那田尚史の部屋ver.3(集団ストーカーを解決します)

「ロータス人づくり企画」コーディネーター。元早大講師、微笑禅の会代表、探偵業のいと可笑しきオールジャンルのコラム。
 

種種御振舞御書(その2)

2016年03月25日 | 神秘

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前回取り上げた種々御振舞御書の赤文字反転したのは奇跡を起こした部分です。

江の島の方より月のごとくに光っているように見えるものが (ものがたる物) 鞠のようでもあり、辰巳の方角から戌亥の方へ光が移動しています、十二日の夜が明けはじめたころ (あけぐれ) 人の顔もよくは見えないはずなのに、その物の光は月夜のやうに明るくて、人人の顔も皆みることができます、(首切り役の) 太刀取りは目が眩んで倒れ臥してしまい、兵たちも怖気づいて (首切りの熱気が) 興ざめしたようで一町ほども後ろに引いて様子をみているし、あるいは馬から降りてひざまづきながら警戒し、あるいは馬の上にうずくまってしまったものもいて、わたくし日蓮はこう言いました、なぜ皆さまはこのような大きな禍いがある罪人 (召人) を避けて遠のくのです、もっと近くに寄りなさい寄りなさいと大声で呼ぶけれど、急いで走り寄る人もいません、さて夜が明ければどうやっても首を切らなくてはいけないのだから、夜が明ければ見苦しいことにもなるので (今のうちにおやりなさい) とすすめたけれど、かくべつ返事もありません。(注18)

大集経には「日月明を現ぜず (空が暗いこと)」と説かれ、仁王経には「日月度を失う (あわてている???)」と書かれ、最勝王経には「三十三天各瞋恨 (憎みうらむ) を生ず」と見えるのにこれはどうしたことか月天よ、いかに月天よ、と責めてみれば、其の証として天から明星 (金星) のような大きな星が落ちて、前の梅の木の枝に引っかかっている様子であれば、侍たちは皆縁側より飛び出してきて、或は大庭にひれ伏し、或は家の裏手に逃げていきます、やがて即座に天に雲がわいて大風が吹きあれやって来ると、まるで江の島が鳴っているように空が響き、それは大きな鼓を打つっているような音でした。(注21)

これからは完全に私の記憶だけで書くので一部誤りがあるかもしれないことを先に断っておきます。

キリストが湖の上を歩いたとか、死人を蘇生させたとか、弘法大師が様々な奇跡を行ったというのは全て弟子たちによる伝聞に過ぎません。キリスト教の場合は新約聖書における福音書のみにそのことが書かれているに過ぎず、弘法大師の奇跡については高野聖と言われる人たちが各地に伝説を伝えたのみです。

しかしこの種種御振舞御書は明治の大火まで身延山に真筆が存在しているという事実は動かせないのですから、奇跡を起こした本人が書いた唯一の記録だと言えます。日蓮の遺文集(御書)を少しでも読んだ人なら日蓮が嘘をつくような人物ではなかったことは明白に分かるでしょう。

それにしてもこのような奇跡を起こした日蓮とは一体どのような人物だったのか出来れば会ってみたい気がします。

一部の学者の中ではこの御書を偽物だという人もいる出しいですが、それは自分を尺度にしてその現象が信じられないから言っているだけのことです。私が実験映画を批評していた時代にはこのように自分の感性だけを尺度にしている批評を「トコロテン批評」と蔑称していました。まさに天地と一体になればこのような軌跡が起こるものだと私は思います。

ちなみに石原莞爾は「『世界最終戦論』(後に『最終戦争論』と改題)を唱え、東亜連盟(日本、満州、中国の政治の独立(朝鮮は自治政府)、経済の一体化、国防の共同化の実現を目指したもの)構想を提案し、戦後の右翼思想にも影響を与える。その一方で、熱心な日蓮主義者でもあり、最終戦論では戦争を正法流布の戦争と捉えていたことはあまり知られていない」と言われています。また石原莞爾が属していた国柱会には宮沢賢治も属しており彼らが天才だったことは疑いようの事実です。また国柱会が最初に標榜した「八紘一宇」(道義的に天下を一つの家のようにすること)は、元スケバン女優の三原じゅん子が口にするべきような浅い言葉ではありません。ある読者はブログで面白い感想を述べているのでぜひ次のurlをクリックして下さい。http://blogos.com/article/108280/

なお、私が創価学会の第一の標的になっていると親族に漏らした創価学会本部職員の従兄弟が、イスラム教の教祖ムハンマドが「山よ動け、と命じたが、山が動かなかった。そこで自分のほうから山に向かって歩いて行った」という逸話を感動して語っていたことがありますが、日蓮と比べれば、このムハンマドの言葉は一休さんのトンチ程度のレベルでしょう。

このブログの読者の中にも奇跡など無い、と思っている人が大半でしょうが、この日蓮の御書が残っている限り、奇跡はある、と信じざるを得ません。日蓮自身が「理証より文証、文証より現象」と書いている通りです。

最後に、日蓮宗と日蓮正宗との間には大した差が無いことを伝えておきます。日蓮宗では日蓮はあくまで「大菩薩」であり教祖は釈尊、となっていますが、実際説法を通して語られるのは日蓮のことばかりです。日蓮正宗の場合は言うまでもなく日蓮本仏論ですから、日蓮は報身如来になっています。私は八王子にある日蓮宗の寺院二か所の信徒だったこともあるので両者の同異がよく分かります。

私は創価中学にいた頃から次のように思っていました。日蓮の思想は全ての民衆が仏になれるというものである。であるならば創価学会の池田会長(当時)だけを本仏として敬うのはおかしいのではないか。彼は信者の一代表に過ぎず、彼が本仏であるならば会員も全員が本仏である、と考えるのが論理的な考え方ではないだろうか・・・と。



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