うたかたの夢暮らし 睡夢山荘にて(Dream life of Siesta hut)

夢から覚めた泡沫のごときだよ、人生は・・
せめて、ごまめの歯ぎしりを聞いとくれ

ボランティアについて

2021-02-28 22:40:15 | ブログ

LFAというNPO法人事業へ寄付と作業ボランティアに、先月から参加している。

 若い人たちが始めた事業で、主に経済的家庭環境によって教育機会に偏差が生じている現実があり、この不平等さは教育という基本的人権において許されるべきではないことから、これの解消と、問題提起を実践する事業だと認識している。

 参加の契機は、社会福祉法人主催の高齢者生活ボランティアへの登録活動している中で後世代での困難が具体化している現実を知ったからである。

 

 昨年末、同年の親友が逝った。 私たちは所謂、団塊世代である。

この団塊世代の20才代 1965年~1975年は、全共闘に代表される政治の季節であった。

 東京オリンピック以降の高度成長により、それまで一様に貧しかった社会が一挙に階層分化が進み、格差が生まれ競争が当たり前になった。

 その結果、生じた価値観の大きな変化が、若者の反抗という形で社会現象化していったのだと思う。

 このような時代状況の中で私達が意識したのは、格差や差別や貧困は社会の矛盾が引き起こしたもので、社会全体として制度的にその矛盾を解消是正することなしには根本的な解決は得られないものであるということだった。

 だから、それの現実的解消とは社会的制度的改革なんだということだったし、それに向けての政治運動こそが優先されると認識していた。

 このような認識の下でのボランティアと云う方策は、金持ちの自己満足に依拠する社会矛盾の弥縫策に過ぎない唾棄すべきものとしていた。

 

 基本的にこの社会的矛盾の構造は同じだと思うし、それの根本的解消や是正は社会全体として政治が担うべきものであることに変わりはないと今も思う。

 しかしながら同じ思いを希求し語った友も逝ってしまったし、社会参画してから具体的に何事も成し得なかった50年を経た今、残された時間はあまりに少ないということに行き当たったのである。

 そして、何より具体的現実として困難に直面している子供達に手を差し伸べることこそ、今の自分にできる事、否それしか出来ないと認識すべきだと思うからである。

 若い人たちが立ち上がり自主的に動き出した事への賛同と微力を寄せることで、希望の光を見られる事が去り行く老兵の幸である。

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独りキャンプ旅(短編創作Ⅲ)

2021-02-21 06:37:33 | 物語

キャンプの焚き火Ⅱ

 

 

下界は、まだ夏の暑さに喘いでいるのだが、此処は標高千メートルまではいかないが、それに近い高度のキャンプ場である。

 木々の葉も少しずつ色付き始めている。

夏場と違って焚き火の色と煙が郷愁の香りを帯びている。

安ワインだが、リンゴジュースとシナモンの一片を加えて熾火で沸かすと甘味と芳香がその郷愁を更に深めるような心地がする。

 

 

若い頃からキャンプが好きで、子供が小さい頃はよく家族を連れてあちこち楽しんだものです。

あの頃はこんなに軽くてコンパクトなテントじゃなく、テント生地は帆布だし、ポールは文字通りポールで頑丈だが太くて重たかったですよね。

子供は小さいし、男手は私一人だし、妻も子供達も私の力と手際に頼り切っていましたよ。

キャンプに行くとそんな家族の期待を実感できて、それなりに嬉しかったものです。

 

 

初老に差し掛かろうか、少し伸びた無精ひげが焚き火で陰影を作っていた。

少し熱めのホットワインを薬缶から其々のマグカップに注ぎ分けて呉れながら、語り出した。

 

 

