うたかたの夢暮らし 睡夢山荘にて(Dream life of Siesta hut)

夢から覚めた泡沫のごときだよ、人生は・・
せめて、ごまめの歯ぎしりを聞いとくれ

ストーブ用 薪の調達

2012-02-26 22:26:12 | 日記・エッセイ・コラム

山荘は雪 2012_003

薪ストーブ無しでは過せない。我が愛用のイントレピッドⅡが大活躍なのだが、薪の調達は日常必須の大仕事なのだ。山荘横、雑木林のミズナラの大木を頂いた。直径40cm高さ20m大木だ。一本でも大量の薪が期待できる。これを3本も頂いたのだが、これを薪にするには、先ず伐採しなけりゃならない。

そこで、訪れた友人をスキーそっちのけで誘い込み、樵体験となった。3本といっても、2本は根元で抱き合わせのもので、おまけに3本とも蔓が相互に絡みつき、近くで見上げると畏怖を感じる巨大なものである。山の西側斜面にあり、我が畑地へ何時も大きな影を及ぼしているものである。

道具は周辺の下草、熊笹刈り用の草刈り機、鉈、斧とチェーンソウである。ヘルメットに身を固めて作業開始。倒木方向を検討し、切り込みの位置を決め一本目のチェーンソウは私の担当である。斜面に雪が降り積もった足場の為に安定が悪い。切り込みの三角部分は倒方向に上手く切り取れた。いよいよ反対側への切込みである。 切断瞬間の跳ね上がりに用心しながら10cmの深さまでチェーンソウの歯が食い込んだ辺りで、文字通りメキメキと音を立てて理想どうりに倒れてくれた。 のだが木の上部の枝に絡みついた蔓のお蔭で隣の木に支えられて宙ぶらりんに為ってしまった。 2本目3本目伐採方向への張力として好都合となる。

2本目と3本目は根元で抱き合わさったものである。作業を代わった友人が、一本目に近いほうに三角の切り込みを入れ、反対側の一番遠い側から10cm程度まで歯を入れ、右回りに周囲に切り込みを入れ始めた矢先に、バキッ、メキメキと突然3本とも同時に倒れ始めたのである。バランスを失った友人がチェーンソウを手に危うく倒木の下敷きになりそうなのを危機一髪で抱きとめたのである。2012_006

一挙に薪持ちである。2012_008

写真をクリックすると、拡大画面でご覧になれます。

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ユニオンショップ協定

2012-02-19 20:54:30 | 日記・エッセイ・コラム

職場の過半数を代表する労働組合と使用者との間で結ぶ労働協約で、労働者の採用にあたっては労組への加入を条件とし、労組を脱退・除名された労働者は解雇されることを定めたもの。厚生労働省の2005年調査では、この協定があるとした労組は76%。これに対し、組合加入が自由な場合を「オープンショップ」という。( 2011-03-04 朝日新聞 朝刊 政策総合 )

ユニオンショップ協定は、組合の統制力推進、使用者による労働組合の承認という趣旨で広く実施されている。 これは、間接的に労働組合の組織の拡大強化を図ろうとする制度であるが、現実には、労使一体となった二重の威嚇と統制により、労働者の労働組合を選択する自由の侵害や他の労働組合の団結権を侵害することに繋がる場合がある。

また、このことは労働組合と使用者の癒着を生み、労働者の側からの権利実現より、使用者側の意向を優先する、いわゆる労働組合の御用組合化への変容を手助けすることとなっている。

労働者派遣法改正を契機に、契約社員や準社員、派遣社員、パートタイマーなどの非正規雇用形態が爆発的に増加しているが、既存大手組合では、表向きにはこの非正規雇用社員の組合員化を図ろうとしているものの、一方では正規組合員の既得権益保護の観点から、労働者派遣法を楯に使用者側の人事政策の弾力的運用を手助けしていると言わざるを得ない。

