長田家の明石便り

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物語の神学―もう一つの視座

2015-12-23 20:48:03 | 神学

(休日、一冊の本を読んで思い巡らしたことをまとめてみました。)

以前、「物語の神学」について自分なりにまとめたのは、この神学についての日本語文献、特に福音主義神学の立場からのものがあまりにも少なかったからでした。しかし、最近、この神学にかなりのページを割いて書かれた日本語文献、しかも、福音主義神学の核心部分とも言われる「聖書信仰」を主題とした書物が出されました。『聖書信仰―その歴史と可能性』(藤本満著、いのちのことば社)です(以下、『聖書信仰』と表記)。この本については、今後いつか、全体的に検討、まとめる機会があればとは思いますが、とりあえず、「物語の神学」についてに絞って考えてみました。というのも、この書を通して、「物語の神学」についての新たな情報を得たというより、この神学に対して評価するための新しい視座の可能性を指摘されたように思うからです。

(1)「聖書信仰」の二つの流れ

『聖書信仰』が示す重要な主張の一つは、「聖書信仰」の歴史を振り返る時、「聖書信仰」という水槽は決して小さな水槽ではないというものです。かなり単純化した捉え方とは思いますが、「同じ保守的な福音主義でも、信仰と批評学とのつきあい方を含め、聖書と啓示の考え方はイギリスとアメリカとでは異なっていた」と言います。そして、「その二つの流れの源流をたどると、アメリカのプリンストン神学の流れは主知主義的に真理を追究した一七世紀プロテスタント正統主義に行き着き、またイギリスの流れは一八世紀信仰復興運動に見られるような救済論的な聖書観に近いように思う」と言います(392頁)。

このような指摘の中で、一方の流れとして指摘されるのが、「アメリカのプリンストン神学の流れ」と呼ばれるものです。Wikipediaでは、「プリンストン神学とは、プリンストン神学校で展開された、伝統的で保守的な改革派教会、長老派教会の神学である。現在のプリンストン神学校はリベラルであるため、これと区別して古プリンストン神学、旧プリンストン学派とも呼ばれる。」と説明されています。プリンストン神学校は、1812年の創立。初期の神学者としては、チャールズ・ホッジ、その息子のA・A・ホッジ、ベンジャミン・ウォーフィールドといった人々が挙げられます。本来、「プリンストン神学は、カルヴァン派神学を厳密に構築する膨大な神学体系」として展開しましたが(61頁)、より大きな福音主義キリスト教の歴史を考える上で重要なのは、この神学が後のファンダメンタリズムと福音主義全般に影響を与えた点です。影響を与えたのは、主に、この神学の「特にその理性主義的神学的手法とア・プリオリな聖書信仰」であったと指摘されます(61頁)。プリンストン神学のこのようなあり方が、後のファンダメンタリズム、さらには戦後アメリカの新福音主義の流れ、また無誤論論争にまで影響を与えていると論じます。

しかし、同時に、この本で指摘されるのは、福音主義のもう一つの流れについてです。この流れは、「一八世紀信仰復興運動に見られるような救済論的な聖書観」を源流とするもので(392頁)、世界及び日本の福音主義の歴史を考える際に、無視するべきではないことを繰り返し強調しています。

そのような著者の主張は、20世紀以降の福音主義の歴史の展開の中で、プリンストン神学から来る流れだけでは収まり切らない、多様な要素を切り捨てるべきではないという主張にもつなげられます。それは、批評学やポストモダンとの関わりにおいても、福音主義の中にある多様性を認めようとする姿勢にもつながります。批評学との関わりでは、「アメリカの保守的福音主義に見られるように、福音主義のアイデンティティをまず聖書観に置く」タイプだけでなく、「イギリスの信仰的批評学と呼ばれる」タイプをも積極的に評価しようとします(233、234頁)。ポストモダンとの関わりでは、ポストモダンを敵として考えるあり方だけではなく、「ポストモダン・エバンジェリカルズ」とも呼ばれうる福音主義内の動きを積極的に評価しようとします(253頁)。その際には、もう一方の流れである「アメリカのプリンストン神学の流れ」が「二〇世紀ではなく、一九世紀のモダニズムの認識論(命題的真理や言語に対する信頼性を含めて)に近い」という指摘がなされます(258頁)。

