケースが多い
歌は苦しい時も哀しい時も癒しや励ましとなる しかし 当時は世相として軍歌しか歌えない
愛国を鼓舞する歌しかない これしかなかったのだ この軍歌 愛国の歌を歌うから 右翼だと決めつけるのは違う
確かに右翼は街宣車で 轟々と軍歌を流して行く それは嫌悪しかない物だろう
とはいえ 軍歌にも良いメロディの歌はある 作詞・作曲者も 限られた範囲でやむなく作った歌である
幾つかの軍歌は 私は こんな時代もあったと歌っても良いのではと思う それが転じて反戦である
これらの歌を歌って 散って行った命もある 見送った肉親もある 生きぬいた時代の歌だ
「星の流れに」 これとて あの戦争が無かったら身を投げ出して生きることは無かった必死の叫びでもある
満州から逃れ逃れ辿り着いた東京 看護婦であった彼女の食は無く食べ物も無く 飢えと辛さでどうやって生きるか
誰も責められない これこそ人の心を歌う曲だ 哀しいけれど タブーにして封印してはならないと私は思う
昭和歌謡 いろいろと思考すればするほど 時代を反映している曲ばかりである
今朝のNHK 加藤登紀子さんが サハリンを訪れ 残留邦人に会ったり 現地でのコンサートを報じた
樺太は 日本の地だったが ソ連の侵攻によって何万人も亡くなり 殆ど全員が北海道などへ引き揚げさせた
現地で生まれた人にとっては そこが故郷である やむなく現地に残った女性は 心は日本人と涙ぐむ
兄と歌った 「人生の並木道」「ふるさと」などを涙ながらに歌う 私は死んだら日本人の魂になれるだろうか
この問いに 加藤登紀子さんも言葉を失った 現地で子どもも孫も生まれているが いつも心で葛藤しているのだろう
庭に桜を植えて 日本の国旗を立て いつも萎える心に寄り添わせているそうだ 故郷と祖国 重い言葉だ
下町のうたごえ バンド コーヒーブレイク生伴奏 in 本所地域プラザ
YouTube 君恋し
YouTube バラが咲いた
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コーラス 童謡唱歌うたう会で長く代表を務め このお二人には指導を受けました
明るくて気さく 音楽の話でも盛り上がります
時代を共にした歌 葬るのではなく遺して行きたいものです
綺麗なお二人と しばしの会話嬉しいですよね
歴史も歌も 変えることは出来ませんからね
そのまま その時代のことを伝えるのが良いのでしょうね
加藤登紀子さんが言っていました
世界に国境は要らない 国境を意識しない人々の交流がしたい・・
その通りですね
あの戦争が無かったら・・いまいくら悔やんでも
始まりませんが・・これからは少なくとも日本
はじめ世界から戦争がなくなりますと・・
その国境もなくなるはず・・先ずは被爆国
日本が反戦国の先頭にたって・・と思いたいが
今の日本は・・少し変なのかも・・ですね