那田尚史の部屋ver.3(集団ストーカーを解決します)

「ロータス人づくり企画」コーディネーター。元早大講師、微笑禅の会代表、探偵業のいと可笑しきオールジャンルのコラム。
 

詩的とは?

2016年08月07日 | 芸術・表現

集団ストーカー被害者の方は次のurlを押してください。(遂に決定版が出ました。既に増補改訂版を購入された方  には無料で差し上げました) http://blog.goo.ne.jp/nadahisashi/e/21522a074264a7eb4afb4fd7df2e6531 決定版は出版される可能性もあることをお知らせします(あまり期待しないでください)。

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また「春名先生を囲む会」は私のHPに別途ページを作ったので次のURLをクリックしてお読みください。http://w01.tp1.jp/~a920031141/haruna.html 最新の「春名先生を囲む会」の写真をアップロードしています。この会の趣旨と目的に賛同されるかたは毎月第三金曜日の午後七時半から誰でもOKですから夢庵西八王子店(平岡町)に来てください。正面を右に進むと座敷がありますからその座敷で待っています。なお、料金について変更があります。お酒の飲めない人は2千円にしましたのでお酒の飲めない人もぜひ賛同者となって「春名先生を囲む会」で講義を聞いたり、また積極的に講義をして下さい。

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 今後、微笑禅の会のネット会報は中止し、年に数度の紙媒体での会報を出すことにします。私が小野洋子ほどの資産家であれば年に5千円の会費は無料にしますが、五行歌の会の主宰・草壁先生の言われる通り、お金を出さないと文化は育たないからです。本当に悟ってみたい人は次のurlをクリックして「見性体験記」をご覧ください。http://w01.tp1.jp/~a920031141/zen.html 入会された方には「微笑禅入門―実践篇」(DVD)を差し上げます。もちろん会員から質問があれば答えますので私のメルアドまで質問を下さい。レジュメも作らず睡眠時間4時間で即興で語っています。DVDはボリュームを目一杯に上げて聞いて下さい。wasaburo@hb.tp1.jp (クリックしてもメールが開かないのでコピーして宛て先に入れて下さい)

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日本の詩とは限らずもっと一般的に、詩とは言葉と言葉の連鎖による新しい世界の構築だと私は思っております。ホーマーの「牛の目をしたヘーレー」や、西脇順三郎の「校長が木に登った」などの例のように、常人には常識的には繋がらない「牛の目」と「ヘーレー」や「校長」と「木登り」のような二つの異質な名詞を羅列してみると、突然目の前に今まで存在しなかった新しい世界が生き生きと顕われてきます。

私は若い頃、このような行為を詩人の想像力の豊かさという形で捉えようとしていました。今では、その捉え方が如何に未熟で非生産的な捉え方だと思うようになって居ります。そうではなく、詩的表現の豊かな方には、抽象化能力があるのだと捉えた方が、的を射ていると思えるようになってきたのです。この世の中に、同じ現象は決してありません。量子力学でよく知られている電子の非区別性にしても、その事象が今起こっているのか、昨日起こったかの区別があります。ですから、ある事象と別は事象の間に存在する違いを指摘することは、誰にでも簡単に出来ることです。ところが我々は、ある価値観に基づいて本質的でない部分を切り落とすという抽象化と呼ばれる行為によって、一件何の脈絡のない二つの事象の間に共通な物や、強い相関を見つけ出すことができます。その抽象化能力の優れている者ほど、一件無関係と見える物の間に、意表を突いた強い相関を見い出し、そして、それを目の前に並べて提示することによって、新しい世界を産み出すことが出来るのです。これを詩人達はやっているのだ、そして、それが詩的表現として感覚されるのだという気に私はなって来たのです。私は自然科学者ですが、今まで何人かの優れて生産的な科学者に巡り会えた経験から、その人達の生産性の高さは、まさにここで言う抽象化をいとも容易くやってのける能力にあるのだと言うことを理解しました。詩人にしても、科学者にしても、その生産的な営みの底に在る物は「抽象化」という鍵言葉で括ることことができる思えるようになったのです。

以上が、私の拙い経験から得た「詩的表現」に対する私の私的な理解です。http://okwave.jp/qa/q4543302.html

尚、これは私の持論ですが、詩的表現を歩くことに例えて見ましょう。仮に近くのスーパーまで歩いていくとすれば、これは単に買い物をするための手段に過ぎませんが、歩くプロ、例えばウォーキングの教師や、舞踏家がスーパーまで彼らの独自の動き方をしたとすれば、単なる手段ではなくそれ自体が独立した芸術表現になります。もっとも私が「愛媛からの手紙」http://w01.tp1.jp/~a920031141/ehimekaranotegami.html で考察したように芸術とは人間が生きる上では過剰なものであり、娯楽や道楽趣味は必須(構造的と言い換えても構いません)で、これがないと人間は重い神経症になってしまいます。

勝海舟は「芸術は国家の飾りである」と言っているように、国が戦争や不況などで余裕がないときには芸術や詩歌が必要ありません。あくまでも国家が平和で芸術を楽しむ余裕が出来た時にこそ意味がある行為になるのでしょう。



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