長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

『カラマーゾフの兄弟』

2019-04-24 12:41:39 | 
(東京出張の際、新幹線の中でまとめてみました。)
 
学生時代、教会の先輩に勧められ読んで以来30年以上になりますが、久しぶりに読みました。(新潮文庫)
 
当初は、長男に勧める意味で購入しましたが、懐かしさもあり手に取ると、若き日に読んですっかり忘れていた内容が徐々に思い出され、繰り出される人間模様や、背景となる諸思想の錯綜など、スケールの大きさに圧倒されながら、最後まで読み進めました。と言っても、空き時間を利用しながら少しずつ読んだので、読了に半年近くを要しました。(長男の2倍くらい?)
 
学生時代には、有り余る時間を使って、いくらでも本が読める積りで、ドストエフスキーやトルストイの長編を次々に読んでいたので、「とにかく読んだ」ということで終わっていたと思います。生きている間に読める本が限られていることに気づく年代に差し掛っていることを自覚しつつ、とりあえず読了したこの時点で、感想をまとめておきたいと思いました。
 
読み始めてすぐ印象付けられるのは、一文の長さ。4、5行はざらで、もっと長文もしばしば。しかも、会話の中でさえも同様であったりするので、最初は、「こんな長文を連ねた会話って、ありえない!」と思いました。当初は少々しんどい感じがしましたが、不思議なもので、このドストエフスキー調の文章に慣れてくると、結構すいすいと読めるようになります。
 
次に、読みながら圧倒されるのは、人間関係の複雑さと、その一人ひとりの描かれ方に現れる人間理解の深さ。カラマーゾフの三兄弟に限っても、それぞれの個性が明確に表されており、しかも一人ひとりが一面的でなく、矛盾とも見える多様な面を合わせ持っていることが見事に描写されています。「ひどい人間」と切って捨てたくなるような彼らの父親さえも、彼なりの理屈を持って生きているのであって、決して一面的な描かれ方をしていないのには驚嘆させられます。
 
もう一つ、印象付けられるのは、彼らを取り巻く諸思想の複雑さです。ロシア正教を中心にした当時のロシア人たちのキリスト教信仰の素朴さと共に、そこから飛び出ようとする様々な無神論的思想の様相が描かれます。かと言って、ロシア民衆の信仰が全面的に肯定されているわけでもなく、その迷信的な諸側面も描かれます。社会主義的な思想を持つ利発な少年も登場する一方、そういう諸思想とは全く縁なく生きているような多くの人々の姿も描かれます。
 
そんなことを感じながら読み進めているうちに、自然に湧いてくる疑問は、「どうしたらこんな作品を書くことができるのだろう」というもの。しかし、巻末の解説を読むと、ある程度納得。ドストエフスキーの生涯自体が一筋縄のものでなく、かつ諸思想との格闘を通ったものであったようです。
 
彼の父親は、怒りっぽく、気難しく、アル中もあってか、暴君地主として振舞います。そして、何とドストエフスキー18歳の時に、百姓たちに惨殺されるという悲劇が起こります。他方、母親はおとなしく、信仰心の篤い女性であったようで、彼を育てる際に読み書きのために用いた聖書物語が幼いドストエフスキーの心に深い印象を与えたようです。しかし、15歳の時に死去。
 
これだけ知っても、「成程」と納得させられますが、彼の結婚や恋愛経験もまたかなり複雑なものであったようで、イワン、ドミートリーと、グルーシェニカやカテリーナとの複雑な恋愛感情描写を生み出す土壌になったものと思われます。
 
最後に、牧師としてはやはり描かれているロシアのキリスト教信仰の諸相が気になるところ。たとえば、創世記1章で描かれる六日間の創造を巡る解釈で議論がなされていたり、教会と国家を巡る議論が長々と展開されたりと、現在も続く議論は、決して最近のものでないことを実感させられます。
 
しかし、そのような議論は、この作品の言わば周辺の飾りのようなもので、読み進めていくうちに、信仰を巡るもっと重要な諸問題が浮かび上がります。真正なキリスト教信仰のあり方はどのようなものなのか、果たしてキリスト教信仰が前提とするような神はいますのかどうか、神がいますのであれば、地上にある悲惨で不条理な出来事をどう理解したらよいのか、しかし、逆に神がいまさないのであれば、人が生きる正しい基準というものは相対化され、「何をしても許される」はずではないのか…。
 
信仰の核心を巡る議論が、作品の中で大切な意味を持つ一方、信仰の素朴な在り方が、特にゾシマ長老やアリョーシャの姿の中に表されています。それは、あらゆる人間の弱さを包み込むような愛の姿であり、その背後にはあらゆる人々の罪を背負って死なれたキリストの姿が浮かび上がってくるようです。
 
矛盾に満ち、愚かしく、悲しい程に罪深い人間の実像に迫りつつ、しかし、この作品が単なる希望のない人生観、世界観を描いて終わらないのは、やはりドストエフスキーの中に複雑な形ではあっても形作られていたキリスト教信仰の故であったことを、改めて痛感させられました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東京出張

2019-04-24 12:35:23 | 事務所便り
一昨日、昨日と、二つの会議のために東京出張。
 
一日目は、日本キリスト教連合会総会。
早稲田大学のキャンパスを見ながら、会場の日本キリスト教会館へ。(写真)
総会自体は粛々と進められ、短時間で終わりましたが、
他教団の牧師との交わり(情報交換)や、総会後のセミナーは
大変参考になりました。
 
二日目は、海外宣教連絡協力会(JOMA)総会、
御茶ノ水クリスチャンセンターにて。
役員二期を務めさせて頂き、この総会でようやく務めから
解放されました。
貴重な経験をさせて頂きました。
 
合間には神田神保町の古書街を見て回ったりして、
有意義な二日間でした。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする