那田尚史の部屋ver.3(集団ストーカーを解決します)

「ロータス人づくり企画」コーディネーター。元早大講師、微笑禅の会代表、探偵業のいと可笑しきオールジャンルのコラム。
 

東京の宿 小津安二郎

2011年11月02日 | 書評、映像批評

{あらすじ}

小学生の子供二人を連れた父(喜八)が、仕事を探して毎日歩き回っている。が、雇い手がない。
子供たちは野犬を捕まえてお金に代えて飯代を作っている。彼等が泊まっているのは木賃宿。
そこには、小さな女の子を連れた綺麗な母親がいる。喜八とその子供たちは、この母子と仲良くなる。喜八はこの母にほのかな思いを寄せる。
 偶然飯を食いに入った食堂の女性経営者(おかやん、と呼ばれる。飯田蝶子)が喜八の昔の知り合いで、彼女のおかげで喜八は職にありつける。やっと安定した生活を営むことが出来るようになる。
 喜八が飲み屋で酔っ払っていると、例の母親が酌婦として現れる。事情を聞くと、娘が疫痢にかかり、お金が必要で酌婦になったという。喜八は、金は心配するな、という。
 喜八、食堂の女経営者に無心するが、断られ、泥棒をして、治療費30円を取ってくる。
それを二人の息子に渡して、例の母親のところへ持っていかせる。その間に、食堂の女経営者のところへいって、事情を打ち明け、しばらく息子二人の面倒を見てくれるように頼む。そして、警察に自首をする。

{批評}

音楽は「土橋式トーキー」によって流れるが、台詞の部分は字幕。うろ覚えだが、こういうのをサウンド映画といって、トーキーと区別していると記憶している。
 小津安二郎はこの当時、上流家庭、モボやモガ、大学生、サラリーマンを得意として描いていたが、この映画では、全く無学な下層労働者を描いている。同じ主人公と出演者による「喜八もの」と言われる5,6本の作品のうちの一つである。
 出だしのファーストショットは、空き地に置かれた巨大な木製の電線巻き。エスタブリッシングショットではなく、実に変わったファーストカットである。途中何度もこの電線巻きは登場する。このあたり、小津の風景ショット、空ショットの感覚は特徴的だ。作品全体のうらぶれた雰囲気を最もよく象徴する連想的モンタージュとしてこの道具を使っている。
 また、親子3人が並んで、それを斜め後ろから、横顔が写るように撮影する「並列構図」がこの作品でもみられる。小津の並列構図は『東京物語』などで顕著だが、すでにこの作品で使われている。
 下層労働者に眼が向けられている点、泥棒でトラブルを解決して自首する点、後年の小津安二郎の映画の扱う世界とは非常に異なっている。これは私の勝手な想像だが、この喜八ものは、山田洋次の「寅さん」シリーズの原型になったのではないだろうか? 寅さんと違って、喜八のキャラクターには喜劇性は少ないが、喜八の息子の一人が、喜劇的な存在として上手に描かれている。突貫小僧と言う名前の子役で、小津はこの子役を好んで使い、『突貫小僧』という小品もある。下町人情劇、ルンペン・プロレタリアートが主役であること、喜劇性の点で、「喜八もの」と「寅さん」は非常に近い。
 思いを寄せていた母親が酌婦となって偶然喜八の前に出てくる場面。喜八は、「あなただけはまっとうな職に就くと思っていたが、こんな仕事になぜ身を落としたのか」と言う。母親は涙を流して、娘が疫痢に罹り、お金が必要になったことを打ち明ける。
 このあたりは、戦前の時代風俗を知らないと理解しがたい。「酌婦」というのは「売春婦」を兼ねている、という事実が裏に隠れているのである。小津の『東京の女』でも、弟を大学に通わすために水商売に身を落とした姉が描かれ、これも売春婦で、弟はそれを苦にして自殺する。工場労働者の喜八がしばしば別座敷で酌婦相手に飲んでいる場面があるのだから、戦前の売春相場は相当に安かったのだろう。
 『生まれてはみたけれど』もそうだが、小津は子役の使い方が非常に巧い。この作品でも、喜八の息子二人が、娘と出会ったときに、ベロを出してベー、をする。女の子もベーをする。が、すぐに仲良しになる。
 こういう子供の無邪気な行動を演出させると小津は天下一品である。
上流家庭から浮浪者まで、大学教授からヤクザまで、小津安二郎の映画は幅が広い。基本的に職人監督としてスタートしている。そして熟練工になってから小津の独特の世界観が描かれるようになる。私が戦前の小津安二郎の映画を細かく見ているのはその軌跡を確かめたいからである。


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