那田尚史の部屋ver.3(集団ストーカーを解決します)

「ロータス人づくり企画」コーディネーター。元早大講師、微笑禅の会代表、探偵業のいと可笑しきオールジャンルのコラム。
 

私が指導教授に絶縁状を書いた理由

2016年12月11日 | 思い出の記

集団ストーカー被害者の方は次のurlを押してください。(決定版が出て既に増補改訂版を購入された方には無料で差し上げました) http://blog.goo.ne.jp/nadahisashi/e/21522a074264a7eb4afb4fd7df2e6531 電子出版される可能性もあることをお知らせします。

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また「春名先生を囲む会」は私のHPに別途ページを作ったので次のURLをクリックしてお読みください。http://w01.tp1.jp/~a920031141/haruna.html に最新の「春名先生を囲む会」の写真をアップロードしています。この会の趣旨と目的に賛同されるかたは毎月第三金曜日の午後七時半から誰でもOKですから夢庵西八王子店(平岡町)に来てください。正面を右に進むと座敷がありますからその座敷で待っています。なお、料金について変更があります。お酒の飲めない人は2千円にしましたのでお酒の飲めない人もぜひ賛同者となって「春名先生を囲む会」で講義を聞いたり、また積極的に講義をして下さい。今月春名先生を囲む会は春名先生が原因不明で年中痛い方、歩いて痛い方を相手に痛みと拘縮のコンディショニングを施されます。該当する方はぜひ春名先生の施術を受けて下さい。また今年の反省と来年度の計画を話し合いますので、興味のある方は第三金曜日7時半に夢庵西八王子店に来てください。正面から右のテーブルか座敷で開かれます。

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  今後、微笑禅の会のネット会報は中止し、年に数度の紙媒体での会報を出すことにします。私がロックフェラーほどの資産家であれば年に5千円の会費は無料にしますが、五行歌の会の主宰・草壁先生の言われる通り、お金を出さないと文化は育たないからです。本当に悟ってみたい人は次のurlをクリックして「見性体験記」をご覧ください。http://w01.tp1.jp/~a920031141/zen.html 入会された方には「微笑禅入門―実践篇」(DVD)を差し上げます。もちろん会員から質問があれば答えますので私のメルアドまで質問を下さい。レジュメも作らず睡眠時間4時間で即興で語っています。DVDはボリュームを目一杯に上げて聞いて下さい。wasaburo@hb.tp1.jp (クリックしてもメールが開かないのでコピーして宛て先に入れて下さい)

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 これは牧野先生に詳しく話してありますが、憶測、邪推が広まる可能性がありますのでこの際に明記しておきます。ロータス文化学院構想の大分前の話です。

私が岩本教授の誘いで非常勤講師として上京したとき「君を大学教授にするために最大限の努力をする」と約束され、私も命じられた論文、評論等を忠実に執筆して来ました。早大、同専門学校などで6年間、東京工芸大学で7年間、延べ13年教え、とくに東京工芸大では「伝説の授業」と言われ50人教室から3年目以降は大教室に移動したことなど、同大学で教えているビジュアル・ブレインズの大津はつねさんがご存知です。

同大学で教えているときに、日大から早大大学院に移って来た学歴ロンダリング組みの私の後輩・西村安弘氏が正教員に抜擢されました。彼は大学院に来た時ときから「私は研究者ですので」というのが口癖で「西村研究者」とアダナされ、要するに「浮いた存在」でした。当時彼は論文をたった1本しか書いておらず、私から見れば研究批評実績がない後輩が頭越しに東京工芸大に正教員として入り、私の論文を彼が査定するという実に奇妙な状態が4年ほど続きました。しかしこれだけが岩本教授と絶縁した理由ではありません。

私がHPに書く内容を一々岩本教授にメールでご注進する不明の人物がおり(誰か分かっていますが敢えて書きません)、その度に八王子から早稲田の研究室まで呼び出され注意されました。「蓮実重彦を批判しないこと」「創価学会を批判しないこと」「こういう表現は良くない」等々、つまり正直に自分の思っていることをHPで発言すると、それが元で足を引っ張られるから用心するように、との指導でした。これは私を教授に推すための配慮ですし、親心とも取れます。ただ私が思ったのは「問題はそういうチクリをする人物のほうにあるのではないか」「自分の正直な気持ちを押し殺してまで猟官運動をするのは正しい生き方だろうか」「国家に悪をなす権威を公然と批判すれば教授になれないとしたら大学のシステムのほうに欠陥があるのではないか」という疑問です。また電話で済む話なのになぜ八王子から早稲田まで呼び出す必要があるのか、等々疑問が募ってきました。

他にも、岩本教授の推薦でフィルムセンターに入り、その後文科省の官僚になった佐伯氏も問題のある人物でした。私が必死になって戦前の小型映画を今発掘しないと手遅れになる、と訴えた時は無視しながら、後年国際的なキュレイター等の大会があったときにこの必要性がテーマになり、慌ててフィルムセンターにもその部門を作りました。ところが、どういう理由か、そこで働いていた大学院時代の友人から「那田を立ち入り禁止にする」と佐伯氏が語っていると聞きました。

岩本教授は恩師ですから非難するつもりはありません。こういう人間を優遇してしまう面が岩本教授には確かにありました。これらの疑問が重なり絶縁を決断したわけです

尚、この決断を喜んでくれたのは私の母と心療内科の主治医です。私は郷里で鬱病と診断され、最終的には禅の修業を通して治癒しましたが、その前の話です。鬱病は完全主義的性格から生まれる気分障害です。主治医には正直に事実を述べる必要があり、私の私生活の悩みのほとんどを報告をしていました。その主治医が「君のストレスの最大の原因はそこにあった。縁を切ってよかった」と言われました。母は私が郷里にいたときに何度か電話を受けており「あの先生はヒステリック過ぎる。松本先生と人柄が全く違う」と常々言っていました。決定的な理由はまだ他にもありますが、述べませんし、絶縁の手紙にも書いていません。

那田は早稲田大学をクビになったなどという邪推が広がるのを防ぐために事実をここに残す次第です。


初めて車を買って高知まで出かけた時の話

2016年12月05日 | 思い出の記

集団ストーカー被害者の方は次のurlを押してください。(決定版が出て既に増補改訂版を購入された方には無料で差し上げました) http://blog.goo.ne.jp/nadahisashi/e/21522a074264a7eb4afb4fd7df2e6531 電子出版される可能性もあることをお知らせします。

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また「春名先生を囲む会」は私のHPに別途ページを作ったので次のURLをクリックしてお読みください。http://w01.tp1.jp/~a920031141/haruna.html に最新の「春名先生を囲む会」の写真をアップロードしています。この会の趣旨と目的に賛同されるかたは毎月第三金曜日の午後七時半から誰でもOKですから夢庵西八王子店(平岡町)に来てください。正面を右に進むと座敷がありますからその座敷で待っています。なお、料金について変更があります。お酒の飲めない人は2千円にしましたのでお酒の飲めない人もぜひ賛同者となって「春名先生を囲む会」で講義を聞いたり、また積極的に講義をして下さい。今月春名先生を囲む会は柔道整復師の中溝誠吾氏が「気」について講演されます。興味のある方は第三金曜日7時半に夢庵西八王子店に来てください。正面から右のテーブルか座敷で開かれます。

 

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  今後、微笑禅の会のネット会報は中止し、年に数度の紙媒体での会報を出すことにします。私がロックフェラーほどの資産家であれば年に5千円の会費は無料にしますが、五行歌の会の主宰・草壁先生の言われる通り、お金を出さないと文化は育たないからです。本当に悟ってみたい人は次のurlをクリックして「見性体験記」をご覧ください。http://w01.tp1.jp/~a920031141/zen.html 入会された方には「微笑禅入門―実践篇」(DVD)を差し上げます。もちろん会員から質問があれば答えますので私のメルアドまで質問を下さい。レジュメも作らず睡眠時間4時間で即興で語っています。DVDはボリュームを目一杯に上げて聞いて下さい。wasaburo@hb.tp1.jp (クリックしてもメールが開かないのでコピーして宛て先に入れて下さい)

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私が大学院を修了して郷里愛媛に戻っていた時の話である。地元の自動車教習所に行って運転免許を取ることが出来た。その時の適性検査の判断力が満点だったので教官が「10年以上この仕事をしているが満点の人は初めて見た」と言ったのがこの時である。

初めての車は車検付き20万のスプリンターだった。

 

それを購入してから、「毎日10キロは走る」と決意して雪の降る日に高知の梼原町まで出かけた。ここは維新の道をして知られ、六志士の墓がある。私は梼原町でサバの丸焼きなどの買い物をして家に帰ろうとした。愛媛と高知の間には高剣山トンネルがあり、そこを抜けると雪がアイスバーンになり大型トラックが道の横に停まっていた。私はギアをセカンドに入れて、前に通った車の轍の後を走っていたが、思わずスリップをしたときにブレーキを踏んでしまった。こういう時は谷川にハンドルを切るように習っていたが、瞬間的に私は山側にハンドルを切った。すると180度スピンして運よく山側の雪の積もっている方に車体がぶつかって止まった。その地域では谷川にはガードレールがついていなかったので谷川にスピンしたら谷底に落ちて死んでいただろう。

夜中に家に帰ると母親が「お前は命が要らないのかと思った」と言った。その後何度も高剣山トンネルを超えて高知に行ったが、シーマを20万円のスプリンターで追い抜いたこともある。さすがに坂道になるとシーマには負けてしまった。

フロイトによれば車は女性の象徴とされている。私は駐車場が広ければ中古の車を片っ端から買って置きたいタイプ。これは浮気者の印。新車を買って長く乗り続ける人は愛妻家(一穴主義)の印、と言われている。私は様々な人にこの話をしてどちらのタイプか尋ねてみるが、100%の確率で当たるので、このブログの愛読者も是非試して欲しい。


単独右翼で日本最強と言われるO会長をタクシーで送った話

2016年12月04日 | 思い出の記

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 今後、微笑禅の会のネット会報は中止し、年に数度の紙媒体での会報を出すことにします。私がロックフェラーほどの資産家であれば年に5千円の会費は無料にしますが、五行歌の会の主宰・草壁先生の言われる通り、お金を出さないと文化は育たないからです。本当に悟ってみたい人は次のurlをクリックして「見性体験記」をご覧ください。http://w01.tp1.jp/~a920031141/zen.html 入会された方には「微笑禅入門―実践篇」(DVD)を差し上げます。もちろん会員から質問があれば答えますので私のメルアドまで質問を下さい。レジュメも作らず睡眠時間4時間で即興で語っています。DVDはボリュームを目一杯に上げて聞いて下さい。wasaburo@hb.tp1.jp (クリックしてもメールが開かないのでコピーして宛て先に入れて下さい)

 

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私が早稲田大学の非常勤講師をしていた頃の話である。護国団の故・石井一昌さんが日本中の右翼の幹部を新宿近くの料亭に集めて新年会を開いた。上座には私を中心に右には大日本愛国党最高幹部会議長の故・芦名先生が座り、左側にはN会のO会長が座っていた。宴もたけなわになったころ私は芦名先生に、先生のような立派な方でも企業恐喝をするのですか、と聞いたところ、「那田さん、私のような紳士的に見える人間が恐喝をすると以外に効果的なのですよ」と教えてくれてた。私の役目は乾杯の音頭を取ることだった。まず皇居に向かって礼、といい、君が代を歌った後は「今日はお日柄も良く、天皇陛下におかせられましては無時癌の手術も成功しました。我々愛国者はお国のために命を張って戦いましょう。乾杯!」と言うのである。

私の持論だが、弱いものを恐喝するのはイジメだが、大企業の弱点になる証拠を押さえて恐喝し、右翼団体の資金源にするのは必要悪だと思っている。

新年会が終わった後は私は今のように経済的に困っていなかったのでタクシーで八王子まで帰ることにした。O会長は自分の会員たちに、飲酒運転はOKだがポリには捕まらないように、と言っていた。私は八王子まで帰るついでにO会長をタクシーに乗せて途中まで送ることにした。

このO会長は全科はなく(石井一昌さんは殺人未遂を中心に全科13犯だったと記憶している)、某有名企業のクレーマー対応係として黙っていても年間3千万は入っていた。その上息子さんは早稲田大学の政経学部に通っている。

 