しかし、結果的には非正規労働者の大量出現は、正規組合員をも含めた長時間労働、低賃金、福利厚生条件の劣化、そして何より雇用の不安定化を招いているのである。

 私の所属する組合など、代理店化した組合役員による保険の勧誘や年末年始の物資斡旋販売、定例的に行われるレクレーションと称するゴルフコンペや潮干狩りの開催などに、組合経費を浪費するのみで、職場の意見把握の集会など3年の間一度も開催されない態たらくである。

 会社の末端管理者への登用を希望するなら、組合役員の経験が必須であるし、会社の人事政策や組織再編制などの合理化施策実施に当たっては、走狗丸出しの露払いを嬉々としてやるのが組合なのである。 これを、御用組合と称さずして何というのであろう。

 この結果、多くのの職場が非正規労働者主体の構成となり、正社員との比率が6~7割となっている職場も珍しくはないのである。

高齢者で年金受給しながらの薄給契約なら、まだ暮らせるのだが、契約社員か準社員、派遣社員しか雇用機会を持たない昨今の若者にとって、まともに生活を維持することは不可能に近い現実となっている。  若者の車離れやスキー人口の低下など、一番の原因は、彼らが可処分所得を持たないからなのだろう・。 加えて長時間労働と勤務形態の不安定さや将来への雇用不安などが、目の前の現実だとしたら、車を買ってスキー旅行などの気持ちになる訳が無いではないか。

一昨年末の派遣テント村に見られる若年路上生活者の大量出現は、このような御用組合化した労働組合も、その責任の一翼を担っているといえるだろう。

この社会は、組織成員全体の維持とか他者との関係性の確立といった社会としての機能を失いつつあるのかもしれない。

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労働力の不足

2012-02-12 23:08:17 | インポート

昨日、通勤帰宅途上の近隣駅前で、山谷地区労働組合メンバーが生活、炊き出し支援カンパを求めるビラ捲きをしていた。 寒空に求人募集が激減して、殆どの日雇い労働者が仕事にアブレて路頭に迷っているらしい。雪積もる地区公園等に野宿せざるを得ない人々も多数とか。 特に建設業からの求人が激減らしく、1月16日などは"0"件だったとの事。

 些少ながら寂しい懐から、幾ばくかをカンパはしたものの、"何だか変じゃない"かしら・・・

 世は東北大震災の復興に大変な人出を必要としているのじゃないのか???

 北陸、信越、東北地域の豪雪に雪下ろしも侭ならず苦闘している高齢過疎地区が連日報道されていないか??

今こそ、人的資源、人手を最も必要としている時期なのではないのか??

片方では、人手不足に伸吟している過疎高齢孤立化した地域や、早急なインフラ復興を心待ちにしている被災住民があり、片方では働きたくても働き口が無く寒空で炊き出しに頼るような境遇に身を置く人々が居る。

どうして、こんなにもバランスが取れない社会なのだろう??

復興を最優先課題として・・・・東北地方に復興資金の傾斜注入を・・・ など等、いったい何処に消えてしまっているのだろう。

このような、国家的規模での災害や自然の猛威に対しては、個人のボランティアや篤志だけでは、その力も無力に等しいものになる。

だから、政治や行政組織の存在価値があるのではないのか。このような事態でこそ、広域且つ大規模での調整活動や組織的活動、資金注入等が求められるのであろう。

 このためなら、被災地以外の市民も税金無駄遣いとは言わないし、こぞって協力を惜しむものではない国民性を、つい1年前のパニック状況の中で示したではないか!