(2)「物語の神学」への積極的評価

福音主義の歴史における多様性を認めようとし、プリンストン神学から来る流れだけに収まらない様々な流れを積極的に評価すること、特に、「ポストモダン・エヴァンジェリカルズ」と呼ばれるような動きにも積極的な評価を与える著者の姿勢は、自然な流れとして「物語の神学」への積極的評価につながります。「神の言葉の物語性」と題した比較的長い章の全体で、「物語の神学」に対する評価、検討が行われ、リクール、フライ、ブルッゲマン、ボウカムといった神学者たちが取り上げられます。

注目すべきことは、これらの神学者たちの具体的検討に入るに先立ち、「保守的な福音主義には、聖書の物語性を敬遠しがちな傾向があることを先に認めておきたい」と記されている部分です(312頁)。そして、「福音主義が物語性の強調に危惧を覚えるとしたら、それは『物語=神話』というような、かつてのリベラリズムに対するトラウマが原因しているだけではない。そもそも物語の持つ意味の相対性・多様性にも危惧を覚えるはずである」と指摘します(312、313頁)。しかし、「近代の客観主義に対抗して提示された物語理解は、客観主義がとらえきれない、本来聖書が有しているダイナミズムを明らかにしている」というウィリアム・ジョンソンの主張を紹介します(314頁)。「聖書の物語理解には、従来の近代主義的基礎づけ主義に沿った聖書信仰を超える豊かな可能性があることを期待させつつ、他方で課題をも突きつけている」とまとめた上で、4人の神学者の検討に入っていきます(315頁)。

(3)視座の違い

このように、『聖書信仰』において、「物語の神学」が保守的な福音主義からは敬遠されがちな傾向にあることを踏まえつつも、むしろ積極的な評価を与えようとしているのは、この書全体の主張の流れからすると自然なことと受け止められます。そして、このことは、私が以前「物語の神学」を紹介・評価しようとした内容と比べるときに、対照的なものがあるように思われます。捉えられている問題点や課題はそんなに違っていないように思うのですが、評価しようとする視座が違うように感じます。それは、私自身あまり自覚してはいませんでしたが、私自身の視座がまさに著者が言うところの「プリンストン神学の流れ」の中に立っているからではないか、と思いました。

私自身は、藤本師と同様、ホーリネス系の教団に属しています。しかし、私自身の聖書観は、J・I・パッカーの『福音的キリスト教と聖書』(いのちのことば社)で決定づけられてきたと思います。J・I・パッカーは、本書の中で、まさに「プリンストン神学の流れ」に位置づけられている神学者です。私自身の聖書観、あるいは神学的枠組みの土台が、そのような流れの中に位置づけられるものであったのではないか、そう気づかされました。

そういう視点で、「物語の神学」への私自身の紹介・まとめを読むと、確かに「プリンストン神学の流れ」に立つ視座からの評価になっているのがよく分かります。物語の神学の歴史的経緯を紹介した後、「福音主義神学における物語の神学の評価と展開」と題する節の中では、このように書いています。「当然のことながら、福音主義の立場からポストリベラリズム、あるいは物語の神学に対して神学的評価をしようとする動きも起こりました。そのような初期の動きの中で最も重要なものとしては、北米の福音主義神学者として著名な、カール・F・H・ヘンリーによるものでしょう。」そして、「物語の神学、特にハンス・フライの著作に対する批判を行ないました。(中略)彼は、フライの方法が歴史的言及に関してあいまいである点を指摘し、聖書の言語霊感、無誤性の立場を擁護しようとしました。」と書いています。ここで、カール・ヘンリーは北米の代表的な福音主義神学者の一人ですが、『聖書信仰』の中で以下のように指摘されています。「ヘンリーは、ウォーフィールドらによる啓示=無誤論の流れで聖書信仰を論じた」(126頁)、「彼は機能的でダイナミックな啓示論に同意を示すが、それでも啓示は命題的であると論じる」(127頁)。すなわち、私自身が「福音書義神学における物語の神学の評価」において、初期の最も重要な動きとして紹介したのは、まさに「プリンストン神学の流れ」の本流に属する神学者であったということになります。