そのO会長をタクシーに乗せ様々な話をしていた時、O会長は企業恐喝のノウハウを教えてくれた。ここで公開したいが、真似をする人が出ると困るので敢えて述べません。

するとタクシーの運転手は渋滞になるとメーターを落としてくれた。O会長を家の近くで降ろした後、私は次の右翼の集まりの時にどのような演説をしようかと酔いながらも頭の中で考えていた。するとタクシーの運転手は「お客さん、いま演説をしてますね」と私の心を見抜いたのである。タクシーの運転手だからと言って馬鹿にしてはいけない。このように他心通を備えた人物が中にはいるのである。更に私が八王子の自宅で降りるときには「お勤めご苦労さまです。少ないですが運賃から5千円引かせてもらいます」と言ってくれた。

石井一昌さんも芦名先生も亡くなられたがO会長は今でも健在なので、たまには会いたいと思うこの頃である。


藤あや子と付き合っていたかもしれない話

2016年12月03日 | 思い出の記

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かつて微笑禅の会に、パウロこと広瀬一郎という男がいた。私と同じ愛媛県出身のボヘミアンで親や親戚はみな東大の医学部の出身で医者だったが、彼だけが東洋大を出て親から何億もの借金をしながらたった数百万しか返していなかった。彼の仕事は海外へ行き外人モデルを集めることと、自分の家(聖蹟桜ヶ丘にあった)をゲストハウスにして外国人を泊めることだった。

一方、微笑禅の会の会員ではないが、当時の私が作った掲示板の常連に日光の老舗の土産店の息子のコーリンさんという男がいた。彼は上智大学を出て店の経営を手伝っていたが、母親が経営の権利を握りパチンコばかりしていたので、コーリンさんは家庭教師をして経済を支えていた。また彼には鬱病の病があった。

そこで私はパウロにコーリンさんの店を立て直すように使命を出した。パウロはコーリンさんの家のアゴアシ付きで日光市に出かけ、市会議員や市長に、日光のホテルを海外の芸術家がタダで泊まれるようにして日光自体を国際的な観光地にするように計画書を出した。そうすればコーリンさんのお土産屋も利益が出ると思ったからである。

コーリンさんは微笑禅の会の会員ではなかったが非常に真面目な人間だった。小泉=竹中政権の時、私が掲示板で「小泉にはSPがついているから無理だが、竹中は慶応大学で教えているから社会人入試組の振りをして殺す」と書いた時にコーリンさんは「那田先生が刑務所に入ったら指導する人がいなくなります。いざとなったら私が竹中を殺すので今は思いとどまって下さい」と書きこんでいた。彼がそう書かなかったら私は今頃は刑務所の中にいるだろう。

ところで、パウロは外人モデルを集めた会社を経営しているだけあって芸能界にコネがあった。私は藤あや子のファンなので彼女と逢い、どっちが自殺するか試してみたいと言ったことがある。というのは私の記憶では藤あや子は最初の夫(民謡の師匠?)を振った時に夫は自殺し、芸能界に入りテレビディレクターと不倫をして彼を振った時にまた彼は首を吊って死に、年の差恋愛と言われた木村一八と付き合って振ったあと木村は車上生活者になりトランクに日本刀を隠し逮捕されるなど、魔性の女と言われていたからである。私も当時は見つめるだけで女を落とすことが出来たので、パウロに藤あや子と私を日光のホテルで合わせ、どちらが自殺するか試しましょう、と持ちかけたところパウロは喜んでOKした。

藤あや子

しかしパウロは構想だけは大きいが実行力が全く伴っていなかったために、コーリンさんの店を立て直すことも、私に藤あや子を合わせる話も実現しないまま、スペインの貴族の娘と結婚して日本を去ってしまった。彼は日本を去る時に、スペインで1千万ほど稼いだら微笑禅の会に寄付します、と約束したので、彼の掲示板に、一千万寄付する話はどうなったかと聞いたところ、当時、私の掲示板は創価学会の工作員と私との論争が激しく続いており、私は片っ端から論破していたためか「那田さんは勝劣主義、私は釈迦の悟りしか認めません」と言って微笑禅の会を退会した。彼には勝劣主義の意味も、釈迦が伝説上の存在であることも知らなかったようだ。彼はFXもやっており、私が競馬が上手いためかしきりに私にFXを勧め、彼の掲示板の常連で微笑禅の会の会員だった和子さんもFXに手を染めていた。

その後コーリンさんが自殺したという噂を聞き、私は日光市観光協会に電話したところ、コーリンさんの店の名前は消えていた。


牧野さんの家の方に

2016年11月29日 | 思い出の記

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 今後、微笑禅の会のネット会報は中止し、年に数度の紙媒体での会報を出すことにします。私がロックフェラーほどの資産家であれば年に5千円の会費は無料にしますが、五行歌の会の主宰・草壁先生の言われる通り、お金を出さないと文化は育たないからです。本当に悟ってみたい人は次のurlをクリックして「見性体験記」をご覧ください。http://w01.tp1.jp/~a920031141/zen.html 入会された方には「微笑禅入門―実践篇」(DVD)を差し上げます。もちろん会員から質問があれば答えますので私のメルアドまで質問を下さい。レジュメも作らず睡眠時間4時間で即興で語っています。DVDはボリュームを目一杯に上げて聞いて下さい。wasaburo@hb.tp1.jp (クリックしてもメールが開かないのでコピーして宛て先に入れて下さい)

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私は早稲田大学大学院の修士課程に4年の休学を含めて計六年間在籍した。
 第一に肝臓病、第二に数千万の出資をして作った会社を親族に騙し取られた母に代わっての法廷闘争、それから余りに完璧な修士論文を構想したために原稿が書けない、という三重苦の状態にあったからである。
 私は修士二年のときから映画雑誌に膨大な量の批評や評論を書いていたので、それを修士論文に編集して「戦後実験映画論」にしようと思っていたのだが、指導教授の提案で、戦前の実験映画をテーマにしてはどうか、と言われ、方針変更となり「戦前日本における前衛映画の受容と展開」というタイトルになった。
 当初は「キネマ旬報」や「映画往来」を一次資料にして、ある程度の構想は出来ていた。また、戦前日本の小型映画運動は前衛運動でもあった、ということは知っていたので、単行本レベルでは小型運動の概要も分かっていた。
 牧野守氏と出会ったのは、もうこれ以上休学すると除籍になるという修士六年目の夏、「早稲田大学映画史研究会」の帰り道である。小型映画の話をしたところ、手を引っ張るようにして、「私私は早稲田大学大学院の修士課程に4年の休学を含めて計六年間在籍した。
 第一に肝臓病、第二に数千万の出資をして作った会社を親族に騙し取られた母に代わっての法廷闘争、それから余りに完璧な修士論文を構想したために原稿が書けない、という三重苦の状態にあったからである。
 私は修士二年のときから映画雑誌に膨大な量の批評や評論を書いていたので、それを修士論文に編集して「戦後実験映画論」にしようと思っていたのだが、指導教授の提案で、戦前の実験映画をテーマにしてはどうか、と言われ、方針変更となり「戦前日本における前衛映画の受容と展開」というタイトルになった。
 当初は「キネマ旬報」や「映画往来」を一次資料にして、ある程度の構想は出来ていた。また、戦前日本の小型映画運動は前衛運動でもあった、ということは知っていたので、単行本レベルでは小型運動の概要も分かっていた。
 牧野守氏と出会ったのは、もうこれ以上休学すると除籍になるという修士六年目の夏、「早稲田大学映画史研究会」の帰り道である。小型映画の話をしたところ、手を引っ張るようにして、「私の家に小型映画雑誌があるから来なさい」と誘っていただいた。思えば、これが不運の始まりだった。ピーター・B・ハーイ氏が「牧野コレクションに出会っていたら『帝国の銀幕』は書けなかった」と述べているが、私の場合、その膨大な資料という悪魔に出会ってしまったのである。
 高田馬場のアパートから国分寺の牧野家まで毎週通った。なぜか私が出かける日に限って雷雨になったり大雪が降ったりした。あれは神様が、牧野コレクションに手を出してはいけない、と警告を発していたのに違いない。
 行くたびに膨大な雑誌を近所のコンビニでコピーした。毎回五千円から八千円ほどコピー代に使った。その作業で膝が悪くなるほど立ち続けた。そして大抵夕食をごちそうになった。
その作業がなんと修論締め切りの一週間まで続いたのである。もちろん学内にある全ての資料はコピーし終えていた。
そのコピー資料の山を見て、これはヤバイ、と気づいた。いわゆる「資料倒れ」である。私は異常に神経質で完全主義の欠点があり、手元の資料で完成させようという割り切りが出来ず、まだまだある牧野コレクションの未コピーの部分ばかりが気になるような性格なので、頭が真っ白になってしまった。
そもそも修論締め切りの二ヶ月ほど前から頭が空回りし始めた。新しいコピーの束を抱え込むたびに論文の構想が無限に広がり収集がつかなくなるのである。 
 結果として私は未完成の論文を提出するほかなくなり、指導教授の慈悲によりやっと修了できたのだった。そういう訳で、私が修士論文を完成できなかったのは牧野さんのせいであり、私は牧野さんを怨んでいる・・・・・というのはもちろん冗談である。
 実は私は指導教授から、君にはぜひ博士課程に進んで欲しいから良い論文を書くように、と耳打ちされていた。当時早稲田の博士課程は過去五年の間一人の合格者もいなかったので、これは大変な名誉であり、私は感激に打ち震えた。普通の人間ならこの厚意を奮発の材料として論文執筆に打ち込むだろう。ところが私は普通の人間ではなかった。
 私は一人っ子で、当時70歳前後の母に仕送りをしてもらって生活していた。父は学生時代に他界していたので、一人暮らしの母が商売(ブティック)をしながら月々三十万もの大金を送ってくれていたのである。しかも親族の詐欺により貯金は底を突いていた。もし私が博士課程に進めば、母からの仕送りに甘え続けねばならなくなる。「博士万年」と言って、一定の学問を完成させて収入を得る、というところまで行くにはゴールが見えない、というのが博士課程に在籍する人間の運命なのだ(私は肝臓が悪かったのでアルバイトをする体力はなかった)。「ああ、俺は一生母親の仕送りで生きて、そして母は田舎(愛媛)で孤独死するのだろう」という思いが、強迫観念のように心を占め続けた。
さらに私は文学青年だったので、ある意味で日本最高の名文といえる次のような手紙を知っていた。以下引用する。
 野口英世の母「野口シカの手紙」

おまイの。しせ(出世)にわ。みなたまけ(驚ろき)ました。わたくしもよろこんでをりまする。
なかた(中田)のかんのんさまに。さまにねん(毎年)。よこもり(夜篭り)を。いたしました。
べん京なぼでも(勉強いくらしても)。きりかない。
いぼし。ほわ(烏帽子=近所の地名 には)こまりおりますか。
おまいか。きたならば。もしわけ(申し訳)かてきましよ。
はるになるト。みなほかいド(北海道)に。いてしまいます。わたしも。こころぼそくありまする。
ドか(どうか)はやく。きてくだされ。
かねを。もろた。こトたれにこきかせません。それをきかせるトみなのれて(飲まれて)。しまいます。
はやくきてくたされ。はやくきてくたされはやくきてくたされ。はやくきてくたされ。
いしよ(一生)のたのみて。ありまする。
にし(西)さむいてわ。おかみ(拝み)。ひかしさむいてわおかみ。しております。
きた(北)さむいてはおかみおります。みなみ(南)たむいてわおかんておりまする。
ついたち(一日)にわしおたち(塩絶ち)をしております。
ゐ少さま(栄昌様=修験道の僧侶の名前)に。ついたちにわおかんてもろておりまする。
なにおわすれても。これわすれません。
さしん(写真)おみるト。いただいておりまする。はやくきてくたされ。いつくるトおせて(教えて)くたされ。
これのへんちちまちて(返事を待って)をりまする。ねてもねむれません。