今も、引き続いて危機管理の社会状況なのであって、まだ一条の光も差していないのである。

何をしているのであろう、私達の政府は、行政は、・・・・

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物語 連載8

2012-02-06 21:12:26 | 日記・エッセイ・コラム

他所者

八乃進は平太にまとわれつかれながら村の社へ向かう坂道を登っていた。 一度来たことは有ったが、穏やかな日差しに誘われた事と、小高い山の上にある社からなら、本土とそれに続く各島の様子が見えるだろうと思ったからである。

小さく迂回する細道を回りきったら天空が開けて紺碧の海が広がって見えた。小さな社が鬱蒼として松に囲まれて建っておりその背後に本土陸地が望まれる。

社の上り縁に人が居た。数日村中を歩き回った間には見かけなかった人物であった。

平太が慌てて八乃進の後ろに隠れるように擦り寄ってくる。

「見慣れない顔だが・どちらさんでぇ・?」

探るように八乃進を値目まわしながら、その男が問いかけてきた。

「私は先日の嵐で船を流され、ここで厄介になっている五島のものだ」

「見たところ無腰のようだが、お武家かい??」

「いかにも・・ お前様は?」八乃進が問うには答えず

「よそ者があんまり、ウロウロ歩き回らないほうが良いんじゃねえかい

 それとも、何かを探っておいでかい?」

「おぬし、私に何を言いたいのだ、おぬしこそ,ここで何をしておる」

「うるせい、よそ者につべこべ言われる筋あいじゃねえや。 おい、そこの小僧 こっちへ来い」

と、平太へ手をさし伸ばした手を、思わず払いのけた八之進であった。

「 ほう、何かい、おいらに喧嘩を吹っかけるのかい、 面白いじゃないかい・・」

言うなり八之進の右腕を掴みかかるのであった。

とっさに、八之進が、その左の肘を右手で持ち替え捻ると、その男は体ごと、あっけなく転がされていた。

「 いてて・・、 何しやがる」

八之進の動きに一転、警戒心露わに、身構え、後ずさりした男は、

「 ちったあ、歯ごたえがありそうだな、

 今日のところは、消えるが其の内、化けの皮を剥がしてみせますぜ・・・」と、

捨て台詞を残して、社の後ろに身を隠し、そのまま松林の中に消えた。

 三間程離れて、様子を見ていた平太が駆け寄り、憧憬の眼差しを向けるのを

「平太、今の男を知ってるか・・・ 何をしていたのかな・?」

「 うん、あんまり良く知らないけど、本土から時々やって来るって。 みんな嫌いだって言ってるよ 」

八之進は、男の居た社を一周りしてみたが、変わったことも無さそうであった。

男が消えた松林は島の北側に下り降りており、下の方は鬱蒼とした雑木林となっていた。その奥はおそらく断崖となり、本土との隔たりとなる青く深い海となっているのだろう。

西に目を向けると五島の島々が翳んで見えた。

南は広く、明るく開け、暖かい空気を運んでくる。

東には遠近に四つ程の大小の島が見え、その内の二番目に大きな島が、平太と加奈の島である  が七八里先に見えた。

本土から時々渡って来る島民から歓迎されぬ人物とは、大凡横目の類だとの観測はつくのだが、これが今度の事件と関わりが在るのかどうか、八之進には判じかねた。

 その夜、武吉の話しによると、源次という横目の手先であって、島に来た時は代官屯所の中間部屋に寝泊りしていること。  いつもは横目同心の巡視に同行して来るのだが、今は巡視の時期ではないとのこと。  今度の事件との関わりではないが、何かを探りに来ているのは間違いないだろうとのこと。

源次の動きに注意するよう村人に伝える事などであった。

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世代的責任

2012-02-01 21:34:27 | 日記・エッセイ・コラム

 未曾有の大災害を契機として、社会的混乱と歴史的混迷が様々な事象として顕在化してきている。
大地震、津波による社会資本破壊と復興の遅延。
原子力発電所メルトダウン事故への対応と復旧見通しの不分明
地球温暖化に代表される人類による地球環境破壊
経済、物流、文化といった社会全領域に渡るグローバリズムによる矛盾
世代間や社会的階層間、或いは国家間で顕在化した格差

 わが国の近代期以降、既に明治、大正、昭和、平成の4世代が社会的責任世代として過してきたといえる。 このうち、明治期は国家創設事業に関わり、ヨーロッパ列強の過干渉を辛くも逃れ、日露紛争を経て独立を保った成功体験を持てた世代といえるだろう。
 次の大正世代は明治期の成功体験から導き出されたものとは云え、太平洋戦争という悲惨な結果を生み出した世代である。 そして、私達昭和世代は、この世界戦の悲惨な結果経験から出発したもので、とりわけ私達団塊世代は親の世代に対し、右翼も左翼も押しなべて既成価値の無効を主張し、その青年期を過ごしたような気がする。
 事実、私に限って言えば、親と同世代の叔父などに向かって、「何故、戦争へ反対しなかった! 何故戦争へ行った、加担した! 戦争を止められなかったのか!!」
と激しく突きかかった覚えがある。まだ、若年期の言とは云え、今思うと大変な暴論で叔父達を追い詰めたものである。 今は亡き叔父に悪いことをした思いがある。
 そして今、「私達は何をしていたのか」と、激しく次世代から詰め寄られる世代となった。
 過ぎること35~6年前に「高木仁三郎氏の"プルトニュウムの恐怖"」の本に接した。
あの時代に高木氏からの貴重なメッセージを自分なりには受け止めたのであるが、何ら有効なアプローチを成さなかったといえる。 今般の福島原発メルトダウンの直後に、我がブログに記載したメッセージを再録する。

2011/4/8
 原子力発電とは、自然界に存在しない原子を人工的に作り、これを人工的な空間で操作しながらエネルギー利用を図るというものであれば、未来永劫人工的な空間でしか制御できないものである。
 これは現世代が使ったコストを未来永劫、後世代が負担することに繋がるのである。
加えて、スリーマイルやチェルノブイリの経験から、原発事故の破壊力は核戦争にも勝るとも劣らない規模になることが提起され、核戦争と同様に人類滅亡の危機をはらむものとして提起され続けたにも関わらず、それを容認してきたのは我々団塊の世代だったのではないのか?
 この度の天災に続く福島第一原子力発電所の大事故の世代的責任は、我々団塊の世代にある。
 地球温暖化による自然破壊に続き、人類滅亡も展望される程の事態を導き、放置したのは誰なのだ。
 胸を掻きむしるような悔恨の思いで、今私は何が出来るのであろうか?

 ここに、記したように私達の世代は危険を危機を知っていたのである。 そして、これを放置してきたのである。
「有効なアプローチが出来なかった」のは、前 世界戦争を止められなかった世代の言い訳と全く同じものだと言えないか?
 半世紀前に愛すべき市井の叔父達に戦争責任を問うた私が、今再び彼らと同じ立場で後世代から激しく問い詰められるときなのだ。
 確かに軍部やマスコミ、地域共同体の時流に抗う事が出来なかった市井の叔父達に、具体的個人的責任を問うのも暴論だし極論で有ったかもしれないのだが、後世代の私達は確かに、「その責任を問うたのだ!!」
そして、その世代の叔父たちは自らの戦争責任を市井の人なりに、真摯に私達に応えようとしていたのだ。
 これに比して今、私達は真摯に此れに向き合っているのだろうか?
「放射能の影響はもっと後からだろう」とか、「どうせ生きている間は苦しむことはないだろう」とか、自分さえ助かれば良いのだとかの考えていないだろうか?
愚かなり! 愚かなり!
 微生物から哺乳類に至るあらゆる生物が、自らの種族を存続するためだけに個々の生を生きている事を、人々は知らないのだろうか? 忘れてしまったのだろうか??
 次世代のために自らの生を捧げるあらゆる下等生物より、下等な生を私達人類は持つようになってしまったのだろうか!       次世代を顧みないこの種は、もう既に破滅への歩みを始めてしまっているのだろうか?
 今、この時ほど世代的責任を問われている時代は無い!

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