続いて、私はこのように書きました。「このように、福音主義の立場からは批判されるものを持っている物語の神学ですが、にも拘らず、福音主義神学の世界におけるこの神学の影響は広がり続けているように思えます。」その理由として考えられる点をいくつかご紹介する中では、「従来の福音主義神学のあり方がモダニズムのパラダイムを共有していたのではないかという思いがけない指摘」についても触れています。ですから、藤本師が指摘するような、プリンストン神学的流れの持つモダニズム的傾向についても見てはいるのですが、私自身の視座が上記のようなものであるために、物語の神学を巡る動きは、どちらかと言えば戸惑いを覚えさせる動きとして見られているのも事実です。

従って、結論部分では「これまでの神学的枠組みでは捉えきれなかった聖書の豊かなメッセージを汲み出す可能性」を認めながらも、「物語の神学を福音主義神学に取り込むために必要な、一定の保留条件」が必要だと指摘します。これは、福音主義神学=「プリンストン神学の流れ」と狭く捉えた上で、物語の神学をその枠内に収めるための保留条件を提案したものと言えそうです。

『聖書信仰』は、私自身が無自覚に立っていた視座が、福音主義の流れの中でかなり狭い領域にとどまろうとするところからのものである、という自覚を与えてくれました。そして同時に、それが福音主義キリスト教の唯一の視座というわけではなく、もっと広い立場から見れば、また景色も違って見えるだろう、という予測を与えてくれました。

(4)今後のこと

福音主義の立場に立ちながら、「物語の神学」を捉える別の視座があるということを理解したとは言え、簡単にもう一つのその視座に乗り換えるというわけにはいきません。たとえ、多くの尊敬する方々が、そちらの視座から物事を見ているらしいと分かったとしても、です。しかし、別の視座の可能性に気づいたことは一つの収穫と言えます。

おそらく、広い方の視座から見れば、私がしていることは、狭い穴から広く広がる大地を見渡しながら考えあぐねているように見えるかもしれません。もしかしたら、視角に入らないようなところが断崖絶壁になっていて、穴から出て行くと非常に危険であるのか、あるいは相当広い範囲平坦な平地であって、ある程度自由に走り回っても安全なのか、見当をつけかねているようなものです。今後しばらくは、穴の中から周りの様子を見渡しながら、「一体、穴の周りはどうなっているのでしょうか」と神様に問いながら、周囲の様子を見極めようとする日々が続きそうです。

追記

「物語の神学(後半)」でも取りあげた山崎ランサム師のブログに、この本について藤本師ご自身が寄稿した一連の文章がアップされています。本書の内容をいくつかのポイントから紹介するもので、本書についての著者自身のまとめ(?)として興味深いものです。その4回目として、物語の神学について焦点を絞った文章もアップされています。ご参考ください。

https://1co1312.wordpress.com/2016/01/04/%e8%81%96%e6%9b%b8%e4%bf%a1%e4%bb%b0%ef%bc%88%e8%97%a4%e6%9c%ac%e6%ba%80%e5%b8%ab%e3%82%b2%e3%82%b9%e3%83%88%e6%8a%95%e7%a8%bf%e3%80%80%e3%81%9d%e3%81%ae%ef%bc%94%ef%bc%89/

 

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