那田尚史の部屋ver.3(集団ストーカーを解決します)

「ロータス人づくり企画」コーディネーター。元早大講師、微笑禅の会代表、探偵業のいと可笑しきオールジャンルのコラム。
 

早稲田小町と言われた超美少女と付き合った思い出

2016年02月11日 | 思い出の記

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 また「春名先生を囲む会」への提案に共鳴される方は私のメルアド wasaburo@hb.tp1.jp までメールを送ってください。先日、立川の便利屋さん伊藤さまが我が家に来られ、名刺をもらいましたが「日本生涯現役推進協議会」の事務局に勤められている方なので何回も講義をしてもらおうと思います。ところで、伊藤さまが第二金曜日は何かの勉強会があるから第三金曜日に出来ないかと言われ、鍼灸院の瀬戸先生はOKでした。春名先生とはやっと連絡がとれて、毎月第三金曜日なら午後7時半からなら来られるそうです。なるべく急いで来られるそうですが、皆さんは7時に集まって軽く一杯やりながら春名先生が来られるのを待つことにしましょう。なお、五行歌はまだメールが届いていませんが、題詠は「炎」。これを五行歌の中に入れても入れなくても構いません。五行歌は五行以外にルールはなく、ただ「詩的な」内容であることが必須条件です。

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私が浪人時代の話である。五行歌に

 

早稲田鶴巻町三畳下宿 夢二と志ん朝と 卓球場の美少女と みなグラスに混ぜて 雨の音を聞いている

という歌を詠んだことがあるが、ここに出てくる卓球場の美少女は、浪人下宿の全員がナンパしようと狙っていた。しかし誰もナンパすることが出来なかった。それには理由がある。私は「血と骨」という映画を見て少しも驚かなかった。というのは在日の世界では当たり前のことだからである。早稲田小町の家には在日朝鮮人の父親と本妻とお妾さんが同居していた。共に日本人である。また早稲田小町の兄は高校生の時にノミ屋で大きな借金を背負いヤクザに追われていた。そういう家だったので誰もナンパできなかったのである。

浪人仲間たちは、今は無き「宮本愛子下宿」という賄つきの下宿に暮らしており、近くの巽ビルの確か3階にある卓球場に通っていた。そこに時々小さな座敷犬を抱いた美少女が現れるのでそれを見に仲間たちは卓球場に通ったのである。私は早稲田大学第一文学部に憧れていたが、神戸にある西の学習院と呼ばれる甲南大学に行くことになった。そこでは音楽と体育の授業しか取らず、昼間から酒を飲んでボードレールや中原中也の詩を読んで暮らしていた。詳細は見性体験記に書いてあるが、ある男が私を馬鹿にしたのを契機に「1日5時間だけ3か月は受験勉強に打ち込む」と決意して、翌年競争率45倍の早稲田大学第一文学部に合格した。

秋の文化祭の時である。私は早稲田小町をナンパするために、浅草寺のほおづき市に出かけ、ほおづきの植木と回り灯籠を買ってきた。そして表玄関から堂々と入り、〇〇ちゃんいますか?、と言ってその植木と回り灯篭を渡し、「今度の文化祭に一緒に行かない?」と言ってお互いの電話番号を交換した(当時は携帯が無かったので電話を掛けると必ず彼女の親が出たものだ)。

そして文化祭の時に告白をして二人は付き合うことになった。ベッドインしたきっかけは、前のブログに書いた実験映画を上映するので有名な〇〇―〇〇〇〇〇に二人で行き、寺山修二の「青少年のための映画入門」を見た後だった。その映画はタイトルと大違いでかなり大胆なヌードシーンや男のアレが丸写しになるのである。彼女は顔が真っ赤になり、私は慌てて「まさかこんな映画だとは思わなかったんだよ。ごめんね。誘うときはキッパリと直球で誘うから」と言って、そのまま新大久保にあるラブホに入ったわけである。

