長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

「神と共に生きる」 第十六話 光の中を歩む

2023-05-23 17:46:23 | 神と共に生きる

「神と共に生きる」

第十六話 光の中を歩む

第一ヨハネ一・五‐一〇

 

 使徒ヨハネもまた、手紙を書きました。彼の第一の手紙のテーマは、「御父また御子イエス・キリストとの交わり」と言ってもよいでしょう(第一ヨハネ一・三)。「神と共に生きる」というテーマに焦点を当てながら、聖書の基本的メッセージを学んできました。神様と共に生きていくために必要なこと、大切なことが何であるか、ヨハネの手紙から確認しましょう。

 

一、神は光である

 

私たちがキリストから聞き、あなたがたに伝える使信は、神は光であり、神には闇が全くないということです。(第一ヨハネ一・五)

 

 神様と共に生きていくために、神様がどんな方であるかをみことばから教えられることは大切です。ここに、「神は光であり、神には闇が全くないということです」とあります。使徒パウロもまた神様について「死ぬことがない唯一の方、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれ一人見たことがなく、見ることもできない方」と書いています。

 光はすべての物をありのままに照らします。光のあるところ、闇は逃げていきます。そのように、神様はすべての物事を見抜かれる方、隠さなければならないような悪や汚れからは遠く離れ、そのようなものを一切持たないお方です。

 

二、光の中を歩む

 

 神様が光なるお方と分かれば、そのようなお方と共に生きるということが意味することが分かってきます。それは、光の中を歩むことなしに、神と共に生きることはできないということです。

 

もし私たちが、神と交わりがあると言いながら、闇の中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであり、真理を行っていません。もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。(第一ヨハネ一・六、七)

 

 ここに一つの仮定があります。もし誰かが、「神と交わりがあると言いながら、闇の中を歩んでいる」としましょう。神は光なるお方です。神と交わりがあるなら、当然、光の中を歩むことになるはずです。そうであるのに、闇の中を歩んでいるとすれば、「神と交わりがある」という主張が偽りであるということになります。

 逆に「私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいる」としたらどうでしょうか。光の中を歩んでいるのですから、嘘偽りの入り込む余地はありません。自分のありのままの姿を神の光に照らして頂くとき、私たちは「互いに交わりを持ち」ながら生きていくことができます。

 「互いに交わりを持つ」とは、信仰者同士の交わりを含みます。しかし、それは「御父また御子イエス・キリストとの交わり」を土台としています。神様との隔てのない交わりを持ち、また互いにも自由な交わりを持ちながら生きていくことができます。それは、自分を神様の前に偽らず、光の中を歩んでいくとき可能となる生き方です。

 

三、罪が自覚されるとき

 

…御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。(第一ヨハネ一・七)

 

 しかし、信仰を持ったとは言え、神の光に照らされたとき、自分の犯した罪や過ちが明らかになってくるとしたらどうでしょうか。これは信仰の歩みを始めるすべての者がいつしか直面する課題でしょう。しかし、ヨハネは言います。「御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます」と。

 これは、「光の中を歩んでいるなら」ということを条件としています。たとえば、「自分には罪がないと言うなら」どうでしょうか。「私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません」と言います(第一ヨハネ一・八)。そこには嘘偽りがありますので、光の中にいるのではなく、闇の中に逃げ込んでいることになります。そうであれば、私たちが罪からきよめられることはありません。

 しかし、神様の光によって罪が示されたとき、それを率直に認め、神様の前に言い表すならどうでしょうか。

 

もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。(第一ヨハネ一・九)

 

 ありのままに自分の罪を認め、神の前に言い表すとき、それは、光の中にとどまることを意味します。すると、「御子イエスの血がすべての罪からわたしたちをきよめてくださいます。」これは、神の約束ですので、真実で正しい神様は、私たちの「罪を赦し、すべての不義からきよめてくださいます。」

 このことは、私たちが最初に罪を悔い改めて、御子イエス・キリストを信じたときに起こることでもありますが、私たちが信仰者として歩みを進めていく中で、何度でも更新される恵みでもあります。

 クリスチャン家庭に生まれながら、大学生になってようやく真剣に聖書を読み始めた私は、神のみことばの光によって、自分では気づかなかった自分自身の姿に直面させられることになりました。愛のない自分本位な姿、偽善や高慢、汚れた思いや行い…。最初は、そのような自分の姿を見て見ぬ振りをしようとしたり、ごまかそうとしたりしました。しかし、次第に強まる神様からの光に、自分の罪汚れをごまかしきれなくなりました。そうした時、初めてのように、イエス・キリストの十字架の死が自分のためでもあったことが示されてきました。「御子イエスの血がすべての罪からきよめてくださいます。」「すべての罪」とある以上、私のあの罪、この罪、すべての罪が赦され、きよめられるのだと知った時、驚くばかりの神様の恵みに圧倒されるようでした。

 そして、この恵みは今に至るまで私を支え続けています。神様の光に照らされる時、罪を自覚する時があります。そのような時には、同じく罪を言い表し、御子イエス様の血を仰ぎます。赦され、きよくしていただきます。そのようにして、日々神と共に生きる幸いが更新、継続されることは、大きな恵みです。

 「幸いなことよ その背きを赦され 罪をおおわれた人は。幸いなことよ 主が咎をお認めにならず その霊に欺きがない人は。」(詩篇三二・一、二)「自分の背きを隠す者は成功しない。告白して捨てる者はあわれみを受ける。」(箴言二八・一三)

 光なる神様の前に、嘘偽りなく、ごまかしなく生きることができる…これは驚くべき恵みです。御子イエス様の血のゆえにこの恵みが与えられていることを覚え、この恵みを与えてくださった神様をほめたたえましょう。そして、愛をもって私たちの生涯を守り導いてくださる神様とともに、喜びをもって生きていきましょう。

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