  この野口シカの手紙の文句が頭を駆け巡り始めたのである。一人の学者が生まれるには一家が犠牲になる、と言われるが、まさに私の場合も郷里の母に一生仕送りをさせ続け、自分一人が学者になって母を孤独死させる・・・・・というイメージが頭を駆け巡った。つまり私の修士論文の作業は、博士課程に入れるという高揚感と、母を不幸にするだろうという非痛感が共存し、完全にアンビバレントな心境になって自我が崩壊しかけていたのである。
それで不思議なことが起こった。締め切りの三日前、もうその頃は徹夜続きでロクに頭が回っていなかったが、とりあえずいいところまでは書けていた。締め切りぎりぎりで完成できそうな気配だった。その論文の出だしは、英語文献を引用して「前衛映画とは何か」という定義をした部分だった。原稿用紙にして30枚以上あったと思う。夜中にその部分を添削していて、一行削除しようと思った。一行削除をするには、私のワープロでは「機能1」ボタンを押して「実行」を押す。ところが何気なく「機能2」ボタンを押して「実行」を押してしまったのだ。瞬間「全文削除していいですか」という警告文が出た(はずだが)、私は「実行」ボタンをいつものように無意識に二度打ちしていた。
 嘘だろうと思った。翌日になればどうにか救済方法が見つかるだろうと思い、その夜は酒を飲んで寝た。
 翌朝起きて、昨日の出来事は夢だったに違いない、と念じながらワープロを開いたが、やはり論文の中心になる文書が消えている。メーカーに電話したが救済策は無かった。私は完全にパニックに陥った。残り一日しかない。もう翻訳している時間は無い。それでもどうにかして辻褄をつけようとして出来る限りのことはやった。が、論文締め切りの早朝、無駄な努力であることを悟った。それで一番仲のいい先輩・奥村賢氏に電話を入れて、大学院を中退します、と報告した。奥村氏は「馬鹿野郎、これから行くからそこにいろ」と言ってタクシーで駆けつけてくれ、茫然自失としている私に代わって、ワープロに残っている諸文書を印刷してくれた。
そういうわけで奥村氏と指導教授の慈悲のお陰で、未完成ながらどうにか中退せずに済んだわけだが、このボタン一つの操作ミスが人生を変えたのである。(しかし、それは私の無意識が望んでいたことなのかもしれない)
その後、批評や論文の要請があり2年ほど東京に残っていたが、ついに仕送りも不可能になり、妻子をつれて(私は大学院時代に結婚していた)郷里・愛媛の片田舎に帰ることとなった。都落ちである。
 最初の三年間は健康を取り戻すために完全休養していた。この間に車の免許を取って毎晩宇和海の堤防に行って釣りをし、太刀魚とアオリイカに関しては名人と呼ばれるようになるなどいろんな楽しいこともあったが省略しよう。要するに3年の間、70歳を過ぎた母親の収入で私と妻子は食わせてもらっていたのである。
 幸い、というか、知人の水由章氏が年刊の実験映像誌「Fs」を発行し、私はそれに「戦前日本の個人映画史」という連載を引き受けたので、田舎にいながら修士論文で書きたかったことにじっくりと取り組むことが出来た。戦前の実験映画といえば中井正一ぐらいしか知られていなかったときに、この雑誌で紹介した実験映画作家の活動は日本映画史の処女地を開拓した重要な研究だったと自負している。
 帰郷して4年目に入ったとき、突然一人の中学生が現れて、家庭教師をして欲しいと言ってきた。聞けば150人中100番前後の成績だという。それで、私の勉強部屋に相手が来る、という条件で引き受けた。たった二ヶ月英語と数学を教えただけで彼は次の定期試験でトップ10に入った。90人を追い抜いたのである。追い抜かれた友人たちが焦って次々と集まり、いつの間にか「那田塾」になった。あの塾へ行くと誰でも30番ぐらいは成績が上がる、と評判になり(実際にそうだった)、中高生合わせて80人ほど詰めかけて、街で一番人気のある学習塾になった。
 当然八畳の勉強部屋では手狭になり、母の営業するブティックを半分に仕切って塾にした。私は凝り性なので改築は全て自分で行った。柱を立て、ドアを付け、壁を仕切り、そして机も椅子も全部一人で作り上げた。
やっと母のスネカジリから巣立って貯金が出来るようになった。丁度そんな折に牧野氏が「私のコレクションは部分売りしないのが原則だが、君の情熱に免じて小型映画関係の書籍を譲ってもいい」という連絡を頂いた。125万ぶんの書籍を送っていただき、その上に分割払いにしてもらった。これで小型映画研究に関しては日本一のコレクションが手元に揃ったわけである。
 「那田塾」が7年ほど経ったときに、大学院時代の恩師から「早稲田の非常勤講師にならないか、将来は必ず君を教授にするから」という話があった。丁寧に言えば、そういう打診はかなり前からあったのだが、非常勤講師の低賃金で、借家で妻子を食わせていける筈もなく、そのことは忘れていた。しかし、学習塾の成功により家を買う頭金ぐらいは貯金があったので、上京を決意したのである。
 月に百万近い収入を捨てて、月収三万前後の非常勤講師になるのだから、それ相応に智恵を絞った。民家ではなくマンションビルを買って、そこに住みながら同時に家賃収入も得る、という方法を編み出して実行したのだった。
そういうわけで八王子のマンションに移り住んでからもう8年目になる。生活は苦しいが、(小泉構造改革の悪政により)ゴーストタウン化した郷里で小金を稼いで生きるよりも、貧乏でも知的刺激の豊富な都会で生きていくほうが、私には遥かに心地いい。幸い牧野氏の住む国分寺まで近いので、時々お会いして日本映画史の薀蓄を伺い、大いに耳学問も発展した。私は放っておくと「アヴァンギャルドおたく」に陥るので、牧野氏の大局に立った日本映画史観を聞くと上手い具合にバランスが取れるのである。
 幸い恩師の口利きで、戦前の小型映画運動に関する単著を出せるかもしれない可能性が生まれてきた。原稿は「Fs」や「映像学」に書き溜めたものがあるので実質的には8割がたは出来上がっている。恐らく来年には出版出来るだろう。これはもちろん牧野さんから譲ってもらった資料が元になっており、この出版で牧野さんに恩返しをしたいものだと願っている。思えば牧野コレクションを初めてコピーしたときから15年もの歳月が流れている。このスローペースでは私の書きたいものを書き切るには百歳ぐらいまで生きていなければならない。困ったものである。
もし私があの修士六年の夏、牧野氏と出会わず牧野さんの家のほうへ歩みを進めなかったとしたら、間違いなく私は六年ぶりの博士課程合格者としての名誉を得て、今頃はどこかの教授になっていたことだろう。しかし、私は牧野さんに出会ったことを後悔していない。逆に感謝している。この15年の人生経験は、私に映画研究という限られた分野を超え、人間はいかに生きるべきか、という本質を教えてくれた。「晴れて良し雲りても良し富士の山」というが、たとえ嵐であろうと霊峰富士は天下一の荘厳な姿で立ち続けている。逆境が人間を磨くのである。
この雑文のタイトルを「牧野さんの家のほうへ」としたのは土方巽のダンスの副題「澁澤さんの家のほうへ」のパクリである。おそらくそれもプルーストの『失われた時を求めて』の有名な一章「スワン家の方へ」のパクリだろう。澁澤龍彦の家には三島由紀夫や四谷シモン、土方巽らが集い、さながらサロンのようであったと言われているが、いうまでもなく牧野家は日本映画研究者たちのための学習塾でありサロンであった。もうコレクションは無くなったが牧野氏には在野の映画研究の泰斗として今後も後進の指導に当たっていただきたい。くれぐれも健康には気をつけて。
 (牧野守氏が日本映画に関しては日本一と言われる牧野コレクションをコロンビア大学に1億円で売った時の記念文集に載せた文章です)文中にある恩師には絶縁状を出してこの出版計画が白紙に戻ったことを付け加えておきます。


八王子で一番喧嘩の強い男の話

2016年11月28日 | 思い出の記

集団ストーカー被害者の方は次のurlを押してください。(決定版が出て既に増補改訂版を購入された方には無料で差し上げました) http://blog.goo.ne.jp/nadahisashi/e/21522a074264a7eb4afb4fd7df2e6531 電子出版される可能性もあることをお知らせします。

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また「春名先生を囲む会」は私のHPに別途ページを作ったので次のURLをクリックしてお読みください。http://w01.tp1.jp/~a920031141/haruna.html に最新の「春名先生を囲む会」の写真をアップロードしています。この会の趣旨と目的に賛同されるかたは毎月第三金曜日の午後七時半から誰でもOKですから夢庵西八王子店(平岡町)に来てください。正面を右に進むと座敷がありますからその座敷で待っています。なお、料金について変更があります。お酒の飲めない人は2千円にしましたのでお酒の飲めない人もぜひ賛同者となって「春名先生を囲む会」で講義を聞いたり、また積極的に講義をして下さい。来月の春名先生を囲む会は柔道整復師の中溝誠吾氏が「気」について講演されます。興味のある方は第三金曜日7時半に夢庵西八王子店に来てください。正面から右のテーブルか座敷で開かれます。

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 今後、微笑禅の会のネット会報は中止し、年に数度の紙媒体での会報を出すことにします。私がロックフェラーほどの資産家であれば年に5千円の会費は無料にしますが、五行歌の会の主宰・草壁先生の言われる通り、お金を出さないと文化は育たないからです。本当に悟ってみたい人は次のurlをクリックして「見性体験記」をご覧ください。http://w01.tp1.jp/~a920031141/zen.html 入会された方には「微笑禅入門―実践篇」(DVD)を差し上げます。もちろん会員から質問があれば答えますので私のメルアドまで質問を下さい。レジュメも作らず睡眠時間4時間で即興で語っています。DVDはボリュームを目一杯に上げて聞いて下さい。wasaburo@hb.tp1.jp (クリックしてもメールが開かないのでコピーして宛て先に入れて下さい)

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かなり前にこのような話を書いた記憶がありますが、改めて書くことにします。

私が「ボッタクリバーハギワラ(笑)」というギャルズバーの常連だった頃の話です。三崎町で若くしてキャバクラなど3軒も経営していた萩原君(最近は荒れているようですが個人情報なので言いません)が持っていた店で、ネーミングが激しすぎるものだから潰れてしまい、いまは「けむり」という有名な焼き鳥屋になっています。そこのスタッフはほぼ私と同年配で一人は非常に腕のいい板前さんで寝屋川出身のヤクザとも交流のある人物でした。もう一人は高校時代歌舞伎町で番長を張っていたガタイの大きな男です。

その板前さんが一回り下の客に「シゲニイ」だったか「アキニイ」だったか忘れましたが、名前の下に「ニイ」という尊称語を付けるのでその若者がトイレに入った時に板前さんに理由を尋ねると、「那田さん、知らなかったんですが、あの人は八王子で一番喧嘩が強い男ですよ」と答えました。実は八王子にはもう一人一番喧嘩の強い男がいて私はよく知っているのですが、その話はあとにします。八王子には、「八王子のクラプトン」と言われるひとが10人はいるそうなので、この辺りはいい加減でいいと思います。

トイレから帰って来たその男の隣に私は座ることにして「お兄さん、八王子で一番喧嘩が強いらしいね。何勝何敗ぐらいなの?」と聞くと、「20勝20敗ぐらいですが、20敗は負けたと思っていません。もう一度やれば必ず勝ちますから」と答えました。聞くところによれば福生の剣道では全国大会に出場する有名な高校の剣道部の3番目のチームの主将だと聞きました。私も長年剣道をやっていたので剣道の話に花が咲きました。そして、「私ぐらいになると店で絡んで来た相手は喧嘩をせずに、次の店でおごってやります。帰るころには私の子分のようになっていますから」と答えました。彼ぐらいになると戦わずして勝つという方法を知っているのでしょう。

私はギャルズバーや居酒屋で女の子と話しているとよく絡まれ、私も血の気が多い方ですから頭に来て喧嘩をしようと思うのですが、店の人に迷惑をかけると思うと我慢するしかありませんでした。そこでその男にそのような場合にどうすれば店の人に迷惑をかけずに絡んで来た男たちを降参させればいいのか聞いたところ、「いいことを教えて上げます。絡まれたら、直接絡んだ男たちに声をかけるのではなく、店員に、ひょっとして俺、絡まれてる?」と大きな声で聞けばいいんですよ。それでもまだ絡んで来たら表に連れ出して好きなようにすればいいし、普通はそれで静かになります」と答えました。この話は私が作った「集団ストーカーに対する究極の防衛法」に引用しています。

