うたかたの夢暮らし 睡夢山荘にて(Dream life of Siesta hut)

夢から覚めた泡沫のごときだよ、人生は・・
せめて、ごまめの歯ぎしりを聞いとくれ

天草市 高浜~牛深

2011-05-30 20:38:16 | 旅行記

平佐皿山焼とは、江戸中期から明治にかけて隆盛を極めた鹿児島唯一の磁器焼物だ。 日本の磁器は有田に代表されるが、ここの製法から派生して瀬戸焼や平佐皿山焼を含めた磁器文化がある。 この磁器とは異なるが、鹿児島では有名な焼き物としては薩摩焼がある。 これは豊臣政権時代の朝鮮侵略出兵の際に、当時の朝鮮白磁に憧れた島津義弘が、かの地の陶工を捕虜として連れ帰って興した焼き物である。 これは陶器であり、これとは明らかに異なる磁器が今は途絶えてしまった平佐皿山焼なのである。 そしてこれに確かに私の近い祖が関わったらしいのである。 私のルーツに関わる歴史探訪の旅なのである。
高浜焼寿芳窯を訪ねた。 ここで私にとっての新しい発見が在った。ここの窯元の先祖は上田姓を名乗る名主の家柄であり、江戸時代から地域振興の一助として高浜焼窯業を経営していたそうだ。そして様々なエピソードを記録保存していた。これをその旧宅ともども上田資料館として公開している。 窯元訪問して私の訪問の意図を話したところ、閉館していたこの資料館を開いてくれ、説明と天草陶石の由来と題した当会社編纂の資料まで頂いた。

 そして、この話の中に、瀬戸焼の祖 加藤民吉が出るのである。
民吉は瀬戸磁器の開祖であるが、一方隠密である。当時鍋島藩により保護奨励されて重要な輸出財源であった有田焼は秘匿技術として厳しく監視統制されていた。他国への技術流出による競争力低下を恐れたものである。 天草の乱後の荒んだ人心を徳を持って収めた代官の鈴木某の伝手など利用しながら、有田へ技術習得の為に潜入したのが加藤民吉なのである。 この秘話は後の時代に、小説や戯曲となり、広く紹介されている。 なんとこの民吉が瀬戸へ帰参する途上、この高浜窯場に立ち寄り、手に入れられなかった赤絵の技法を習っていった事実があったのだ。

斯く言う私も、最近この加藤民吉の秘話の存在を知ったのだが、この高浜にも関連する事までは知らなかったのである。大変興味深い発見なのである、私にとって・・・。

 高浜焼の由来やエピソードに感激したことと、ここの白磁の清楚なことにこの焼き物を欲しくなり数枚の日用雑器を購入してこの窯場を辞去した。帰りに陶石掘り出しの現場を見学に立ち寄り選石所で陶石の一部を頂いて来た。 期待してきた高浜で最も興奮に値する資料や伝聞を得られたことに大満足であった。

2011430_069 2011430_083 2011430_098 2011430_103

この後、海と空と丘に見事に溶け込んだ白亜のロマネスク様式建築の大江天主堂を訪れた。 無神教ながらも大震災の被災に対し鎮魂と災害収束を祈った。人知の及ばぬ事態に対し、或いは圧倒的な自然に対する人類の矮小さを実感する今、困った時の神頼みとは言え僥倖を願ったものである。

 この天草には他に、海辺に立つ碕津天主堂が在るが、こちらはゴシック様式の重厚な建築物であり、悲惨な禁教時代の物語を秘めた教会である。 観光案内によると祈りの祭壇の下は禁教時代踏み絵が行われた場所で庄屋の屋敷だったところだそうだ。 澄み渡る明るい光の風景と対比して、その秘められた歴史が厳しく悲しいものだけになお更に、その美しさが際立つように思える。 天草は何処を訪れても同じような感興を誘うのは、この歴史と決して無関係ではないからだろう。

2011430_107
 天草に別れを告げて、牛深港から本日2回目のフェリー渡航である。行き先は鹿児島県の阿久根市長島の蔵の元港である。 茂木~富岡間のフェリーより大型船である。出港前の空時間で海産物の土産を期待したのだが、期待した程のものは無かった。これに関して言えば長崎茂木港の朝市場がより魅力的であった。 昼食を取っていなかったこともあり急いでチャンポンを食したが、これも恐らく長崎の方が旨かったであろう。 再来の時の楽しみの一つにしようと思う。2011430_110 2011430_116 2011430_120

この後の旅程は、所用と家人のお供で費やされたもので、特段報告を要するものではないので割愛するが、帰路で立ち寄った朝一番風呂の道後温泉と名古屋の鰻の老舗あつた蓬莱軒の櫃まぶしについては、後日一筆報告したいものであった。請う後日談。2011430_188 2011430_211 2011430_220 2011430_228

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長崎から天草

2011-05-26 22:55:16 | 旅行記

長崎の夜

ホテルでシャワーを済まし、夜の帳の中、市街電車で繁華街へ。 市街電車はどの町で乗っても、その土地の人に近づけるような気がする。  不案内な町歩きでも安心して乗れるのはこの近さのせいであろう。

中華街や観光通りをそぞろ歩き、老舗の吉宗本店へ。

 前日からの寝不足と長距離ドライブ、伊万里、有田の歴史探訪で、きっと酒の回りが速いのだろう。

お店の元気なお姉さんに手間を取らせて探して貰った純米吟醸を一合飲んですっかり良い気分である。

名物の茶碗蒸しと蒸寿司と鯖寿し、地魚のお造りと蛸のワサビ合えを食す。美味 鯖寿しは食べ切れなくて折にして貰った。  ホテルまでそぞろ歩きして、そのままバタンキュー

2011430_039 2011430_041

長崎発

長崎茂木港発7:00のフェリー  ホテルを6:00発で30分程度で港へ到着 乗船手続きして船待ちの間に待合室で朝食

昨夜の残りの鯖寿しと、待合室の産直店で買い込んだ揚げタテのさつま揚げが美味であった。

産直店は6:30頃から続々と地元の漁師らしき人々が持ち込む魚が、旨そうな事と安価な事に思わず買い込みそうになり、家人に窘められたものである。 鰺や甘鯛、蛸にイトヨリ、黒鯛など等 フグなどは下ごしらえ済みの切り身4尾分で400円である。天麩羅で食したら旨そうだ。

後ろ向き乗船も珍しく積載車も10台位の小型フェリーで定刻、茂木出港である。

甲板から望む小さな漁港は、私の物語そのものを彷彿させるものであり、ますます構想沸くおもいである。

あいにく薄曇のうえ、黄砂の影響でもあろう10分も沖合いに出ると長崎側も天草側も島影が全く見えなくなった。

小船でしかも方位計も持たない昔日の海人は、きっと迷った海日和であろう。

2011430_053

40分位の航海でいよいよ天草だ。

天草

島影が見えたと思ったら、直ぐに入港だ。 目の前に真新しい白い煙突と白い大きな建物がある。

福島の原発を思わせ不気味な思いがしたが、やはり九州電力の火力発電所であった。

原発災害と東南海沖地震からの脱出旅行のつもりであったから、現実に引き戻される思いである。

素朴な港に入港して岸壁から海を覗くと、すばらしい透明度の海には小魚が群れ泳いでいる。

汚染された福島の取り戻せない海の無念に心が痛む。

天草富岡城址に、おそらく火力発電所誘致の見返りで建てたのであろう、立派な県立ビジターセンターがあつた。

展示物や城塞を模した建築物は箱物行政そのもののようで、見るべきものは無かった。

ほとんどこの地とかかわりの無い筈の勝海舟と頼山陽の銅像は折角の訪問を鼻白む思いにさせた。

政治や行政の関わるものとは対照的に、自然の景観や空気や海と空の色の美しさは、これだけで充分だという思いを抱かせる。 矮小な人間どもよ余計なことをするな!!と・・・・

