昔、武士が修行を兼ねて、木彫りの仏像を彫るというのがあったような気がする。ここのところの南日本海人、その武士と同じである。
彫刻刀を持ちひたすら削る。何を?
卓球のラケットである。南日本海人、現実のところ、卓球選手としては中間引退状態なので、このラケットを削るという作業は精神的なものでやっていると言える。
使い古した、シェークハンドのラケットを持ちだして、ペンホルダーグリップで握られるように、グリップ近くのラケットの縁を削り取っている。削りすぎは禁物なので、削っては握り、握っては削るの繰り返しである。
もちろん、この作業の間、心は無心である。ただ表面上は何も考えてはいないが、人間の脳はこういうとき、無意識を活発に働かせているはずである。どのように問題を解決したらいいか、何かいいアイデアはないか。思考の奥底に沈んだものを脳は熟成させて解決策を探っているはずである。
そのようなことはどうでもよいが(どうでもいいのか?)、ペンホルダーのグリップというのはまことにもって難しい。こんな力の入りにくい、面を出しにくいグリップで、ペンの選手はよくあのようにフルスイングできるものである。シェークの選手として感心、尊敬してしまうものである。
私のラケットは遊び用で、時々シェークからペンに持ち替えてみたり、ペンの裏面ドライブとはどんなものかとやってみたりするためのものなのであるが、本職(?!)のペンの選手の人にとっては、このグリップ削りは生命線であると思う。
よく、寒い時、シェークの選手はそんなにまではないが、ペンの選手は試合前に手袋をはめて練習して、手が温まったら脱ぐということをしているようだ。それだけ、手や指先の微妙なニュアンスがプレーに影響するということだろう。
さて、話は彫刻の話か、卓球の話か、よくわからない(実は両方なのだが)が、いつの間にか削っていたラケットのグリップが、なんと、仏像になっていた!
まあ、そんなことあるわけはない。
彫刻刀を持ちひたすら削る。何を?
卓球のラケットである。南日本海人、現実のところ、卓球選手としては中間引退状態なので、このラケットを削るという作業は精神的なものでやっていると言える。
使い古した、シェークハンドのラケットを持ちだして、ペンホルダーグリップで握られるように、グリップ近くのラケットの縁を削り取っている。削りすぎは禁物なので、削っては握り、握っては削るの繰り返しである。
もちろん、この作業の間、心は無心である。ただ表面上は何も考えてはいないが、人間の脳はこういうとき、無意識を活発に働かせているはずである。どのように問題を解決したらいいか、何かいいアイデアはないか。思考の奥底に沈んだものを脳は熟成させて解決策を探っているはずである。
そのようなことはどうでもよいが(どうでもいいのか?)、ペンホルダーのグリップというのはまことにもって難しい。こんな力の入りにくい、面を出しにくいグリップで、ペンの選手はよくあのようにフルスイングできるものである。シェークの選手として感心、尊敬してしまうものである。
私のラケットは遊び用で、時々シェークからペンに持ち替えてみたり、ペンの裏面ドライブとはどんなものかとやってみたりするためのものなのであるが、本職(?!)のペンの選手の人にとっては、このグリップ削りは生命線であると思う。
よく、寒い時、シェークの選手はそんなにまではないが、ペンの選手は試合前に手袋をはめて練習して、手が温まったら脱ぐということをしているようだ。それだけ、手や指先の微妙なニュアンスがプレーに影響するということだろう。
さて、話は彫刻の話か、卓球の話か、よくわからない(実は両方なのだが)が、いつの間にか削っていたラケットのグリップが、なんと、仏像になっていた!
まあ、そんなことあるわけはない。