もう一人の八王子で一番喧嘩の強い男は佐藤君と言います。私がこのブログの入っているHPでも宣伝しているチャイナパブで知り合いました。私がモモというママに合気道の連行法を教えていたところ、彼が「先輩、それは合気道ですか?」と聞いて来るので私は彼の隣に座って飲むことにしました。すると彼は柔道も極真空手も黒帯で、ヤクザが3人スナックに入った時に一人で殴り倒し、警察が来た時に(黙っていればいいのに)極真空手の黒帯だと言ったばかりに正当防衛にならなかった話をしました。そして握力は90を超えていて電話帳を敗れる話をしました。そこで私は「佐藤君、握手をしようか?」と言って握手をすることにしました。私は当時握力は65キロぐらいでしたが腕相撲のコツが分かっていたので佐藤君と互角の勝負でした。彼が顔をしかめている時私は「佐藤君、年は幾つ?」と聞いたところ「43歳です」と答えたので「俺は50歳を過ぎた爺だよ。俺と互角でどうするの?」と言ったとたんに、「兄貴と呼ばせて下さい」と言いました。

 

私は当時、微笑禅の会のロゴの入ったジャケットを着て飲んでいたのですが、佐藤君がそれを柔道着の胸に縫い付けたいというので、彼がいない日にチャイナパブに置き、「これを付けて一緒に世直しをしましょう」といったメッセージを付けておきました。町で逢うと佐藤君は大声で「兄貴~、メッセージ有難く頂きました」と声をかけてくれたものです。

2人の八王子で一番喧嘩の強い男はともに内装関係の仕事をしていました。喧嘩と内装の関係があるのかどうかは分かりません。私は還暦を過ぎながらいまだに月に一度程度三崎町で飲みますが、またあの二人と会いたいものだとおもいます。

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全く関係のない話をしますが、今日は用事があって西八王子の中華料理屋でラーメンと餃子を食べてきました。結構美味しい店なので二度目ですが、食事をしている私の目の前で、店主らしい中年の女性中国人が箸を(割りばしではありません。何度も使いまわしの出来るプラスティック製の箸です)20本ほどおしぼりに入れてゴリゴリ回して、それで洗ったつもりなのか箸入れの中に入れていました。もう二度とあの店にはいかないでしょう。知り合いに中国で技術指導者になって研修に行った人物が何人かいますが、例外はあるものの中国人の気質は残業してまで技術を学ぶという熱心さに欠けているので、GNPが世界第2位になっても将来性は無いとのことでした。あの箸の洗い方は今でも目に焼き付いて夢の中に出てきそうです。もっとも、今の日本でもサトリ世代とかユトリ世代の若者は道を究めることより、早く家に帰って遊びたいそうです。日本の未来も明るいとは言えないでしょう。


昭和天皇崩御の日の思い出

2016年11月24日 | 思い出の記

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また「春名先生を囲む会」は私のHPに別途ページを作ったので次のURLをクリックしてお読みください。http://w01.tp1.jp/~a920031141/haruna.html に最新の「春名先生を囲む会」の写真をアップロードしています。この会の趣旨と目的に賛同されるかたは毎月第三金曜日の午後七時半から誰でもOKですから夢庵西八王子店(平岡町)に来てください。正面を右に進むと座敷がありますからその座敷で待っています。なお、料金について変更があります。お酒の飲めない人は2千円にしましたのでお酒の飲めない人もぜひ賛同者となって「春名先生を囲む会」で講義を聞いたり、また積極的に講義をして下さい。来月の春名先生を囲む会は柔道整復師の中溝誠吾氏が「気」について講演されます。興味のある方は第三金曜日7時半に夢庵西八王子店に来てください。正面から右のテーブルか座敷で開かれます。

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 今後、微笑禅の会のネット会報は中止し、年に数度の紙媒体での会報を出すことにします。私がロックフェラーほどの資産家であれば年に5千円の会費は無料にしますが、五行歌の会の主宰・草壁先生の言われる通り、お金を出さないと文化は育たないからです。本当に悟ってみたい人は次のurlをクリックして「見性体験記」をご覧ください。http://w01.tp1.jp/~a920031141/zen.html 入会された方には「微笑禅入門―実践篇」(DVD)を差し上げます。もちろん会員から質問があれば答えますので私のメルアドまで質問を下さい。レジュメも作らず睡眠時間4時間で即興で語っています。DVDはボリュームを目一杯に上げて聞いて下さい。wasaburo@hb.tp1.jp (クリックしてもメールが開かないのでコピーして宛て先に入れて下さい)

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確か私が浪人中の時だと思う。「チャコの店」といった感じの変わった名前の小さな居酒屋があった。友人に誘われて行ったのだがママがお喋りが上手いので時々通うようになった。

古い店なのでトイレの鍵がバカになっていたために、トイレの中に閉じ込められたこともある。また、母親がサバに当たって呼吸困難になったために、「サバの生き腐り」といって絶対にサバは食べないように言われていたが、その店で生まれて初めてシメサバを食べたところ、私は特に症状が出なかったので現在は好物になっている。シメサバだけでなく、新鮮なら生の刺身も大好きになった。

その店ですっかり酔いが回り外に出ると、雪がシンシンと降っていた。月明りの中でその雪の降り方は幻想的で心を撃った。直観的に昭和天皇が亡くなられたので、と思い、家に帰ってテレビを見るとその通りだった。

昭和天皇程の偉人は(日本一国で米英と闘いもう少しで勝ちそうになった稀に見る国家の最高責任者である)、天地がその崩御に対して悲しみの雪を降らせたのだろう。


様々な神経症の話(補筆)

2016年11月23日 | 思い出の記

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対人恐怖症の件ですが、その後私は理工学部で400人の学生を前に講義をしたり、何度もテレビで話すなど全く気にならなくなりました。わずか20人の前で対人恐怖症だったときと比べれば驚くべき変化です。

ウッドストックコンサートの時に土地を貸した農夫が50万人の若者を前に「生まれて初めて50万人の前で演説をした」と感動して話していた記憶がありますが、私も50万人の前で冗談を言いながら話せることでしょう。これは植田カウンセラーの助言と同時に私が見性体験をしたおかげだと思っています。明日は民主商工会の忘年会があるので、その場で面白い話が出たら報告することにします(多分酔っぱらって覚えていないでしょうが)

 ウッドストックコンサートの様子


様々な神経症の話

2016年11月22日 | 思い出の記

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今日は神経症の話をします。私は幼稚園に入る前に母親にせがんで幼稚園の様子を見に行かせてもらい、早く幼稚園に入りたいと駄々をこねたものでした。ところがどういうわけか小学校一年生になると対人恐怖症に襲われるようになりました。先生に当てられると心臓が止まりそうになり胸が苦しくて最初の一言が云えなくなるのです。次第に友達が増え、一年から六年生まで学級委員をしているうちに慣れてきましたが、対人恐怖症は、このブログでも紹介したことのある隣町宇和町のユング派のカウンセラー・植田先生により行動療法で収まっていきました。私の場合は20人以上の人がいると対人恐怖症になり、大学院を出て那田塾を経営していた時にも中高生が20人以上になると声を出すのが苦しかった記憶があります。そこで植田先生が20人が怖いなら30人40人と少しずつ相手を増やして話す練習をするようにと助言してくれました。知り合いに宇和島市で映画で町興しをしている田部司という老舗の眼鏡店の社長が松本俊夫の「薔薇の葬列」を上映した時に30人ほどの観客の前で解説をしたことを思い出します。また九州産業大学で日本映像学会が催されたときに私は「小型映画の歴史と意義」について講演をしたのですが、その時は私よりも年上の教授たちが数十人集まったので、最初の一言を語ろうとすると胸が詰まり困りました。咳払いをしてからどうにか講演をすることが出来るようになりました。

対人恐怖症は、完全主義の自分の性格が相手に投影されて、私が少しでもミスをすると相手がそのミスに気付くのではないか、という心のメカニズムから生まれたものです。

郷里愛媛にいた時には狂気恐怖という神経症も現れました。これは自分がキチガイになるのではないかという恐怖感です。これは自然に収まりました。

私は中学生のころから飛行機には何十回も乗ったのですが、空中を飛んでいると床が透明になり、自分一人が空の上を物凄いスピードで飛んでいる感覚がして、安定剤を飲んで飛行機に乗っても脂汗が出て苦しくなりスチュアーデスを呼んで冷たいおしぼりで首を拭いてもらったものです。これは高所恐怖症という神経症です。私が早稲田小町という美少女と早稲田大学の学生の時にデートした時に、後楽園の観覧車に一緒に載りました。頂上に上がったところで早稲田小町にキスをしてやろうと企んだのですが、観覧車が90度になったあたりから「もしあのボルトが壊れたら観覧車ごと落下する」という恐怖に駆られキスどころか床にしゃがみこみこの計画は座絶しました。私は八王子に住むようになってから17年ほど経ちますが一度も郷里愛媛に帰ったことが無いのは、経済的理由もありますが、未だに高所恐怖症が残っているからです。

ところで先日このブログで触れたことですが、電車に乗れない神経症の話をすることにします。現在は退会していますがパウロこと廣瀬一郎と、鈴木正道と私の3人は、揃って電車に乗ることが出来ませんでした。それは電車に乗っている人々の悪い気を感じ取ってしまうからです。柔道整復師でデイサービスを経営し、来月の春名先生を囲む会で講師をしてくれる中溝誠吾氏によれば電車のモーターからは強烈な電磁波が出ているせいだ、と解説されましたが、それも確かにあるでしょうが、ラジオに例えると感度が強すぎるために他人の悪いノイズを拾ってしまうからだと思います。

見性体験をした後も私は電車に乗るのが苦手で、八王子からたった3駅、時間にして10分の立川駅に行く時も、ワンカップ大関と缶酎ハイを飲みながらでないと電車に乗れませんでした。電車でそのように酒を飲んで立っていると、乗客の男たちと目線があった時、みんなが顔をそむけるので後ろを見ると誰もいませんでした。また満員電車に乗った時も両側の席が空いているのに誰も座らないなど不思議なことが起こりました。要するに私はヤクザのように見えたのでしょう。当時は特注のアクリル製のケースに入れた不動明王の頭を叩いて「コラ、ちゃんと仕事をしろ」と怒鳴りつけていたものです。

しかし現在は電車に乗るのが怖くなくなりました。今月と来月は新宿に行くのですが、少しも怖くありません。それは電車の中で数息観をすることを覚えたからです。つまり、電車の前に立っている人の洋服の一点や、電車に座った場合は床の一点を見つめて数息観(心の中で数を数え無念無想になる訓練)をするわけです。このブログの中に電車に乗ることの出来ないひとはぜひ微笑禅の会に入ってください。私が数息観、髄息観、そして密息の方法を教えます。


禁酒をせずに糖尿病と慢性アルコール性肝炎を治した話

2016年11月14日 | 思い出の記

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これから書く話は以前ブログに似たようなことを書いたかもしれませんが、改めて思い出したことを書き残すことにします。

まだ離婚せず、大学の非常勤講師で、見性体験をした後の話です。血液検査をしたところ、γーGTP(肝臓が壊れている数値です。正常値は男性の場合70とされています)が500を超え、H-a1c(血糖値の月平均の値です。正常値は6とされています)が10と出ました。医者はこのままだと昏睡(突然意識不明になること)するといって治療を受けることになりました。

管理栄養士がついて毎日野菜を食べること等々の注意をしてくれました。私はそれでも酒を止めることなく、結果的に糖尿病と慢性アルコール性肝炎を治したのですが、その間に行っていたことを述べましょう。まず、毎日坐禅を組んでいました。次いで1年半の間、毎日ウォーキングを続けました。私の家から歩いて15分ほどのところに野球ができるほどの広場があるのですが、片道15分かけてその広場に行き、操体(日本医学の一つです)の運動と養神館の基本動作をしてまた15分かけて家に戻りました。ウォーキングは始めると依存症のような状態になってウォーキングを止めることが出来なくなります。ですから雨の日も雪の日もウォーキングを続けました。そういう時は橋の下の雨の当たらない場所で養神館の木刀を持って行う演武を傘で行ったものです。中学生ぐらいの子供たちが面白がって見に来たことを覚えています。

そして風呂に入ると決まって午後5時には家を出て三崎町の「金太郎 村」という居酒屋に行きました。三和交通の運転手に聞いたところでは5時にタクシーに乗った時にはもう缶ビールを飲んでいたそうです。その居酒屋は村田忠男というレッスンプロで有名な人がオーナーで、彼の教え子の中には広島カープの投手だった川口や歌手の日吉ミミなどがいました。

