うたかたの夢暮らし 睡夢山荘にて(Dream life of Siesta hut)

夢から覚めた泡沫のごときだよ、人生は・・
せめて、ごまめの歯ぎしりを聞いとくれ

世代的責任

2012-02-01 21:34:27 | 日記・エッセイ・コラム

 未曾有の大災害を契機として、社会的混乱と歴史的混迷が様々な事象として顕在化してきている。
大地震、津波による社会資本破壊と復興の遅延。
原子力発電所メルトダウン事故への対応と復旧見通しの不分明
地球温暖化に代表される人類による地球環境破壊
経済、物流、文化といった社会全領域に渡るグローバリズムによる矛盾
世代間や社会的階層間、或いは国家間で顕在化した格差

 わが国の近代期以降、既に明治、大正、昭和、平成の4世代が社会的責任世代として過してきたといえる。 このうち、明治期は国家創設事業に関わり、ヨーロッパ列強の過干渉を辛くも逃れ、日露紛争を経て独立を保った成功体験を持てた世代といえるだろう。
 次の大正世代は明治期の成功体験から導き出されたものとは云え、太平洋戦争という悲惨な結果を生み出した世代である。 そして、私達昭和世代は、この世界戦の悲惨な結果経験から出発したもので、とりわけ私達団塊世代は親の世代に対し、右翼も左翼も押しなべて既成価値の無効を主張し、その青年期を過ごしたような気がする。
 事実、私に限って言えば、親と同世代の叔父などに向かって、「何故、戦争へ反対しなかった! 何故戦争へ行った、加担した! 戦争を止められなかったのか!!」
と激しく突きかかった覚えがある。まだ、若年期の言とは云え、今思うと大変な暴論で叔父達を追い詰めたものである。 今は亡き叔父に悪いことをした思いがある。
 そして今、「私達は何をしていたのか」と、激しく次世代から詰め寄られる世代となった。
 過ぎること35~6年前に「高木仁三郎氏の"プルトニュウムの恐怖"」の本に接した。
あの時代に高木氏からの貴重なメッセージを自分なりには受け止めたのであるが、何ら有効なアプローチを成さなかったといえる。 今般の福島原発メルトダウンの直後に、我がブログに記載したメッセージを再録する。

2011/4/8
 原子力発電とは、自然界に存在しない原子を人工的に作り、これを人工的な空間で操作しながらエネルギー利用を図るというものであれば、未来永劫人工的な空間でしか制御できないものである。
 これは現世代が使ったコストを未来永劫、後世代が負担することに繋がるのである。
加えて、スリーマイルやチェルノブイリの経験から、原発事故の破壊力は核戦争にも勝るとも劣らない規模になることが提起され、核戦争と同様に人類滅亡の危機をはらむものとして提起され続けたにも関わらず、それを容認してきたのは我々団塊の世代だったのではないのか?
 この度の天災に続く福島第一原子力発電所の大事故の世代的責任は、我々団塊の世代にある。
 地球温暖化による自然破壊に続き、人類滅亡も展望される程の事態を導き、放置したのは誰なのだ。
 胸を掻きむしるような悔恨の思いで、今私は何が出来るのであろうか?

 ここに、記したように私達の世代は危険を危機を知っていたのである。 そして、これを放置してきたのである。
「有効なアプローチが出来なかった」のは、前 世界戦争を止められなかった世代の言い訳と全く同じものだと言えないか?
 半世紀前に愛すべき市井の叔父達に戦争責任を問うた私が、今再び彼らと同じ立場で後世代から激しく問い詰められるときなのだ。
 確かに軍部やマスコミ、地域共同体の時流に抗う事が出来なかった市井の叔父達に、具体的個人的責任を問うのも暴論だし極論で有ったかもしれないのだが、後世代の私達は確かに、「その責任を問うたのだ!!」
そして、その世代の叔父たちは自らの戦争責任を市井の人なりに、真摯に私達に応えようとしていたのだ。
 これに比して今、私達は真摯に此れに向き合っているのだろうか?
「放射能の影響はもっと後からだろう」とか、「どうせ生きている間は苦しむことはないだろう」とか、自分さえ助かれば良いのだとかの考えていないだろうか?
愚かなり! 愚かなり!
 微生物から哺乳類に至るあらゆる生物が、自らの種族を存続するためだけに個々の生を生きている事を、人々は知らないのだろうか? 忘れてしまったのだろうか??
 次世代のために自らの生を捧げるあらゆる下等生物より、下等な生を私達人類は持つようになってしまったのだろうか!       次世代を顧みないこの種は、もう既に破滅への歩みを始めてしまっているのだろうか?
 今、この時ほど世代的責任を問われている時代は無い!

コメント
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