子供が小学高学年になる頃には、そんな家族キャンプに行く回数も減ってきましたよね・・・。

私もそれなりに仕事も忙しくなり、妻もパートから正規の社員に復帰したりしましたからね・・・

それが家族の成長だったのでしょうが・・・・

それでも、私はキャンプから渓流釣りや登山というよりは山歩きですが、変わらず続けていましたがね。

若い頃は殆ど単独行だったのですが、それなりに趣向のグループも出来て色んな人と出掛けるようになったものです。

定宿と云えるような馴染の所も出来たりして、結構面白可笑しく遊んだ時期だったですね・・・

そんな頃ですかね、仕事の繋がりや、旅での出会いなど幾人かの女性と懇ろになったりしたのも・・・・

お恥ずかしい話なんですが、一度は女房にバレましてね、ひどい目に遭いましたよ。

子供も、その頃はそれなりにそういう事が判る年頃になってましたし、女ですから父親のそんな振る舞いが許せない年頃だったのでしょう。

家族に総スカンですよ。

何しろ女三人ですよ、針の筵で家に居られたものじゃない。

週末や休暇は殆ど出掛けてましたね。

家に居るより山や定宿で過ごす方が良かったですからね。

まあ、そんな時期もありましたが、上の娘が片付き、下のも社会人になって独り暮らしを始める頃には、妻も車にキャンプ道具を積んで旅するのに数回ですが付き合うようになっていましたよ。

そんな矢先ですよ、妻が病んで二年足らずで亡くなってしまったのは・・・・

例のごとくに癌ですがね。

肝臓に出来た癌が見つかった時には、もうリンパに転移が有って、対症療法的に転移先の癌を放射線やら抗がん剤で抑えるしかないと言われました。

はっきりとは云われませんでしたが、数年の余命だと判りました。

 

不思議なものです。

彼女が生きてる頃は家に帰るのが億劫で、何かと理由をつけては帰宅を遅らせたり、独りでいることを楽しく思ったものです。

居なくなってから半年過ぎましたが、今になってしみじみ思うのです。

家に待ってる人がいないと思うと、これ程寂しいものかと・・・・

もう、帰らなくても良いんだ、帰っても誰も待ってないんだって、思うと・・・・・

これが、アイデンティティと云われるものだったのでしょうかね・・・・・

 

 

私は、空になった薬缶に残りのワインとリンゴジュースを注ぎ入れ、シナモンを一片入れて、熾きになった焚き火の上に置いた。

三人は其々の思いの中に沈み込んでいくようで、赤く燃えながら白く燃え尽きていく熾火の光の変化を見つめていた。

 

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独りキャンプ旅(短編創作Ⅱ)

2021-02-18 07:13:47 | 物語

キャンプの焚き火

 

小柄な男てある。身軽で根は明るく人なっこそうな性格だと思われた。

ひょんなことから、一つ焚き火を囲んで問わず語りを始めた三人の男たちの、其々の話を聞かせよう。

 

 

見た通りの私の妹だから、決して美人の訳じゃない。

それでも若い娘だ、それなりに可愛く人好きがした好い子だった。  好き合った男も出来て幸せそうだった。

早くに両親を亡くして、兄妹二人だけで互いに頼り合って生きて来たんですよ。

小さな町工場に勤めていましてね、そこで知り合った工員さんだった。 相手の男は・・・・

私は、警察に勤めて五年目で交番勤務の巡査をしてました。

なーんにも悪い事はしていない、裕福じゃないが普通の幸せの中にいた娘が突然姿を消したんだ。

最初の一日目は、何か急な用事か出来て出かけたのだろうと軽く考えていたんだが、さすがに二日も帰らないと変だと思って、相手の男や勤め先の工場へ問い合わせしましたが何にもわからない。

私は訳が分からず、仕事を忘れて必死で探しましたよ。

署の仲間もそりゃ専門の連中だ、親身になって手伝ってくれましたよ。

勿論、相手の男もね。

そいつも同じ気持ちだったのでしょう、二人で仕事も休んで一週間探しましたよ。

手掛かりが無いんですよ。

私は妹の居なくなる日の前の晩から夜勤でしてね。

夜勤明けから朝9時過ぎに家に帰った時には、妹は普段通り、朝餉の支度をして出勤した後だった。

汁を温めて朝餉を済ませると一寝入りしたのは何時もと全く変わらぬことでしたよ。

 