ちなみに八王子に黒糖焼酎を広めた最初の人間は私です。映像作家の山崎幹夫と一緒に奄美諸島の酒蔵から全ての黒糖焼酎の銘柄を取り寄せ、一番おいしくて値段が手ごろなのは「里の曙」の紙パック、高いけれどコクがあるのは「朝日一の条」と判明しました。そこで入る居酒屋ごとに黒糖焼酎を勧めて回ったものです。その話を里の曙にしたところ、喜んでオリジナルのグラスを一ダースもらいました。今でもキッチンを整理すれば出て来るでしょう。

ところで「金太郎 村」には西八王子にある確か「松本消化器内科」の院長が常連で来ていました。その人に禁酒せずに糖尿病と慢性アルコール性肝炎を治した話をして、血液検査のデータを持っているので学会で発表したらどうですか?と尋ねたところ、「我々が研究発表をするのは新薬を作るためです。ということは薬を飲んで一般の人が治るというデータが欲しいのですから、あなたのような異常体質の研究をしてもお金になりません」と言われました。

現在も基本的に毎日坐禅を組んでいますが、H-a1cはほぼ正常ですが、γーGTPはやや高いようです。飲んでばかりいるので当たり前のことですが。


浪人時代、学生時代

2016年11月10日 | 思い出の記

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また「春名先生を囲む会」は私のHPに別途ページを作ったので次のURLをクリックしてお読みください。http://w01.tp1.jp/~a920031141/haruna.html に最新の「春名先生を囲む会」の写真をアップロードしています。この会の趣旨と目的に賛同されるかたは毎月第三金曜日の午後七時半から誰でもOKですから夢庵西八王子店(平岡町)に来てください。正面を右に進むと座敷がありますからその座敷で待っています。なお、料金について変更があります。お酒の飲めない人は2千円にしましたのでお酒の飲めない人もぜひ賛同者となって「春名先生を囲む会」で講義を聞いたり、また積極的に講義をして下さい。今月「春名先生を囲む会」でも病院でも治らなかった膝や肩の痛い人をその場で治すそうです。心当たりのある方はぜひ参加して下さい。

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一般に浪人時代というのは暗い、辛い記憶に満ちたものだが、私の場合は実に充実した楽しい思い出の時期でもあった。もちろん、浪人という宙ぶらりんの社会的地位は常に心痛と隣り合わせである。しかし、それだけではなかった。

私は、浪人時代ほとんど受験勉強をしなかった。
もともと国語に関しては学年トップを続けていたので問題なかったし、英語も文法が大好きだったから、単語力の強化と発音の確認程度で充分だった。唯一のネックは世界史で、第一志望の早稲田大学第一文学部の世界史の問題は教科書を丸暗記しても絶対に合格できないようになっており、例えば「フェリペ2世の在位年代」が正確に頭に入っていないと解けない、といった、実にトリビアルな問題が出るのだった。

私は、中学高校の頃から、将来は詩人か小説家になるのが夢で、太宰治や中原中也、ボードレールなどの作品は全部読破していたし、浪人時代は稲垣足穂にのめりこみ、難解な哲学書なども片っ端から手を出していた。
だから、受験勉強はさっぱりやらなかったが、自分の中ではいっぱしの文学者気取りだった。端的に言えば、「なぜこの俺が、どうでもいい歴史の年代暗記のためにこの明晰な頭脳を使うなどという愚劣な真似をしなければならないのか」という傲慢な精神を抱いていた。

一浪目の下宿は、隣がパチンコ屋とビリヤード場、雀荘と、三拍子揃った立地条件だったせいもあって、下宿の浪人仲間と毎日、それら三道楽に熱中した。マージャンを本格的に覚えたのも浪人時代で、夢の中でもマージャンをやっているぐらいのめり込んだし、ビリヤードも腕を上げて、引き玉、押し玉、自由自在に出来た(当時はポケットではなく4つ玉が主流だった)。パチンコにいたっては毎月15万はつぎ込んでいた。
こうして昼は三つの道楽に打ち込み、夜は酒を飲み、気が向けば詩を書く、実に充実した時間が、私の浪人時代だった。

その浪人下宿には福岡や宮崎など、九州出身の男たちが多くいた。私から見れば、彼らは相当に野蛮な風習に染まっていて、何かあるとすぐ殴り合いの喧嘩になったものだが、その一面、非常に純情なところがあって、腹をさらけ出してものをいうので好感が持てた。

そもそも浪人には2つのタイプがある。私のように、受験勉強に反抗して無頼派的に遊びまくっているタイプと、素直に勉強をするタイプである。前者は後者に比べると相当に早熟なグループだった。某友人は、浪人時代に役者になることを夢見て、人脈を求めて歩き回っていたし、私は文学者きどりで飲んでは芸術論を戦わせていた。

そういえば、私に女遊びを教えたのも役者志願の浪人生だった。千葉の栄町に私を連れて行き、初めてのときはアッという間に終わるからといって、ソープランド(当時はトルコ風呂、といった)に入る前に、二人で日本酒を二合ずつ飲んで、ことに挑んだものだった。

私は、「自分の文学的才能を開花させるには早稲田大学第一文学部に入るほか無い」という確信と同時に、「受験勉強などという愚劣なものに手を染めることの不快さ」という二律背反に陥っていた。
そんな私が真剣に受験勉強に取り組み始めたのは「怒りのエネルギー」だった。

二浪の後、親の勧めで受験した甲南大学文学部に合格し入学した。その大学は西の学習院といわれるような非常に優雅な、ある意味理想的な大学だったが、私は体育と音楽以外の授業には出席せず、昼間から酒を飲んで詩作に打ち込む生活をしていた。ウィスキーの中に市販の睡眠薬ブロバリンを混ぜて飲んで詩歌を読んでいたため、トイレの便器はオレンジ色に染まっていた。そして夏休みに郷里に帰ったときのことである。
人望に欠けた、カンナ屑のように薄っぺらなある同級生と出合った。キツネのような目をして、何かにつけて私に因縁をつけるストーカーのような人間だった。彼は一浪して明治大学に入ったことを大いに鼻にかけていた。そして、「昔から俺のほうがお前より成績がよかったからな」と口走ったのである。これには私は怒りよりも驚きが先に来た。私の眼中に彼などなかったし、あらゆる学科、あらゆる成績の面で、彼は私より格段に劣っていたのである。
なるほど、人間は「結果」で自己と他者を判断するのだ、と私は初めて了解した。彼が明治大学生になり、私が甲南大学生になったとたん、過去の事実を捏造し、私よりも秀才だったというデタラメな事実を作り上げ、私本人に宣言したのである。なんという単純な妄想、なんという単純なナルシシズムだろう。

この男の侮辱が私の休火山に火をつけた。あんな下等な人間に学歴で一生バカにされる人生というのは死んでも我慢できない。私は「一日に5時間、3ヶ月だけ受験勉強をする」と決意した。国語と英語はもともと得意だったので、問題は世界史だけである。
そこで、私は二冊の世界史の参考書を買ってきた。一冊は受験用のものの中で最も高度なレベルの参考書。もう一冊は、受験用ではなく研究者用のもので、受験にはほとんど役に立たない研究本だった。その二冊を平行して読みながら、私は「決して受験に出ない世界史」と題したノートを作った。
自分の能力を受験勉強という愚劣な行為に落とす、ということは、彼のようなバカな人間と同じ立場に立つことになるわけで、それは私のプライドが許さなかった。だから、私は、受験に出るはずの無い、よりトリビアルな、より研究的なノートを作ることで、世界史を「受験用」として暗記するのではなく「研究用」として学問したわけである。

面白いものだ。よりトリビアルでより研究的なノートを作っていくと、受験に出る程度の史実はいつしか頭の中に入っているのである。ノートは受験の一週間前に完成したが、その最後の項目は「朝鮮半島史」で、これは過去10年間の早稲大学第一文学部の問題にも、またほかの大学の受験問題にも出たためしのない範疇だった。私は朝鮮半島の歴史を頭に入れながら、これで受かった、と思った。

早稲田大学第一文学部、同教育学部、学習院大学史学部、と3つの学部を受験して、全てに合格した。どういうシステムになっているのか未だに不思議なのだが、受験をして外に出ると予備校が今出たばかりの問題の模範解答を配っているのである。私はそれを手にして、3教科ともほぼ満点であることを確認し、とくに世界史に関しては3学部とも完璧な解答だったことを知り、合格を確信した。
人品骨柄の卑しい男が傲慢なことを言わなければ、私は甲南大学を中退してフリーターにでもなっていたに違いない。仏教者はよく魔を味方にせよ(変毒(へんどく)為(い)薬(やく))というが、振り返れば、まさに私にとって彼は魔が変じた善神だった。

さて晴れて念願の早稲田大学第一文学部に入り、しかも当時芥川賞作家を輩出して最も人気の高かった文芸部を専攻した私は、意気揚々と文学部のスロープを闊歩していた。

ところで、当時詩壇は大学教授兼詩人が支配していて、詩心を全く持たない、観念的で引用の羅列だらけの作品が幅を利かせていた。私は、詩というものは作品のインスピレーションとなる詩的感動の体験と、読んで心に残るリズムがなければその作品に価値は無い、と信じていたので、「現代詩手帖」などの雑誌に載る彼らの作品には失望していた。
とはいえ、確か清水某というフランス語教授兼詩人の授業を受けて、作品を提出させられたことがあった。私は、東京の片隅のアパートで、一個のリンゴをかじりあいながら、そのリンゴを食べ終わったら死のうと決意している男女の心境や、都会の雑踏の様子を詩にして提出した。すると感想に「君の作品を読んでアポリネールの詩集『地帯』を連想しました。抽象化が強すぎる面があるので、もっと一般に分かりやすく具体的に書くようにするといいと思います」と感想が書いてあった。私は前衛詩の父親ともいえるアポリネールの作品を真面目に読んだことは無かったが、この批評には大いに満足した。



しかし一方で、私を心の底から落胆させる出来事が起こった。 当時の早稲田の文学部を牛耳っていたのは三島由紀夫の親戚に当たる教授で、私は彼の授業を受けていた。最初の授業で、梶井基次郎の『檸檬』について批評を書け、という問題が出た。『檸檬』と言えば純文学を志すものにとっては聖典の一つであり、一度ぐらいは臨書すべき名作である。私の大好きな作品でもあり、私は気合を込めて批評を書いた。
ところがその教授が、学生の書いた批評の中から一番おもしろい、と判断して読み上げられたのは以下のような文章だった。

「わたしは、ある漫画で『檸檬』を茶化したものを読んだことがあります。男が画集を山積みにしてその上にレモンを置いて本屋から出ようとすると、店員さんが「お客さん、元に戻してください。迷惑です」という内容の漫画でした。わたしも同じように思います。勝手に本を棚から出して山積みにされては困ると思います」

この小学生の作文のような文章を書いたのは、いかにも頭の悪そうな女性で、彼がこの批評を面白いと褒めると、小鼻を膨らませて、自慢げな顔をした。私は心の底から失望した。こいつらは『檸檬』の凄さというものを全く理解していないのである。
早稲田の文学部でさえ、この程度の学生にこの程度の教授なのだ。そういえば、当時早稲田の現役女子大生が芥川賞を獲ったが、若い女が中年男を手玉に取る、という「当て込み小説」だった。要するに、中年の男性審査員に媚を売った受け狙いの三流小説である。この当時、早稲田の文芸部に人気が集まったといっても、内容的には商業主義に接近したポップな小説が主流であり、すでにこの時代の早稲田文芸はジャンク化していた(「J文学」のJは、ジャパニーズではなくジャンクのJである)。稲垣足穂や梶井基次郎や太宰治を信奉する私のような人間は、早稲田では居場所がなくなっていたのである。
これを機に、私の早稲田大学に対する憧れはきれいに消えた。あとは、女を抱き、酒を飲む日々に溺れていった。当時私は女性に好かれる素質があり、実際複数の占い師に「あなたには女難の相があります」と言われ、その女難という言葉を私は好意的に解釈していたが、実際、抱く女には苦労しなかったものの、相手の女性は美人だが人格障害や神経症患者が多く、性的快楽の変わりに、山ほどの苦痛を体験した。酒と女の日々は、私が大学院に合格するまで続いた。

(見性体験記より)


剣道上達のコツ

2016年11月08日 | 思い出の記

集団ストーカー被害者の方は次のurlを押してください。(決定版が出て既に増補改訂版を購入された方には無料で差し上げました) http://blog.goo.ne.jp/nadahisashi/e/21522a074264a7eb4afb4fd7df2e6531 電子出版される可能性もあることをお知らせします。