そして、いよいよ今回の天草訪問の主目的地である、高浜である。

ここは、磁器製陶の原料である陶石の産地である。合わせて高浜焼の陶磁器窯元がある。これだけなら取り立てて旅の主目的にはならないのだが・・。 ここは私の故郷、鹿児島県川内の平佐焼原料を調達していた歴史がある場所なのである。

Img_new

次回へ続く

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伊万里から有田そして、長崎

2011-05-23 23:05:59 | 旅行記

5月 例年やってくる春から初夏へかけての黄砂でうす曇の日であった。

前日夕刻東京を発って、予定より大分遅れて一夜明けた午前10:40伊万里の町に入った。

夕食や仮眠を取りながら時間調整した成果で、土日の高速道路割引が狙いとおりに効果的な料金をはじき出した。

東京~佐賀(武雄)間で2660円である。ガソリン消費も、愛用のプリウスの実力どおりに、下松SA一回給油の5800円でまだ、充分な残量だ。

同SAでの一光景 福山ナンバー1370、女性親子と小児の3人家族の車が身障者スペースに堂々と駐車

クローバマークは付いていたものの、年長の女性はサングラスにタバコをふかし、どう見てもクローバ対象者ではないようだ。「クローバワッペンは何処でも売ってるしなー。」 最後は市民としての成熟度と人としての良心の問題だ。

九州最初のPAで200円で浴びたシャワーが、半分眠気の残る意識と体をリフレッシュさせてくれた。

伊万里は武雄北方ICを下りて、20分位新緑の匂いの道を過ぎて小奇麗な町並みを見せた。

街路の標識や橋の欄干には陶器が使われていたり、歩道の何気ない舗装に陶器の破片が散りばめられて、如何にも陶器の町なのである。

2011430_015

景観条例でも施行されているのであろうか、気がつくと派手派手しい看板が無いし、街路樹が刈り込まれて人の手が入っている様が感じられ清潔感の有る町である。陶磁器を主産業とする町の佇まいは、技術者から芸術家へ通じる人々が住んでいた町の必然なのであろう。農業者や漁業者の住む町とは明らかに違った風に感じた。 伊万里牛を使った町興しハンバーグの昼食は時間を費やした割には期待はずれであった。

 伊万里で訪ねた唯一の伊万里・有田焼伝統産業会館も期待したほどのヒントも資料も得られなかった。

 伊万里は隣町の有田から運ばれた陶磁器の積出港という役割が主であった。確かに鍋島藩の御用釜が築かれ、一般に普及されるものではなかった希少性の高い鍋島の産地ではあった。

今回の伊万里訪問の旅の主目的は、古伊万里の積出港の役割とそれに関わる人々の組織や日常の様子を感じたかったのであるが、これは次の機会とした。

有田町は伊万里町から30分程度の行程である。 途上 伊万里酒造元で純米吟醸と純米酒を手に入れた。昼食のレストランのマスターに聞いた酒造メーカーである。九州は焼酎文化が主に思われるが佐賀地方は日本酒が主に占めているそうだ。

有田は県立九州陶磁文化館と陶山神社、泉山磁石場を訪れた。有田歴史民族資料館は残念ながら時間切れであった。 ここでも、江戸末期から明治にかけての陶磁器生産の組織体制や人々の暮らしの日常などを見聞したかったのであるが時間不足である。 有田は古伊万里の生産地であり今でも有田焼陶器市等、大変な賑わいを見せるそうで、町並ぶ陶磁器店は圧巻である。陶石の最初の発見場である泉山磁石場や磁器始祖(季参平)を祭る陶山神社は遥かな歴史を肌に感じる思いがした。

2011430_026 2011430_035

伊万里、有田訪問では、事前の調査と訪問の目的の明確化を怠った反省が大である。再度の訪問を期して、午後5:00過ぎには本日の宿泊地の長崎へと向かった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