彼女は最初は非常にウブで私が浮気をしていても黙って付いて来るような女性だったが、ある時から別人のように変わってしまった。それは彼女が有名な音大に入ったからである。音大は指導教授に女性のほうから媚を売らないと有名なコンテストに出ることが出来ない上に、スポンサーが必要になる。要するに音大の女子大生は「売春婦」と呼んでもいいほど乱れ切った生活をしていた。事実、彼女の親友は会社の経営者に誘われて別荘に泊りがけで遊びに行った(これが何を意味しているかは読者の皆さまには想像がつくと思う)。もう一つ読者にいいことを教えよう。これは今後のブログのネタになるかもしれないが、アメリカに留学する女性は大抵は危険ドラッグに嵌り、黒人と性交をするために日本人の相手は出来ない体になってしまう。事実ある女性から聞いた話だが、生理の時にタンポンを入れても出血が漏れてしまうのでタンポンを入れた上に生理用のナプキンをするという。

また彼女はバイトの度に上司と寝るような女になってしまった。橋幸夫ショーのバックコーラスを務めた時も志賀〇という妻子持ちのヤクザ俳優に誘われて一週間の間、彼と一緒に旅行に出かけてしまった。彼女自身「二人目の男と経験すると何人とヤッても同じことだわ」などと別人のような言葉を吐くようになった。

私は当時純情な面があったので、心痛の余り彼女の兄に相談に行くと「うちは金持ちの時代があったらから女はその頃が忘れられないのでどうしても金持ちと付き合いたがるんだよ。ところでユー、俺の妹を本当に大事にしてくれる」と矢沢栄吉そっくりの口調で私に問いかけた。その部屋には大きな矢沢永吉のポスターとバスタオルが貼ってあった。この兄は朝鮮高校の番長のような存在で、日本人高校と大喧嘩になった時は何台ものパトカーが来たことを嬉しそうに話してくれた。

彼女との付き合いは彼女が結婚してからも続いた。彼女の夫が留守の時に私を電話で呼んで同じベッドで寝たものだ。その部屋に行くと大藪春彦の文庫本が多数本棚に置いてあったため、純文学の好きな私はガックリきてその気になることが出来ず眠ろうとしたら「何故抱いてくれないのよ」と彼女は怒ったが私はそのまま寝てしまった。

その後彼女はイギリスで暮らすと言って連絡が途絶えたままだったが、あるとき突然彼女からメールがあった。私の名前をパソコンでネット検索して見つけたとのことで、本当は彼女の夫の父親の介護のために長年北海道で暮らしていたらしい。北海道で苦労したらしく彼女は聖女のように清らかな性格に戻っていた。そして何度も会いたいとメールをくれたが、私は「会わぬが花」と思い、会うことは無かった。そして卓球場で出会った頃の話をすると「本当は私もあなたに逢いたかったから卓球場に現れたのよ」と言ってくれた。その時の喜びはとても言葉では表現できない。

やがて今度は私のほうがネット検索を掛けて彼女の職場を見つけメールを出したところ、彼女は公務員になるギリギリの45歳に保育士の免許を取り、途中で退職して会社を設立して〇〇〇〇の〇の児童指導員になっていた。何度かメールのやりとりが続いていたが、途中から全く連絡が途絶えてしまった。おそらく夫にバレてしまったのか、あるいは私は創価学会批判の有名人らしいので何らかの圧力があったものと思われる。

事実、突然私の妻子が失踪して人生で最もお金に困っていた時、彼女から1万円を借り、それを昔作っていた過激なHPで公表し「別れた女に悪口を言われるようでは本当の男ではない」と書いたところ、彼女の夫がそれを読んでしまったと彼女自身から聞いたことがある。彼女の夫は舞台演出家なので(無名だが)、その方面は創価学会が権力を持っているため、彼女の夫も創価学会に係わっているとしても少しも不思議ではないだろう。

彼女は元々頭がいいので今は連絡を絶っているが、私は霊感が鋭いので晩年はまたあの初恋時代のような関係になるだろう。