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私は10歳(小学4年)から剣道を始め、14歳(中学2年)の時には5段以上の腕前になっていた。その年齢で、5年間で5段以上というのは非常に珍しいことだと思う。
より正確に言えば、当時は規則上中学での最高段位は1級までだったので、私が公式にもらった段位は1級である。しかし、3段の相手に二度対戦して、二度とも二本先取で勝ち、5段の師範にも勝ったたという事実がある以上、確かに5段以上の力が付いていた。
剣道をやっている若者にぜひ読んで欲しい。もちろん5段以上の人は既に私の体得したコツは分かっているはずだから読む必要な無い。もっとも、剣道少年物語として読まれるなら、結構面白いことが書いてあるはずである。

私は子供の頃、体格もよく成績もよかったが、一人っ子で過保護に育ったために気が弱かった。だから、根性の悪い苛めっ子に悪戯を受け、よく泣いて帰った。母は女丈夫で、男は勉強より度胸だ、という考え方だったので、恐らく母の勧めで近くの警察道場に通うことになった。それが4年生のときである。
 その道場の師範は元壮士だった。壮士と言えば聞こえがいいが、要するにヤクザ者で、私が生まれた頃に母が経営していた料亭にやってきて、「誰の許可を受けてこの商売をしているんだ」と凄んだヤクザがこの男である。母は、「なんでお前の許可がいる」と強気に押して追い返したらしい。母は軍属で満州に渡り、人が目の前で殺される様を何度も見ているのですっかり度胸が据わり、道で母に声をかけられると心臓がドキッとすると言われるぐらいに、気迫の強い女性だった。

 そういうわけで、もともとヤクザ者だったのだが、どういう転機があったのか、改心して警察道場の師範になっていた。だから、荒っぽい古流剣道を学んだ。
例えば闇稽古である。道場の窓は全部戸板になっていて、それを閉めてしまうと真っ暗になるのである。そこで、何十人もの小学生がルール無しで打ち合う。人の気配を感じたら滅茶苦茶に打ち込む。面も胴も小手も無い。足を打っても構わない。
それから、通常の試合の仕方も変わっていた。片方が竹刀を落とすとルール上は「待て」をかけて竹刀を拾って構えなおし、再スタートすべきなのだが、この師範は「両者組み合え」というのだ。これは野戦になったときの実戦を想定したもので、組み合い、相手を倒し、面を脱がしたほうが勝つのである。つまり、脇差で敵の首を切った、という意味だ。
そういう荒い稽古を受けて、少しずつ私の心も強くなった。


もっとも、そういう師範だったから心遣いも荒く、私が最初の一週間目ぐらいに、試合中に足裏の皮がペロリと剥けて、丁度草履を履いて歩くように、垂れ下がった皮を足の裏にブラブラさせて、ビッコを引き、顔をしかめているのに、怪我だと気づかず、「那田、痛そうな顔をするな」と怒るような人物だった。それで足の裏を見せて、やっと試合を止めて包帯を巻いてくれた。その上「怪我なら怪我と何故言わない」と怒るような人物だった。
そんな具合だから、私はこの師範を慕えなかった。しかし着実に心と体力は強くなってていった。小学6年の時には、全小学生の中でトップ3の腕前になっており、学校で体力測定をしたら、背筋と握力は学年一位だった。
もうその頃には、私に対する苛めは消えていた。

中学に上がるとき、東京に某宗教系の中高一貫教育の学校が創立されたので、受けてみたら競争率4倍を合格した。両親とも単身上京するのに反対したが、その学校は教員に東大出身者を集め、エリート教育をする、という謳い文句だったので、私は両親の反対を押し切って故郷愛媛を巣立った。

 そしてさっそく剣道部に所属した。中学一年の部員は20名ぐらいだっただろうか、半分は初心者で半分は経験者だった。それで全員で素振りをしたのだが、どう見てもみんな筋が悪い。
素振りは振り上げたときに、切っ先が尾てい骨の真ん中に軽く当たり、振り下ろすときは、雑巾を絞る要領でピシッと止める。巧くなると振り切って止めたときに、竹刀が軋んでビシッという音がする。つまり、振り上げたとき、振り下ろしたときに軽く音がするのがいい素振りなのである。それぐらいのことは当たり前だと思っていたから、みんなの無駄な力の入った素振りを見ただけで、これはレベルが低いな~と感じた。
考えてみれば、四国山脈の奥に生まれ、ヤクザに3年間仕込まれた私は、都会の剣道愛好者と比べると、いわば山猿みたいなもので、頭一つも二つも抜き出ていたのである。

 それで、「かかり稽古」が始まると妙なことになった。かかり稽古というのは、二十人が輪になって、その真ん中で先ず二人が試合をする。片方が一本取ると、負けたほうが退き、輪になっている中でやる気のある人間が輪の中に飛び込んでいく。残ったほうは直ぐに体勢を整えて新しい相手と戦う。これを延々と繰り返すのである。すると強い相手も息が上がってしまい、いつかは負ける。そうして全員が稽古できるのがこの「かかり稽古」の利点なのだ。
ところが私がこの稽古に参加すると、いつまでたっても私は負けない。20人一回りしても一本も取られない。その様子を見て5段の師範が「君は高校生と一緒に練習しなさい」と言った。

 それで一年生の始めの頃から私は例外として高校生と混じって練習することになった。
 しかし、ここでも私の相手になるのは3段の主将だけである。他の高校生は相手にならなかった。3歳年下にポンポン取れられるものだから、相手は顔を真っ赤にして突っかかってくるのだが、スキだらけでスピードも鈍い。負けるわけがなかった。
それで私は3段の高校生の主将と専ら稽古を続けることになった。ほぼ互角だった。私の才能を師範が面白がって、「真剣勝負しよう」と言って対戦した。
構えてみるとさすがにスキが無い。打ち合いながら相手の癖を見ていると、左の小手(逆小手)に若干スキが生まれる。中学や高校で「逆小手」など教わらないのだが、そこにしかスキが無かったので、打ち込んだら決まった。五段の師範が「参った」と言った。「まさか逆小手に来るとは思わなかった」と嬉しそうに笑っていた。

そうそう、一番役立った稽古があるので教えよう。私は「小手→面の二段打ち」は得意だったが、胴は苦手だった。それで次のようなルールを作って稽古した。相手は私の面しか打ってはいけない、私は相手の胴しか打ってはいけない、というものである。
これは抜群の効果があった。私は相手が面しか狙わないのが分かっているのだから、面だけを気にしておけばいい。だから相手が面を決めるのは殆ど不可能である。逆に相手は胴だけ防御すればいいのだから、そんな相手に私が胴を決めるのは不可能である。
その不可能な状況を可能にする練習なのだ。これは面白くて毎日続けた。
 ある日、「胴を狙うからダメなんだ。相手の右肩を切り落とすつもりで打ってみよう」と気づいた、あるいは師範がそう教えてくれたのかもしれない。とにかくそれに気づいたとたん面白いように決まり始めた。横に打つのではない、縦に切るのが胴打ちのコツだと分かった。

そういう具合で、普通の中学生とはレベルの違うところで練習をしていた。
全てのスポーツ(剣道はスポーツではない。殺し合いである)の極意は「無駄な動きは一切しない」「リラックスする」ということに尽きる。
それで、私は普通の「面抜き胴」は理屈に合わない、と思い、一人で自分流の面抜き胴の練習をしていた。
具体的に言えば、普通の面抜き胴は、相手が面を打ってきた時に竹刀を左上に払い、左にUの字を描いて、その遠心力を利用して相手の右胴を打つのだが、理屈で考えると、その「左にUの字を描く間の0.1秒ほどの時間が無駄」なのである。
そこで私は、面を打ちに来た相手の竹刀を右上に払い、手首のスナップを利かして相手の左胴方向に抜けながら、つまり自分の右足を踏み出す瞬間に相手の胴を切る、という練習を繰り返した。私の稽古相手になった男は私がなぜそのような練習をしているのか意味が分からず不思議な顔をしていたが、この「那田流面抜き胴」の方が合理的なのである。(合気道ではこの徹底的な合理主義のことを理合(りあい)と呼ぶ)
映画ファンなら黒澤明の「椿三十郎」」の最後の決闘場面を知っているだろうが、三船敏郎は左の逆手で剣を抜き一瞬に相手の左胴を切る。これは実に理に適った方法である。
ちなみにこの殺陣をつけた天才殺陣師・久世竜は偶然にも私の故郷である愛媛県東宇和郡(現・西予市)野村町の生まれで、故郷で唯一の有名人である(地元の人はバカだからこのことすら知らない。私が故郷に帰った時に役場の観光課にこの事実を教え、記念館を作るようアドバイスしたのだが、未だに実行していない。こういうバカな町はサッサと滅びればいい)。

格技は「心・技・体」という。私の考えでは、体と技が基本中の基本で、心は後でいいと思う。
体と言っても、腕立て伏せや腹筋などの所謂「筋トレ」は全く必要ないだろう。剣道には剣道の筋肉があればいい。私は、毎日の稽古が終わり、寮に帰ったあと、寝る前に400本の素振りをした。最初の200本は左手だけで、残り200本は両手でする。ついでに、二段打ち、三段打ちのスピードを極限まで「早く」する練習を欠かさなかった。
技も、師範が教えてくれるものだけでなく、本を読んで色々研究した。「横面」「起き上がり面」「担ぎ面」、鍔ぞり合いになったときのツカの使い方、さらに「引き技」、わざとどこかにスキを作っておいて相手を誘い、「機の先」で打ち負かす方法、などなど、自分なりに工夫を重ねた。
剣道は、相手のスキを見る「眼」を作ること、そのスキを打ち込む「竹刀のスピード」をつけることに尽きる。そのスピードは固い筋肉をつけるより柔らかい筋肉から生まれる。だから素振りを繰り返すのが一番いいのだ。

中学1年の段階で私が体得していたのは次のようなことである。箇条書きにしよう。

1、重心はヘソの辺りに、高めに置く(下に置くと体捌きが重くなる)
2、切っ先は相手の左喉に向け、両腕はゆったりと空気を抱くように構える。
3、力を入れるのは打つときだけ。普段は力を抜いておく。
4、最も大切な指は左手の中指、薬指、小指である。この三本でしっかりと握り、人差し指と親指は軽く添える。右手は竹刀の角度をコントロールするだけで、打つ瞬間以外は力を入れてはいけない。
5、面も横面も、小手も胴も、全ての技は左手が体の中心線を通らねばならない。つまり、左のこぶしは、鼻からヘソを結ぶ線の上を上下するのみ。
6、後ろに引いた左足のカカトを浮かすのは当然だが、右足のカカトも浮かす感じで構える。重心をヘソに置く意味と同じだが、風が吹いたら流れる柳の葉のように、自在に動ける状態を作っておくこと。
7、きちんとした構えで、間合いを取っていれば簡単に打ち込まれるものではない。相手が打ち込めず自分が打ち込めることの出来る間合いを取ること。具体的に言えば「一足飛び」は徹底的に稽古すること。
8、相手の呼吸を見ること。相手が息を吸っているときにスキが生まれる。呼気でなく吸気の瞬間に打ち込むこと。
9、稽古の前に「剣道はスポーツではない。殺し合いである。一本とられたということは、その時点で私が死んだことに等しい」と心に言い聞かすこと。

実は、この9番の、所謂「殺気」を獲得してから私は強くなったし、稽古も真剣にできた。前に言った「体と技が基本で、気は後でいい」と言ったことと矛盾するようだが、私の場合、この殺気がある日突然分かった。この殺気が出ないと本当に強くはなれない。殺気と怒気は違う。怒気は頭に血が上る状態を指すが、殺気は腹の奥に「冷たい気迫」を抱くのだ。「この試合は殺すか死ぬかである」と、無意識が最大限の能力を発揮できるように静かに心がけるのである。
こう言い直そう。逆に殺気がいくらあっても体と技が無くては勝てない。体と技が出来た上に殺気を知れば無敵となるのである。