原発の新展開と東南海沖地震と旅行

2011-05-12 23:22:28 | インポート

福島第一1号炉の圧力容器の底が抜けていたらしい。 メルトダウンが当初から在ったと言う事だ。 東京電力と原子力保安院(不安院)の公式見解では、核燃料破損は55%程度だと言っていたではないか。!圧力容器は健全で冷却がうまく行っているから100度前後で安定しているのだと、言っていたではないか。!  現実には溶け出した核燃料は格納容器の水溜りにかろうじて留まっているらしいが、ここでどのくらいの発熱量で存在しているのか、そうではなく既に格納容器も溶かして原子炉建屋の床コンクリートも溶かしているのか、ドンドン溶かして地面も溶かし始めてチャイナシンドロームが現実に進行しているのかも知れない。  誰にも状況が判らなくなっている。

東京電力の基礎的提供情報が今回の発表を通じて全てに信頼性がなくなったことで、私達にとつて信頼に足る専門家であれはあるほど状況判断が出来なくなっている。   福島原発は、緊張を緩める事態ではない。

浜岡原発を止めたのは妥当だ。東南海沖地震は必ず来る。しかも、近いうちに・・・・・ 

と、言う訳でもないのだが、結果的に来週一週間東京脱出旅行に出る。  以前から計画していた法事のための帰省旅行であるが、東名高速~山陽道~九州道 長崎天草経由で鹿児島までのドライブ旅行である。帰りは大分~宇和島~高知~高松~名古屋のルートである。  友人達には半分冗談 4/1本気の地震回避旅行であると宣言している。

第一の目的は法事、二番目は郷里の焼き物(皿山焼き)のルーツ探索(有田焼と高浜陶石)、三番目がグルメ(卓袱料理、讃岐うどん、大阪寿司、うなぎの櫃まぶし等々)、四番目が大震災からの脱出 である。

大震災が起こらず無事帰還して報告ブログが出来ることを祈りながら・・・・ 5月22日をお楽しみに

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

菅首相、エネルギー基本計画の白紙見直し表明

2011-05-10 22:54:28 | インポート

前ブログの「菅政権は信頼できないかも」は、とりあえず撤回とします。

市井の感覚を政治に反映できると期待した管直人首相である。やっとその期待を具体的に表明したような気がする 。

闇献金や紐付き政治資金にまみれた被告人でどんなに豪腕、政治力が有ったとしても、また、先祖代々毛並みが良くて大金持ちでその根源は戦争犯罪者や武器商人の末裔の輩より、どんなにかマシな政治家なのだと思う。

膨大な国家資金に群がる電力業界や開発メーカー、産学結託学会、天下り官僚、そして地元の補助金欲しさの貧しい人々と、もう一つ実は綿々と繋がった国際金融シンジケートとそれに操られる政治家や貴族の末裔達が、確かに日本に居る。

少なくとも、管直人は、これとは一線を劃せる、これからフリーハンドな政治家だと期待したい。

民主党のエネルギー基本計画は、小沢、鳩山の時代に作成されたマニュフェストといえる。

例え、その時代に管直人もその一派に居たとしても、主力で居たわけではない。これを見直しご破算にしたとしても、彼の政治的姿勢に瑕疵が存するものではない。

例え、今回の表明がマスコミの言うパフォーマンスといわれようとも、良いではないか。

政治家がパフォーマンスを演ずるのは当たり前だし、自らの信じる政策や信念を実現するのに、彼は失うものを持たないように思う。

このところ、小沢や鳩山の亡霊たちが俄かに管降ろしに動き出したのも、今回の原発見直し政策を出されるのを恐れたのではとするのは、思い過ぎであろうか?

ともあれ、前述の様々な利益収奪陣営の反国家的な、反社会的な、反人類的な所業を止めさせる一石に、大賛成である。

国家的展望からいったら、原発廃止、省エネ社会への志向、自然再生可能エネルギー技術の開発等などは、最良施策といえる。

大震災、原発災害を経て人類の未来を開く転回の契機となることで、この不幸を少しでも癒すことになればと祈る。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする