長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

11章 その3

2014-07-19 10:24:48 | Dunn "Baptism in the Holy Spirit"

著者は、回心-入信式に関わる箇所を網羅的に検討していますが、私としては、特に聖霊との関わりに焦点を絞って検討してみたいと思います。聖霊とクリスチャンとの関わりについて、パウロの初期の手紙で検討したときに言えたことが、コリント人への手紙についても言えるかと思います。すなわち、聖霊とクリスチャンとの関わりについてのパウロの教えは、大きく言えば、二つの方面があります。すなわち、過去の聖霊による恵みを確認するものであり、もう一つは、それに基づいて正しい聖霊との関わりの中で歩むよう励ますものです。

前者については、以下のような箇所があります。

・第一コリント2:12「ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。」
・第一コリント6:11「しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。」
・第一コリント12:13「なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。」
・第二コリント1:21、22「私たちをあなたがたといっしょにキリストのうちに堅く保ち、私たちに油を注がれた方は神です。神はまた、確認の印を私たちに押し、保証として、御霊を私たちの心に与えてくださいました。」
・第二コリント3:3「あなたがたが私たちの奉仕によるキリストの手紙であり、墨によってではなく、生ける神の御霊によって書かれ、石の板にではなく、人の心の板に書かれたものであることが明らかだからです。」
・第二コリント5:5「神はその保証として御霊を下さいました。」

著者によれば、次のような箇所も、クリスチャンが既に経験している聖霊の恵みについての比喩であるということになります。

・第一コリント10:10-4「私たちの先祖はみな、雲の下におり、みな海を通って行きました。そしてみな、雲と海とで、モーセにつくバプテスマを受け、みな同じ御霊の食べ物を食べ、みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。」

また、これらに準じる箇所として、過去の聖霊の恵みにより、現在の聖霊とのかかわりを確認する以下のような箇所があります。

・第一コリント3:16「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」
・第一コリント6:19「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。」

これらに対して、過去の聖霊の恵みに基づき、正しい聖霊との関わりの中で歩むよう励ます箇所としては、以下のような箇所があります。

・第二コリント3:18「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」

これに準じる箇所として、以下の箇所は、コリントのクリスチャンが聖霊との正しい関係の中に歩んでいないことを指摘しており、聖霊との正しい関係に立ち返るように進めている箇所と言えます。

・第一コリント3:1「さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。」

(上記箇所の内、大方は著者によって取り上げられていますが、第一コリント3:16、第二コリント5:5は取り上げられていないようです。)

これらを見渡すとき言えるのは、ここでも「聖霊を受ける」ということは、すべてのクリスチャンにとって過去の経験として前提とされているということです(第一コリント2:12、第二コリント1:22、第二コリント5:5)。その結果、彼らは「神から受けた聖霊の宮」であり(第一コリント6:19)、「神の御霊が・・・宿っている」と言われます(第一コリント3:16)。同時に、彼らが「御霊によって・・・洗われ、聖なる者とされ、義と認められた」ということ(第一コリント6:11)も前提とされています。「聖霊を受けた」ということと、「御霊によって・・・洗われ、聖なる者とされ、義と認められた」ということとが同時的な経験であったのか、そうではないのか、必ずしも定かではありません。しかし、そのような点について何の言及もされていないということは、少なくともパウロにとっては、これらのことが一体のこととして理解され、表現されていると考えることができます。

以上のような「概観」を踏まえつつ、今回、特に詳細に検討してみたいのは、第一コリント12:13です。この箇所は、新約聖書の中で、福音書、使徒行伝以外で、「聖霊のバプテスマ」という表現を用いている唯一の箇所です。この表現が、福音書、使徒行伝で語られている「聖霊のバプテスマ」と同一の内容を表わしているのか、そうでないのかが議論されてきました。そこで、多少なりとも歴史的な議論の経過も踏まえながら、検討してみたいと思います。

まず、これからの議論の前提として、ここでの文脈を確認します。第一コリント12章で強調されているのは、キリストの体の一体性であり、御霊の賜物、御霊の働き、御霊の現われについては多様性があるが(4、6、7節)、それらが同じ一つの御霊によっているということが繰り返されています(4、8、9、11節)。この文脈の中で12:13が強調していることは、次のようなことであると理解できます。すなわち、すべてのクリスチャンが(ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も)、「一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け」たということです。もし「御霊によってバプテスマを受け」という表現が「聖霊のバプテスマ」を意味するのであれば、次のようなことが言えます。すべてのクリスチャンは共通の経験として聖霊のバプテスマを受けており、その結果として一つのからだ、すなわちキリストの体なる教会に結び付けられたのだと。このような理解の中では、聖霊のバプテスマが全クリスチャン共通の経験であって、聖霊のバプテスマを受けていないクリスチャンの存在は、考えることができないということになります。これはすなわち、「聖霊のバプテスマ」が第二の恵みであるという可能性を完全に否定するもののように見えます。

これに対して、「聖霊のバプテスマ」を第二の恵みとして考える立場からの議論は、著者が取り上げている論点から逆算して考えると、次のようなポイントを持つと予想されます。

・εν ενι πνυματι(一つの御霊によって)は、バプテスマの要素としての御霊を表現するものではなく、バプテスマの執行者としての御霊をさすものである。
・εισ εν σωμα(一つのからだとなるように)は、「御霊のバプテスマ」の結果を言うものではなく、(εισを「において」と訳して)「御霊のバプテスマ」の実行場所を表わす。
・あるいは、εισ εν σωμα(一つのからだとなるように)は、「御霊のバプテスマ」の結果、人がキリストのからだなる教会に結び付けられるのでなく、(εισを「のために」と訳して)教会のために「御霊のバプテスマ」が授けられることを言っているに過ぎない。

一番最初の論点は、「大方の新ペンテコステ派が放棄したもの」と言われていますが、たとえば、ロイドジョンズも同じ線で詳細に、また、かなり説得力を持つ議論を展開しています("Joy Unspeakable"p173-179、『ローマ書講解8・5-17』606-609頁)。その場合、御霊はバプテスマの執行者であり、ここでのバプテスマは、水のバプテスマでもなく、また、いわゆる「聖霊のバプテスマ」でもなく、聖霊「によって」キリストとの結合に入れられることを表現していると考えられています。いわば、バプテスマの比喩的用法であって、ローマ6:3、5と同様の用法であるという主張です。これに対する著者(ダン)の反論は、「新約聖書ではβαπτιζεινと共に用いられるενは、決してバプテスマを施す人を示さない」という一点に限られているように見えます。もし反論がこれだけであれば、ενを「によって」と訳すことがいかに一般的であるかを論証したロイドジョンズの議論を覆すのには、いささか弱いようにも思われます。

しかし、もう一点、注目すべき点があるように思われます。12:13の後半、「そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです」という表現です。「私たちはみな・・・一つの御霊によってバプテスマを受け」ということと、「すべての者が一つの御霊を飲む者とされた」ということとは、別個の経験を表現しているものとは思われません。明らかに同一の経験を意味しているように受け取れます。ロイドジョンズもまた、前者と後者は同一の経験を表現していると考えますが、前者を回心(新生)の経験と考える以上、後者もまた回心(新生)経験だと考えます。その上で、これは第二の恵みとしての聖霊のバプテスマとは別の経験であると主張します。しかし、ロイドジョンズが第二の恵みとして位置付ける聖霊のバプテスマを、パウロは、「聖霊を受ける」と表現していることを、ロイドジョンズ自身は認めているはずです。「御霊を飲む」という表現が、「聖霊を受ける」こととは別個の経験であるというロイドジョンズの主張は、かなり無理があるように感じられます。(参照:ヨハネ7:37-39)

他方、ペンテコステ派の教派的背景を持ちつつ、世界的新約学者とされるゴードン・フィーが、この箇所をどう注解しているか調べてみました("NICNT;Corintians"Eerdmans,pp601-603)。まず、フィーは、キリストの体の単一性についての文脈を踏まえつつ、パウロは自然な流れとして聖霊に言及したのだと指摘しています。「彼らは多くはあっても、どのようにして一つの体であるのか。答えは御霊であって、すべての者が同じように御霊を受けているのだ」と(p603)。次に、フィーは、この節で「バプタイズ」という言葉が用いられている故に、パウロはここで水のバプテスマについて語っているのだという見解について、反論を述べています(p604)。その中で、特に、この節の前半と後半とがセム的パラレリズムであって、同じポイントを語っていると指摘しています。これにより、「バプテスマ」が比喩的に用いられていることを立証するわけですが、「それでは、この二つの節は何について語っているのだろうか」との問題に移行します。ここで、回心とは区別される経験としての「御霊のバプテスマ」の見解が取り上げられます。ところが、フィーはこの見解を退けます。パウロはここで、クリスチャン共通の経験としての回心について語っており、その最も決定的要素としての御霊を受けることについて語っているからだと指摘します。但し、「付け加えられる必要があること」として、「そのような比喩的表現(御霊において浸されること、御霊を十分飲むこと)は、続く教会の歴史において多くの者が経験してきたよりもずっと経験的で目に見えて現れとして御霊を受ける経験を意味したのである」と指摘ます(p605)。このような議論を受けて、”in the Spirit”が文法的に具格を表わすもの(instrumental)ではなく、位格を示すもの(locative)であって、彼らすべてが浸された要素を表現しているといると言います。更に、彼らが一つの御霊において浸された結果が”into/unto one body”であると指摘します。すなわち、「私たちは皆一つの御霊において浸されたその結果一つのからだとなった」のだと言います(p606)。

このようなフィーの議論は、全体として、ダンの線に沿うものと言うことができると思います。実際、フィーの議論の要所要所で、ダンの本書が参照箇所として挙げられています。ただ、ダンの本書より詳細な議論を展開しており、特にこの節の前半と後半のパラレリズムに注目していることは、留意すべき点かと思いました。

これらの議論を踏まえると共に、私なりに文脈を踏まえつつ、かつ聖書全体を見渡してみるとき、私としては、ここでパウロは聖霊のバプテスマについて語っており、それは、キリストのからだなる教会に結び付けられたすべてのクリスチャン共通の経験として記されているように思われます。従って、パウロは、ここで聖霊のバプテスマを回心とは区別された第二の恵みとしては扱っておらず、むしろ、すべてのクリスチャン共通の経験であり、少なくとも回心のみわざと固く結び付けられたものとして提示していると考えることができます。

ここで、使徒行伝についての検討を振り返ってみます。使徒行伝において、パウロ自身は、回心と同時に聖霊のバプテスマを受けたと考えられますが、使徒19章前半のエペソの弟子達についての考察では、「信じたとき、聖霊を受けたか」と問うたパウロは、信仰と聖霊の賜物とが時間的に乖離する可能性を知っていたのではないかと考えました。しかし、この節で、パウロは聖霊の賜物がクリスチャン共通の経験であることを前提としているわけです。これをどう考えたらよいでしょうか。

(現段階において)私としては、これを使徒行伝がその歴史文書としての性質の故に、初代教会の姿を外側から描いているからではないかと思います。パウロがここで提示しているように、クリスチャンの内的経験からすれば、聖霊を受けたことはすべてのクリスチャン共通の経験です。しかし、その経験に至るまでの経過においては多様性があるという実際面を、使徒行伝では正直に描いている、ということではないでしょうか。とりあえず、これを当面の整理とさせて頂きながら、続くパウロの手紙の検討に進みたいと思います。

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