その学校は毎年秋に「校内剣道大会」を催していた。部員だけでなく、誰でも飛び入りOKというルールである。
これは実に面白い体験だった。腕っ節に自信のある男たちが飛び入りで相手になる。喧嘩の強い人間を相手にすると、剣道として見ればもう滅茶苦茶なのだが、初心者は相手の気迫(怒気)に押されて、負けてしまう。経験者でも気が弱い人間はそういう相手に負ける。
そういう相手が私と当たった。「馬鹿馬鹿しいから早く決めよう」と思って、「始め」の号令と共に、「小手面二段打ち」をした。「面あり」!!!一秒で決まった。しかも最初の小手が、丁度防具の縫い目の部分(手首の関節の真上。ここに当たると痛い))に鋭く当たったものだから、振り返ると相手は竹刀を落としていた。見ていた高校の先輩が「那田、少しは手加減してやれ」と声をかけてくれた。
そんなわけで、中学一年、二年と続けて、全ての試合で一本も取られず全て二本先取で優勝し、学園長から二年続けて褒美の竹刀をもらった。当時70年安保の真っ最中だったので、「機動隊が来ても、那田君がいるからこの学校は大丈夫だね」と冗談を言われた。

3年生になった。校外学習で歌舞伎座に行き、当時の尾上辰之助が演じる弁慶の飛び六法を見たときに、鳥肌が立った。芸術のパワーに触れた瞬間だった。
それで私は剣道部を退部し、演劇部を創立して脚本を書き、演出をし、自らも演じて文化祭などで公演した。
実は私はその学校に入って間もなく、その学校が取り組む宗教教育に疑問を持っていた。私は日蓮こそが唯一仏であり、代々の法主上人の教えを日蓮の教えとして仰ぐ、という真っ当な考えを持っていたが、その中学では、現代の日蓮は創立者であり、創立者の教え通りに動くロボットのような人間を育成した。創立者本人にも私は何度も会い、みんなは熱狂していたが、私は「いかがわしいな」という感想しかもてなかった。
そういうわけで、このままその中学校を卒業しては自分の人生の汚点になるのではないか、という思いが常によぎるようになった。
そういう状態のときに夏休みで帰郷し、友人達と遊んでいると、遥かに一般人のほうが純粋でまともである。それでその宗教系学校創立以来最初の自主退学をしたわけだ。

 というわけで私は中学3年の2学期から郷里の中学に中途入学し、地元の高校に進んだ。
その高校には演劇部は無かったので、文芸部に入ったら一年生なのに部長になった。2年生になって、体を動かしたくなりバスケ部に入った。すぐにコツを掴んでポイントゲッターになった。この頃体力測定があり測ったところ、握力、背筋力、垂直高飛びは学年一位だった。垂直飛びは目盛りの最上段の上まで手が伸びるので測定不可能だった。
バスケ部は「練習が一番厳しい部活」で有名で、一回の練習ごとに体重が3~4キロ減った。
 それで、面白いことにその高校では、部活とクラブ活動との二つに分かれていて、部活は毎日やるのだが、クラブ活動は希望者が週に一度行うのである。それでクラブ活動に剣道部を選んだ。

私が高校に入って剣道部に入らなかった事情は色々ある。歌舞伎に出会って以来、体育会系の汗臭い世界が嫌になったこと。近視が進んだこと。それからこれが最大の理由だが、中学時代は「三六(サブロク)」という竹刀を使い、高校になると「三八(サンパチ)」という少し長く重い竹刀に変わる。私は三六での剣道を極めていたので、三八になると自分のイメージ通りの剣道が出来なくなったのである。むろん、素振りを繰り返せば慣れてくるのだが、私はもう芸術の世界にどっぷりと入り込んでいて、今更剣道を続ける気はしなかったのである。
 
 そういうわけで余興のつもりで剣道クラブで週に一度別の汗をかいた。
主将が三段で、二度対決した(当時の規則では高校生が取得できる最高段位は三段までだった)。彼の父親は剣道場を経営し自ら師範として教えていたと記憶している。
対峙してみると、なるほど堂々とした格の高い構えでスキがない。こういう相手と正攻法で戦うと試合がもつれる。それでフェイクをかけた。面を打つ振りをして胴を打つ。わざと小手にスキを作っておいて相手が打ちに来た瞬間、面や小手を打つ(「小手抜き面」「小手抜き小手」)・・・・・この手に相手はまんまと引っかかった。二度対戦して二度とも二本先取で私の勝ちである。これで私は少なくとも四段以上の実力があること確信した。
剣道クラブに入ったのはもう一つ隠れた理由があった。
そこの部長が、大嫌いな数学教師だったのである。
私は、典型的な文系人間のように誤解されるが、実は高校二年の途中までは数学は大好きだった。努力家ではないので普段の定期テストなどでは一番は取れないが、応用力が試される全国統一模試では決まって数学で一番を取った。
ところが2年生になって担任がその数学教師になってからヤル気がなくなった。彼は上から目線で尊大な態度を取るからだ。おまけに二年になって三角関数に進むと、公式を丸暗記してそれに当てはめて解答するだけの、本当の意味での論理性を問わない、ただのゲームになってしまう。
それで私は数学はやらないことにした。教師は私を睨む。その教師をボコボコにできるのがクラブ活動の時間なのである。
よせばいいのに、剣道は素人なのにも関わらず、その数学教師は防具をつけて指導者ぶっている。それで私は試合を申し込んで、わざと「痛い打ち方」をしてやるのだ。前述したように、小手は防具の縫い目の部分を打つと非常に痛い。面も普通は頭の上の布の部分と顔の前の金具の部分の境目を叩くから痛くないのだが、わざと布の部分だけを狙って打った。これは痛い。しかも打ち方にコツがある。上達してくると「打つ」「引く」の動作が、ちょうどボクサーのパンチように速くなる。だから上級者に打たれると余り痛くない。下手な人間は力いっぱい振り下ろして、押さえつけるようにして、素早く引かないので、痛みが増す。
それで私も初心者の撃ち方をして、ポン、ではなく、バチンと打ってやるのだ。数学教師は私が試合を申し込むたびに、涙目で打たれ続けた。その報復が授業のときに待っているのである。まあ、一言で言えば、小さな人物であった。

 そんなわけで私は剣道に関しては天狗になっていた。映画版「ドラエモン」では、いつもはダメ人間のノビタが射撃の名人になって「僕は射撃の天才だぞ」というが、私も「俺は剣道の天才だぞ」と思っていた。
ところがである。凄い人物を見た。当時テレビで「ビックリ人間ショー」とかいう番組をやっていた。そこに、「山に篭り数年修行した剣道の達人」が登場した。見た目はまだ二十代前半のようだったが、目付きが異様で、ちょっと目にはキチガイのように映った。
まず桶に一杯の水を張ってリンゴを一個浮かべる。それを水をこぼさずに抜き打ちで二つに切る、というものだ。しゃがんだ男は一瞬にしてリンゴを真っ二つに切り、瞬時に刀を鞘に戻した。少し水が零れたが、審査員の柴田錬三郎が即座に「お見事」と声をかけた。それを見ていて、「俺は居合いはやったことはないが、練習すればあれぐらいはできる」と思った。ところが、次の技が凄かった。
青竹を支えるために二組の椅子を置く。その上に豆腐をそれぞれ二丁重ねる。その上に青竹の両端を置いて、「豆腐を崩さずに木刀で青竹を切る」というのである。まさか、と思った。
そのまさかが本当だった。彼は青竹を木刀で叩き切り、しかも両端の二段に重なった豆腐は動かなかったのだ。正確に言えば豆腐の一つは崩れそうになったがその男が豆腐を元に戻したのである。この場面は再度スローモーションで映された。木刀が当たった瞬間に竹は一枚の紙切れのようにペッタンコになり、その中心が爆発して綺麗に青竹が二つに切れていた。

 これには参った。それで早速私も近くの竹やぶに行って適当な青竹を切り出し、木刀で切る練習をしてみた。私は振り落とす剣のスピードにも力にも自信を持っていたが、とても切れない。力をいれ、早く振り落とすほど、逆に青竹の反発力に弾かれて手が痺れるだけである。ああ、天才とはこういうものか、と思った。私は天狗の鼻をへし折られた。

 ところがである、つい先週、つまりこの達人の技を見て35年後の話だが、藤平光一の本を読んでいて、同じことが出来た、と書いてある。結論を先に言えば「気」で切るのだ。
藤平氏は、合気道創始者で伝説の男・植芝盛平に師事して植芝を超え、ヨガの行者にして哲人・中村天風に師事して天風を越えた、天才型の合気道家である。中村天風に免許皆伝の最後の試練として試されたのが、青竹の両端を紙のワッカに掛けたのを、紙を破らずに、青竹だけを木刀で切る、というものだった。藤平氏は、「先ず気で切ってから木刀で切った」と書いている。
なるほど、と思ったが、いくら読んでもどうすれば気が出るのかは分からない。いや、リラックスすればいい、とは書いてある。しかし凡人がリラックスしたからと言って出来るものではない。おそらくこの技が使える人間は日本に三人もいないだろう。上には上があるものだ。

以上が剣道少年の物語である。初心者には役に立つと思うので、よく読んで覚えておいて欲しい。

後日談を書こう。剣道をやらなくなって40年近く。家には竹刀も木刀もあるが、素振りをしたことは35年間一切無かった。それで先日、木刀を持って近所の公園に行き素振りをしてみた。驚いたことに、振り上げると尾てい骨の真ん中にピシッと切っ先が当たり、スカッと振り下ろせる。全く衰えていない。それで二段打ちも試してみた。なんとスピードも衰えていない。気持ちよくて汗をかくまで木刀で遊んだ。
これはどういうことだろう、雀百まで踊り忘れず、というが、ちょうど自転車が乗れるようになれば、何十年経ってもコツを覚えているのと同じ理屈だろうか。それから無駄な力を入れない、むしろ力を抜いて、大事なときだけ瞬間に力を入れる、というのが極意だから、60歳になっても若い頃と同じ動きが出来るのだろう。

 この腕なら、仮にヤクザが日本刀で切りかかってきても、棒さえあれば簡単に取り押さえられるな、と思った。なにをやるにしても極めないといけない。(ちなみに、宮本武蔵は飛んでいるハエを箸で掴んだと小説では書かれているが、私は箸では捕まえられないものの、飛んでいるハエを物差しで打ち落とすぐらいのことは今でも出来ます)
(見性体験記より)


小野洋子と会った話

2016年11月03日 | 思い出の記

集団ストーカー被害者の方は次のurlを押してください。(決定版が出て、既に増補改訂版を購入された方には無料で差し上げました) http://blog.goo.ne.jp/nadahisashi/e/21522a074264a7eb4afb4fd7df2e6531 決定版は電子出版される可能性もあることをお知らせします。

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また「春名先生を囲む会」は私のHPに別途ページを作ったので次のURLをクリックしてお読みください。http://w01.tp1.jp/~a920031141/haruna.html に最新の「春名先生を囲む会」の写真をアップロードしています。この会の趣旨と目的に賛同されるかたは毎月第三金曜日の午後七時半から誰でもOKですから夢庵西八王子店(平岡町)に来てください。正面を右に進むと座敷がありますからその座敷で待っています。なお、料金について変更があります。お酒の飲めない人は2千円にしましたのでお酒の飲めない人もぜひ賛同者となって「春名先生を囲む会」で講義を聞いたり、また積極的に講義をして下さい。今月「春名先生を囲む会」でも病院でも治らなかった膝や肩の痛い人をその場で治すそうです。心当たりのある方はぜひ参加して下さい。

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 今後、微笑禅の会のネット会報は中止し、年に数度の紙媒体での会報を出すことにします。私がロックフェラーほどの資産家であれば年に5千円の会費は無料にしますが、五行歌の会の主宰・草壁先生の言われる通り、お金を出さないと文化は育たないからです。本当に悟ってみたい人は次のurlをクリックして「見性体験記」をご覧ください。http://w01.tp1.jp/~a920031141/zen.html 入会された方には「微笑禅入門―実践篇」(DVD)を差し上げます。もちろん会員から質問があれば答えますので私のメルアドまで質問を下さい。レジュメも作らず睡眠時間4時間で即興で語っています。DVDはボリュームを目一杯に上げて聞いて下さい。wasaburo@hb.tp1.jp (クリックしてもメールが開かないのでコピーして宛て先に入れて下さい)

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私が大学院生の頃だと思う。このブログでも書いたと思うが、本当は文学部の大学院で詩学を学びたかったのに当時は明治以前の文学しか教えていないと知り、寺山修司のような映像なら演劇映像専修で教えてくれると知ってそこを受験して合格した。

最初にアメリカの実験映画(アングラ映画と呼ばれていた)を見たのは中野にあるプランBというイベント会場だった。その映画は全く人間が出て来ず、道端や壁やクモの巣などを露出も悪く、スラッシュパンニング(思い切り早いパンで映像がブレル)や構図も無茶苦茶だった。(これは戦前の小型映画のオーソドックスな美意識に対する批判から生まれたもの)。それを見てこういう映画もあるのだと知り、通い続けたが、会場には私一人かもう一人がいる程度で、しかも寒く風邪を引いた記憶がある。次いで四谷3丁目にイマージフォーラムがあると知り、これも通い続けたがやはり観客は私一人かもう一人ぐらいだった。

そのころ、草月アート・センターでは前衛的な様々な上映会や展覧会が開かれていた。家元の勅使河原宏も前衛的な映像を撮っていたからである。そこで小野洋子の「踏絵」と題する展覧会とフルクサスグループの上映会があった。この時は10人程度の観客がいたと記憶している。ナムジュンパイクの「映画のための禅」を見た後に小野洋子の「Bottoms」を見ていた時のことである。(ちなみにこの映画はミニマルアートの代表的な作品で、歩いている数人の裸のお尻をカット分けして撮り続けたもので、しばらく見ていると不思議な気分になり、お尻の曲線の微妙な違いに酔いしれてしまう)。私の席の真後ろから宝石のネックレスの揺れる音といかにも上品な香水の匂いが漂って来た。振り返ると小野洋子がお忍びで自分の映画を見ていたのである。手元には「踏絵」のカタログがあるが、その時に小野洋子にサインをしてもらえばよかったと後悔している。(ちなみに私は様々なアーチストのサインを持っているが、中でもつげ義春へ出した手紙への返事は私のお宝である。中野の有名な「まんだらけ」に電話して聞いたところでは本人が生きている内は個人情報になるので売ることは出来ないが、死後なら大丈夫、とのことだった。

小野洋子は安田財閥の直系の娘で、前衛アーチストと2度結婚した後でジョン・レノンと出会い3度目の結婚をした。ジョンの音楽には小野洋子の影響が強くみられる。私は“Lover”の簡素で奥深い曲想などは彼女の影響だと感じる。また“Imagine”は今でもアメリカでは放送禁止だと記憶している。というのはこの曲の歌詞は、キリスト教を否定し、私有財産を否定し、当時イラク戦争をしていた時に戦争を否定しているからである。彼は熱狂的なファンの一人に射殺されたが、これがCIAの工作員だったことは今や常識になっている。

いずれにしてもジョンに影響を与えた小野洋子が私の座った席の真後ろに座ったことは今でも記憶の中に強烈に焼き付いている。

 


堤防釣りをしていて体験した怖い話

2016年10月30日 | 思い出の記

集団ストーカー被害者の方は次のurlを押してください。(決定版が出ました。既に増補改訂版を購入された方には無料で差し上げました) http://blog.goo.ne.jp/nadahisashi/e/21522a074264a7eb4afb4fd7df2e6531 決定版は電子出版される可能性もあることをお知らせします。

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 今後、微笑禅の会のネット会報は中止し、年に数度の紙媒体での会報を出すことにします。私がロックフェラーほどの資産家であれば年に5千円の会費は無料にしますが、五行歌の会の主宰・草壁先生の言われる通り、お金を出さないと文化は育たないからです。本当に悟ってみたい人は次のurlをクリックして「見性体験記」をご覧ください。http://w01.tp1.jp/~a920031141/zen.html 入会された方には「微笑禅入門―実践篇」(DVD)を差し上げます。もちろん会員から質問があれば答えますので私のメルアドまで質問を下さい。レジュメも作らず睡眠時間4時間で即興で語っています。DVDはボリュームを目一杯に上げて聞いて下さい。wasaburo@hb.tp1.jp (クリックしてもメールが開かないのでコピーして宛て先に入れて下さい)

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私が大学院を出て郷里愛媛に妻子を連れて戻っていた頃の話である。私は何事にも集中し始めると徹底的にやる癖があり、山菜収集と堤防釣りには本が書けるほど凝っていた。

特に釣りに関しては宇和海では名人と呼ばれるようになったが、私が得意なのはアオリイカ(地元ではモイカと言う)というイカの最高級のものと、太刀魚釣りだった。おそらくこのブログを検索すれば出て来る筈である。よく人はアジ釣りは難しいというが、あれほど簡単なものはない。味は唇が薄いので柔らかな竿を使ってウキが沈んだらただテグスを張るだけでいい。下手な人はウキが沈むと緊張して釣り上げようとするのでバラしてしまうのである。

ある時夜中の3時ごろまで一人で堤防釣りをしていたとき、ある釣り人がやって来て雑談をしたことがある。私は「よく幽霊を見たという人がいますが目の錯覚ですよね」と言ったところ、相手は真面目な顔で、別の堤防では何人もの人が釣りが終わって帰る時に墓地の中を通るたび若い女性の幽霊を見たというので本当でしょう。と言って帰ろうとした。私は突然怖くなって一緒に釣りを終えて車に乗って帰ることにした。

宇和海に限らずミカンの取れるリアス式海岸は石灰岩で作られているために、山から突然海になるため急な坂道を登らなければならい。その途中にはしばしば墓地があるのである。私が釣っていたのは明浜という釣りの名所だったがそこにも途中の坂道に墓地があった。その話を聞いて怖くなった私はその墓地に入ったとたん、浴衣を着た老女を見て、これが幽霊か、と心臓が飛び出そうになったが、冷静に見ると早起きした老人に過ぎなかった。

フロイトは幽霊など不気味なものを感じる理由を次のように述べている。近代科学では否定された原始的な心象である不老不死(普段は無意識の底に眠っている)を刺激するときに不気味な感情が生まれるのであると。

何故か幽霊は美人がおおい。お化けは土地に住み着いた呪縛霊らしいが、幽霊はお菊さんにしてもお岩にしても何故か美人ばかりである。私はもし幽霊が存在するのなら不老不死の証拠なので逆に嬉しいと思う。もしお菊さんが出てきたら一緒に酒でも飲みたい気分である。

 


瀬戸弘幸さんと鳥肌実の講演を見に行った話

2016年10月29日 | 思い出の記

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また「春名先生を囲む会」は私のHPに別途ページを作ったので次のURLをクリックしてお読みください。http://w01.tp1.jp/~a920031141/haruna.html に最新の「春名先生を囲む会」の写真をアップロードしています。この会の趣旨と目的に賛同されるかたは毎月第三金曜日の午後七時半から誰でもOKですから夢庵西八王子店(平岡町)に来てください。正面を右に進むと座敷がありますからその座敷で待っています。なお、料金について変更があります。お酒の飲めない人は2千円にしましたのでお酒の飲めない人もぜひ賛同者となって「春名先生を囲む会」で講義を聞いたり、また積極的に講義をして下さい。月の「春名先生を囲む会」でも病院でも治らなかった膝や肩の痛い人をその場で治すそうです。心当たりのある方はぜひ参加して下さい。

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 今後、微笑禅の会のネット会報は中止し、年に数度の紙媒体での会報を出すことにします。私がロックフェラーほどの資産家であれば年に5千円の会費は無料にしますが、五行歌の会の主宰・草壁先生の言われる通り、お金を出さないと文化は育たないからです。本当に悟ってみたい人は次のurlをクリックして「見性体験記」をご覧ください。http://w01.tp1.jp/~a920031141/zen.html 入会された方には「微笑禅入門―実践篇」(DVD)を差し上げます。もちろん会員から質問があれば答えますので私のメルアドまで質問を下さい。レジュメも作らず睡眠時間4時間で即興で語っています。DVDはボリュームを目一杯に上げて聞いて下さい。wasaburo@hb.tp1.jp (クリックしてもメールが開かないのでコピーして宛て先に入れて下さい)

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 私が行動する保守のメンバーと一緒に「東村山市議暗殺疑惑事件」を追求していた頃の話である。ちなみに、どのサイトを見てもこの事件を行動する保守のメンバーに持ちかけたのが私であることは出てこない。中田聡の発言に瀬戸さんが興味を持ったから、などというバカなサイトもある。その後の私の窮状から、私がこの事件を追求する起案者だったことを隠したいからだろう。私がこの運動をしなくなったのは突然妻子が失踪し心痛の余り入退院を繰り替えすようになったことと、もう一つの理由があるが、これは多分日本で私の他には日本で2人しか知らないだろう。

私は元々鳥肌実のファンでyoutubeだけでなくCDを購入して楽しんでいた。例のヤマザキパンのシュールな冗談の頃からである。彼は絶対にテレビでは取り上げることの出来ない危険な芸人として知られていた。それは創価学会ネタがメインだったからだ。一つの逸話として本物の右翼が鳥肌実に「お前はいい度胸をしているからうちの右翼に入らないか?」と呼びかけたところ鳥肌は膝を振るわせて「あれは芸ですから勘弁してください」と言ったらしい。

普通は鳥肌実ショーのような名前が付くが、彼の場合は「鳥肌実 時局大演説会」と言った大げさな名前がついている。私は瀬戸さんに彼の芸を見せようと思い彼の所属する小鳥事務所に電話を掛けた。場所は靖国会館だった。ところが一人分のチケットはあったが、もう一人分のチケットは売り切れていた。そこで私は小鳥事務所の事務員に「どうせ鳥肌実のネタは瀬戸さんと私のブログから拾っているのだからどうにかするように」というと、当日靖国会館の受付に行って名前を言ってください。必ずキャンセルする人がいますからそのチケットを用意しておきます、と言われた。

私は瀬戸さんと連絡を取り合って靖国会館に行くと小鳥事務所が云ったとおり二人分のチケットが用意されていたのでそれを買って会場に二人で入った。満員だったので、瀬戸さんは一階に私は二階に座ることにした。面白いことに全員が入るとスタッフが会場の鍵を外から全て閉めてしまうのである。

最初の方では鳥肌実はエロネタで若者たちを笑わせていた。例えば、この前シナに行った時、ホテルの部屋を訪ねて来たチャンコロのお姉さんをバックから攻めて、と言って腰を動かすような芸である。それから鳥肌実の真骨頂が発揮される。ビールを入れるケースの上に立ち「伊丹十三を殺したのは誰だ」と叫んだあとで「創価だ、創価だ、創価だ、創価だ」と連発するのだ。若者たちは大笑いして一緒に連呼していた。

この後援会の途中で瀬戸さんの支持者の店に行くことになっていたので、私は瀬戸さんに携帯をかけて外に出ようとしたが、鍵が外からかかっているので外に出ることが出来ない。そこで再度小鳥事務所に電話して鍵を開けてもらった。瀬戸さんは根が真面目なので、「最初のあのエロネタはどうにかならないかな?」と言うので私は「若者の笑いを取るにはあのネタが必用なんですよ」と答えた。最初の頃の鳥肌実は痩せていたが売れるにつれて貧乏だった時に粗食だったのだろう、グルメになりどんどん太っていった。

 

そこからはタクシーに乗り、瀬戸さんの支持者が経営する料亭に連れて行ってもらった。フグのキモが美味しかったのをよく覚えている。その支持者は「全てを在日のせいにするんですよ」と瀬戸さんは前もって教えてくれたが、話を聞くとその通りで、怪しげな情報はすべて在日のせいにしていた。もちろん飲食費は全てタダだった。瀬戸さんぐらい有名になるとこうゆうスポンサーが何人も付くのだと感心したものである。

続いて近くにあるイベントパブに連れて行ってもらった。そこには50年代から60年代のアメリカの車や俳優、フィギアなどのコレクションがあり、お金に換算すると数億はするだろうとオーナーが案内しながら教えてくれた。女性がステージで歌を歌った後に客の横に来てお酌をするという形態の店で、これはこのブログでも紹介したシネマハウスと同じである。瀬戸さんは小林旭のファンでB面にあるマニアックな歌を歌っていた。また小林旭が事業に失敗して(確かゴルフ場を経営した時のことだと思う)家財道具を処分したときにある縁故があり、小林旭の高級なスラックス10数本をもらったと言って見せてくれた。銀座のテーラーが作ったもので、それを瀬戸さんの身長に合わせて少し短くしてあったが、裾の部分に鉛が入っているので常に皺が出来ないようになっていた。街宣などで人前に立つときには必ずそのスラックスを履いていたものである。

現在は在特会の問題がネックになって交遊はしていないが、もともとは思考の柔軟な人なのでいずれは逢いたいものだ。