ハグハグの日々 Ⅳ  ~ 南日本海人、ライダー変身

ご訪問有難うございます。南日本海人、夏山裕のブログです。家族を愛し、人生に感謝して、日々をハグしながら送っています。

南日本海人、足のひっぱりを憂う

2007年10月18日 | 日々(ふつうに)
 さて今日は少し難しい話である。
先日、東国原英夫の『芸人学生』という本を読んだ。知事になる前の、タレント業と学生を両立させていた頃の話であるが、その中で、ある事件でマスコミに叩かれて仕事がなくなり、転換期となったいきさつが書かれていた。人気商売なのでしょうがないとも思うが、この傾向は実は現在の日本社会の姿を端的に表しているのではなかろうかと思うのである。
 それは他人の足を引っ張るという傾向だ。そのことはまた、社会が経済、社会的に優位な層とそうではない層に分かれていくという二極化の様相を示しているとも言える。アメリカ的社会と言ってもいい。
 社会が、恵まれているものと恵まれていない組に分かれているがゆえに、恵まれている組の(勝ち組負け組という言葉は嫌いなので使いたくない)不祥事等が表面化した時、それをきっかけに引きずり降ろすという構図が形成されていると思うのだ。
 本来、日本社会は『和』の社会だ。突出を嫌い、できるだけ表面的にはけんかを避ける。もちろんそのため表と裏があり、裏の部分ではきれいごとでない部分が多々ある。ただ建前的にはしっかりとまとまった基準点があったので、混乱というものは少なかった。アメリカ社会は違う。訴訟社会だ。表裏はないが、いざこざがたくさんある。撃ち合いもある。
昔、学校の講義で『農業問題概論』というのがあり、野田助教授という先生に『ゼロサム社会』という概念を初めて教えていただいたが、まさにこの考え方が末端にまで浸透してきてしまったということだ。『ゼロサム社会』という概念は、資本や資源は有限であり、誰かがある部分をとれば、ほかの人はその分、取り分がなくなるという考え方である。一昔前の考え方は、経済や社会は成長しているので、資源や資本は増えていくものなので、みんなに成長の余地があるし、チャンスがあるというものであった。それが変化したのである。食べるパイは一つなので、取り分が重要なのだ。
 この概念を世間一般の人たちがなんとなく感じとって、突出したものを失敗をきっかけに引きずり降ろすという形になっているのではないだろうか、と思うのである。
 
 だが、本当はそういうものでもないと私は感じている。
 資源、資本は有限かもしれないが、単にコマの取り合いで世の中が成り立っているということはない。スティーブン・コヴィーという人の『七つの習慣』という著書などにその点は詳しいが、企業が競争した場合でも、勝ち(自分)・負け(相手)、負け・勝ち、という結果のほかに、勝ち・勝ち、負け・負けということもある。要するにみんながうまくいく道があるという考え方があるのである。そういえば、これは昔確か哲学でならったな。止揚(アウフヘーベン…ヘーゲル?)というやつだ。ちょっと違うか。
 スポーツや勝負事の世界では少しちがうが、関連することがある。相手の負けを願うと、逆に自分の方の形勢が悪くなるとうことがよくある。決して相手の負けや、ミスを願ってはいけないのである。それが結局は自分のためになるのだ。相手がファインプレーをすればこちらもそれにつられてファインプレーが出るのである。そして試合のレベルは上がっていく。ただ勝負の場合、もちろん勝ち負けは出るのだが。
 ともかく、結論はこうだ。他人の足をひっぱっても、よいことは一つもない。そんな暇があったら、自分と自分の周りをなんとか変えよう。難しいことではあるが。私はそう思うのである。人間の力は無限ではないかもしれないが、結構、汲めば井戸のようにいくらでも水があふれ出てくるのではなかろうか。
 楽天家のおじさんのひとりごとである。
 いや、今日は顔に似合わず、難しいことを書いてしまった。論旨、文章も明快ではなかったが、お許し願いたい。おじさん、たまには硬いことも言ってみたいのよ。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。