専門の連中が一週間も探して何にも手掛かりが出ないんだ、流石に大ごとになりましてね。

組織を挙げた広域捜査って、やつですよ。

二人の専従を付けてくれましてね、私と三人で県内各署への手配やら連絡やら、聞き込みやら・・・

二週間目には署員の大半を動員して山狩りもしましたよ。

そんなに遠くない工場だから、歩いて通っていたので交通機関も使わないし、大きくない街だから人通りも少なく、妹を見かけた人も居ないから足取りも掴めないんです。

一か月過ぎても行方は分からない。ホントに神隠しですよ。

例の拉致ってやつじゃないかって話も出ましてね。

その線も手を尽くしましたよ。

三か月を過ぎると専従も外れたのですが、署の好意で私一人は専従扱いで公務として妹の捜索に当たらせてくれました。

これはまあ、警察に居た事の良かった事でしたね。

半年も過ぎたころ、まあ大した情報じゃ無いけどって、隣の県の小さな町の警察から寄せられた話がありました。

もう、手掛かりとなるようなものは捜し尽くした気がしていた私ですから、何でも良いんです。話を聞きに行きました。

四日前に、警邏中の職質で挙動不審の若者を、任意同行したらシンナーの類を所持していた。

覚せい剤取締法に係るほどの薬剤ではないので、説諭で帰したとのこと。

その時の巡査から、シンナーに関する事とは違った反応をした若者の様子に違和感を持った話を聞かされた。

シンナー特有の朦朧とした様子で、「だから俺は知らないって」と言ったのを耳にしたから、

「 えっ、何を知らないんだ・・?」と、問うと

「 あ! 違うんだ、何でもない ・・」と後は語らなかった

 

その巡査は違和感を持ちながらも、何かを隠していると思ったので、翌日その男の周辺の様子を調べていた。

三、四人で集まっては悪さをしている何処にでも居る若者達の中の一員だという事だった。

 

 

何もこんなところに押し込まなくてもって・・・

鬼畜の仕業だし言いようもない気持ちがしましたよ

妹は殆ど清掃もされていない、糞壺の中に押し込まれていましたよ。

所謂、ポットン便所って云われるやつです。

半年以上も経ってるし、殆ど形は無いのですが、着衣から妹と直ぐわかりました。

ハイキング客や私達みたいな物好きのキャンパーが珠に訪れる森の中のキャンプ場のほら! あすこら辺りに有った便所ですよ。  今は有りませんがね・・・・。

 

・・・・・・私ら聞かされている二人は、思わず振り返り、顔を見合したものである。・・・・・

 

私の街からも180キロ位離れた場所だし、夏場に人出が有る位で他の季節は忘れられたような所ですからね。

そりゃ、なかなか判るもんじゃない。

私は、職質した巡査の違和感に感心したし、感謝もしましたよ。

その後の具体的な犯行の詳細捜査と尋問は専門の刑事がやりましたし、私は知りたくありませんでしたね。

反吐が出るような悪感です、分かりますよね。

裁判の傍聴も行きませんでした。

彼らは其々主犯が15年、従犯13年の判決で今、獄に居ますよ。

全くの面白半分、欲情半分で、そして集団心理の中で起こった犯罪だったようです。

彼らは後数年後には出獄して来ます。

法には罰せられたし刑には服して帰ってくるのでしょう。

今も法を守る側に居る私が、こんな事を考えているとはと非難されるのは解っていますが・・・

彼らが帰ってきたら、一人一人もう一度話をしたいと思っていますよ。

妹の痛みや苦しみ、悲しさ、何より恐ろしさの事を・・・・・

話をしてどうなるかは分かりません。

もしかしたら、妹と同じ痛みや苦しみ、悲しさ恐ろしさを、同じように感じてもらいたいと思っているのかもしれません。

そうするかも知れないし、何もしないかもしれません。

法が罰するとしても、私の心根に有る恨みは未だ癒えません。

ずっと、考えてきました。復讐の事。

私に代わって法が殴ってくれても、私の拳をふるう権利は失われて良いのだろうかと・・・・?

 

男は話しながら、涙を流し続けた。

私はウイスキーにお湯を入れて、男に渡した。

もう一人が、焚き火に薪を投げ入れて火の粉と炎を高くした。

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